濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』

濱松さんと個人的な付き合いはないのでご本人の人となりは存じませんが、作中主体としては、文学や音楽に対する知識や教養があることで、他者からの抑圧を必要以上に敏感に認識してしまい、常に強い鬱屈を抱えている生き辛い人という印象を受けました。
私は、明るく前向きなものより閉塞感が渦巻いている短歌の方が好きで、かと言ってあまり豪速球ストレートで感情をぶつけられるのも苦手なので、濱松哲朗さんの『翅ある人の音楽』の端正な文体に制御された鬱屈感はとても良かったです。好きな作品をいくつか紹介します。

倚りかかるほどにふたりは森となる雨はゆつくり産みなほされる   濱松哲朗『翅ある人の音楽』
寄り添うではなく「倚りかかる」なので、共依存関係の二人の自我が曖昧になり、一体として森になるという印象を受けました。水蒸気から雨雲になり雨となる大きな循環は、森を肯定しているのでしょう。

泣き言の水位を思ふ 縋り付くやうにSNSを眺めて   濱松哲朗『翅ある人の音楽』
転職活動中の一連より。SNSで泣き言を呟くとスッキリしたり、顔も知らない誰が甘い言葉で慰められたりしますが、そこに浸っていたらそれこそ溺れてしまいます。主体は分かっていても一時的な慰めを求めてしまうからこそ、水位を気にしているのでしょう。

お宮参りの写真ながれて疎遠とは「いいね」ばかりを送り合ふ仲   濱松哲朗『翅ある人の音楽』
主体は非正規雇用で収入が安定しない状態ですが、同級生には既婚で子どももいてSNSにお宮参りの写真をアップする人もいます。コメントする気にもなれなくて儀礼的に「いいね」だけ押しているのでしょう。

此処にゐる私はわたしではなくて幾らでも云ふ御礼くらゐは   濱松哲朗『翅ある人の音楽』
多分、自分の意に沿わない状態で(勤務中?)立場上、全く感謝などしていない相手にお礼を言わざるを得なくて、あまりのストレスで精神が解離している状況と読みました。

学名は諡に似て標本のイタリック体こゑを持たざる   濱松哲朗『翅ある人の音楽』
標本ですから生物は既に死んでいるということです。学名は生物が生きていた頃に一般の人から呼ばれていた名前と異なるもので、標本に付された学名が諡に見えたのでしょう。

副業を持てと謳へる広告のSNSにばたばたと降る   濱松哲朗『翅ある人の音楽』
多分、主体は本業の収入だけでは心許ないと思いつつも、本業だけで心身とも疲れ果てていて副業をやる余裕などないのでしょう。「降る」という動詞の絶望感に惹かれました。

ほほえみのかたちのままに生き終へて逆さ吊りなるドライフラワー   濱松哲朗『翅ある人の音楽』
ドライフラワーが吊るされる様子は、聖ペテロの逆さ磔刑を連想させますが、美しい形を保ったまま乾燥させられる花を「ほほえみのかたちのままに生き終へ」と表現することで、さらに残酷さが際立ちます。

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