松本典子歌集『せかいの影絵』
自分やご家族を詠んだ歌も海外の時事を詠んだ短歌も多いのですが、海外の昔の出来事が題材でも家族の歌と同じくらい、その場にいたのではと思うほど対象に細部まで寄っているのが印象的でした。
また、対象は違えども、私も「この人に先立たれたら私も生きていけない」と思うくらい大好きなアーティストがいるので、『せかいの影絵』収録の松本典子さんの三浦春馬さんへの挽歌とあとがきは胸に迫りました。
松本典子さんの『せかいの影絵』は言葉の強い短歌が多く、歌集の中で一連として読む分には気にならないのですが、引用すると良さが半減する歌が多い気がします。好きな歌を紹介しますが、歌集単位で読むことをお勧めします。
いつそ心をもたない果実だつたなら LINEで売り買ひされて女たち 松本典子『せかいの影絵』
シンガル地方を追われて難民になったヤズディ民族をめぐる一連より。女性が人身売買というのはまあそういうことなんでしょうけれど「果実」という言葉の斡旋に主体の優しさを感じます。
スケボーで跳べば影さへ地をはなれ逆光にきみの黒きシルエット 松本典子『せかいの影絵』
一連はヤズディからアメリカでの人種差別へと移り、その後に置かれた歌。スケートボーダーは影さえ残すことなく、がんじがらめの地上から空へと脱出しています。
くちびるの薄い男のやうな雨しやうしやうと香港をせかいを覆ふ 松本典子『せかいの影絵』
香港民主化デモをめぐる一連より。小説や映画だと、唇が薄い男性って薄情な役が多いですよね。「しやうしやうと」がまた情が薄そうです。
一本いつぽん檣のロープ断つやうにアカウント閉ぢ逝きし君はも 松本典子『せかいの影絵』 檣=ほばしら
三浦春馬さんへの挽歌。帆船のマストをや帆を支えるロープを切れば航行不能ですが、アカウントを閉じる行為も同様なのでしょう。終助詞「も」にファンとしての万感が込められています。
きみの声もことばも笑顔もすべて蔵ふスマホといふ墓にぎつて眠る 松本典子『せかいの影絵』
こちらも三浦春馬さんへの挽歌。生前、ファンとして写真や動画を保存していたのでしょう。実際の墓参に行けないファンにとっては、生前の元気が姿が詰まった自分のスマホが墓であるというのが痛切です。
紙おむつの背なかに名前と電話番号書いて祈れりウクライナの母たち 松本典子『せかいの影絵』
海外の時事を詠んだ短歌は新聞やテレビの報道をなぞっているだけという印象を与えがちですが、この歌がそこに止まらないのは、紙おむつに書いた名前と電話番号という細部描写の力だと思います。
ひときは寒いこの冬を燈すものとして手のひらにつつむ赤いマグカップ 松本典子『せかいの影絵』
妹さんの闘病の一連より。寒さは単なる気温の問題ではなく、不安や寂しさや無力感等あらゆる感情が体感となって現れたものだと思います。温かな飲み物を入れた暖色のマグカップが、心の拠り所のようです。
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