松村正直『踊り場からの眺め』

2011年から2021年までに書かれた短歌時評集です。内容が多岐にわたっており、一冊を通じて何かしっかりとした系統を立てて意見を述べるというのは難しいので、私が興味惹かれたいくつかの箇所についてなんとなくぼんやりと思った感想を思いついたままに書きます。

「震災から三年を経て」
東日本大震災の避難者をめぐってのあれこれについて、何人かの歌人の文章を引用しています。下手に言及すると一触即発な問題なのですが、私は「避難者」という大きな括りで論じるのは無理だと思うというか、それぞれ個々の言動などを見て、この避難者に対しては悪い感情は抱かないけれど、この避難者には悪い感情を持っていると言うのは当然あると思います。(少なくとも私はあります。)その結果として抱いた悪い感情について、長い時間をかけて自分自身で内省して、考えを変えたりさらに悪い感情を強くしたりということはあると思いますが、悪い感情を抱いたり失くしたりすることについて、他人が良し悪しの評価をして公に言うことではないと思います。

「地域性、風土性」
「地方に住んでいる方から、しばしば「私の住んでいるところは田舎で、短歌に詠むようなものが何もない」といった話を聞くことがある。でも、多分そうではないのだ。その土地に住む人にとっては何でもないような生活の細部や見慣れた景色といったものが、実はその土地以外の人にとっては新鮮で豊かなことが多いのである。」(『踊り場からの眺め』84ページより)
これはまったくもってそのとおりだと思います。
私は澤俳句会という俳句結社に入っており、以前、この結社の鍛錬会が福島で開催されたことがありました。隣の宮城県在住の私としては、福島はしょっちゅう行っているけれどそんなに宮城県との違いを感じて「おおっ」と思うようなこともないし……と思っていました。
この時の句会の中で、遠方からご参加の方が、欅が黄色や赤に紅葉するという内容の俳句を詠みました。私にとって欅の葉が赤や黄色に色づく光景は日常的に見慣れたものでしたが、小澤實主宰が「東京の欅は赤くも黄色くもならず、茶色くなって落葉する」という趣旨のことをおっしゃったのを聞いて「実は珍しいものだったのか」と驚きました。多分、その土地の人間にとっては当たり前の日常生活でもよその土地の人から見れば羨ましいほど豊かな自然や風俗があって、そこに気づくかどうか次第なんだろうと改めて思いました。

「どんな脚色も許されるけれど」
「歌を始めて日の浅い方から「短歌は事実しか詠ってはいけないんですか」と聞かれることがある。」という文章から始まり「どうやら事実か虚構かの二分法で考えているらしい。でも、事実と虚構はそんなに明確に分けられるものなのだろうか。」という問いに発展します。(『踊り場からの眺め』108ページより)
実際、短歌を詠んでいる方ですと「現実にあったことは◯◯で、短歌では□□と書いているけれど、でもまったく嘘ってわけではなくて、そこで△△な感情が生まれたことを書きたかったから、話をわかりやすくするために途中を端折って□□と書いた」というようなことはよくあると思います。
有名な例だと、斎藤茂吉『赤光』の「悲報来」で、深夜、伊藤左千夫逝去の知らせを聞いたという内容の文章があり、「予は直ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。」と書かれています。そこに、「ひた走るわが道暗ししんしんと怺へかねたるわが道くらし」で始まる一連があります。普通に読めば、茂吉は赤彦宅まで全力疾走したように読めますが、後年の研究では、実際には何かの乗り物で行ったようです。ではこの歌が事実そのままではないから虚構かと言えば、夜中に茂吉が大慌てて赤彦宅に駆けつけたのは本当でしょうから、虚構とまでは言えないかと思います。
そういうことを口で言うのか簡単なのですが、実際に誰かの作品を鑑賞するときには、意識的に心がけないと「事実か虚構か」のニ分法に陥りがちで、充分気をつけようと思いました。

「方言、共同体、死者の声」
高木佳子さんの評論「東北という空間が容れるものー〈私〉から共同体への変遷」を紹介して、「高木は震災後の歌に〈私〉という「個」の姿が薄れ、「みんな」「ふくしま人」「吾ら」といった表現が増えていることを述べる。」と書いています。(『踊り場からの眺め』202ページより)
何故「私」「個」の姿が消えて共同体が主語になったのか?もちろん、色々な要因が重なった結果だろうとは思いますが、私は自分の周りで多くの人々が甚大な被害を受けている中で、「私」「個」としての思いを外に出すことに対する罪悪感が大きな理由だと思います。家族を亡くした人の中で、私が家を失って悲しいという歌が詠めるか。家族が行方不明の人の中で、私が家族の遺体を前にして悲しいという歌が詠めるか。まして、福島となればそこに原発事故に伴う事情も絡んでくるわけで、その中で殊更に「私」「個」を主張する歌は詠みにくいのは当然だろうと思います。そうやってあれこれ考えてゆくと、最善の方法は一切何も語らずに死ぬまで口をつぐむことではないかとも思うのですが、それでも何か詠もうとなれば主語を「私」ではなく共同体にすることで罪悪感から逃れられるのだと思うのです。


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