下積み時代の話⑤

嫁の実家に向かう車中。嫁のお母さんになんて話を切り出そうか、そればかり考えていた。親父さんは俺たちが付き合って半年、交際の挨拶をしにいったのを最後に死んだ。末期癌だった。まだ歳も若かったはず50前半だったと記憶している。親父さんが亡くなったときもお母さんは凛としていて、泣き崩れるような姿を見せる事はなかった。余命宣告もあったから覚悟はできていたのかもしれない。あんまり笑うことも少なくて少し苦手だった。親父さんが亡くなった後にお母さんに結婚の挨拶をした。娘さんを下さい、幸せにします。ドラマでよくみるベタな挨拶をしたのを覚えている。守れなかった約束。なんと言われるのか。その時はそればかり考えて、今までの結婚生活の思い出がぐるぐる頭を駆け巡った。

夜の8時くらいだっただろうか、他の家庭なら晩御飯を食べて家族と過ごしている時間。俺は何度もきた嫁の実家の家の前で複雑な心境でいた。やっぱり嫁の車はある。カメラ付きインターホンを押す。1回、2回。灯りは付いているのに反応がない。3回目。お母さんがでて一言。はい。とだけ言った。〇〇は居ますか?電話が繋がらなくて。インターホンに顔を近づけながら早口ぎみに伝える。少し間があいて、会いたくないと言ってます。とだけ言われた。とにかく話をさせてくれと伝えても、その日インターホン越しに嫁が出てくる事は無かった。後ろで聞こえてくる子供達の声が聞こえて、虚しくやるせなかった。

結局何も話せぬまま、ポストに20万だけ入った封筒を入れて家に帰った。会えないとは思ってなかった。こんなことになるなら手紙のひとつくらい書いてきたら良かったと後悔した。家に帰る途中、嫁にラインをする。既読がつくことは無かった。いつになったら戻ってきてくれるんだろうか、その時ですらまだ事の重大さに気づいてなかった。

仕事は順調だった。とにかく必死に何でもやった。工務店の社長は全面的にバックアップしてくれた。当面は金も無いだろうと、部材も売り掛けで買える電材屋さんを紹介してくれて現場の労務費も出来高で払ってくれた。最初は本当にギリギリでやりくりしていたから助かった。工務店の担当さんとも仲良くなり、見積もりの作り方や請求書の出し方、ハンコを安く作れるサイトや、屋号を出して事業者登録をするやり方。工事保険の担当さんまで紹介してくれた。まさに手取り足取り教えてもらった。歳が近かったからウマもあった。お酒の好きな担当さんで、現場が完成するたびに社長から予算預かってきてますんでと言いながら居酒屋に連れていってくれた。今でも仲良くさせてもらっていて、お互いに立場も変わったが、酔ってくると必ず初めて会った日の必死だった俺の真似をしてちゃかしてくる。仕上がりや現場の作業についても、ダメなものはダメとはっきり言ってくれた。本当に周りには支えてもらったしラッキーだったと思う。工務店だけでなく、あの日持ち出してきた受注書の会社さんは一度は現場を任せてくれた。工具を取り合ったあの日、仲間と同じように一緒に争っていたら今の俺はいない。ムキになっていたらきっと救急車に乗っていたのは自分だったかもしれない。あらためて思うがあのときは本当に冴えていた。みんながパニックになっている中でどうすれば解決できるのか冷静に考えれていたから。仲間内で連絡をとりあっていたからか次第に仲間が増えていった。人数も増えて、ある程度でかい現場がきても収めていけるし、現場が被っても対応できるようになった。売り上げはみんなで仲良く分けよう。口癖のようにみんなを鼓舞して率先して作業も打ち合わせもした。仕事で忙しいほうが余計なことを考えなくて楽だった。

仕事が忙しいと理由をつけ、お母さんにも会いづらくあの日以来嫁の実家には行ってなかった。封筒を入れて帰ってきたあの日から1ヶ月、またお金を渡しに嫁の実家へ向かう。今回は30万あった。給料を渡す大義名分があればまだ会いやすい。金額も増えてるしほとぼりも冷めて一緒に家に帰ってくれるかも。楽観的に考えていた。タイミングが悪かったのか灯りはついていなく、車も無かった。その日はお金だけ入れて家に帰った。

ある日、仕事を終え家に帰ると封筒が届いていた。弁護士事務所からだった。中を開けると離婚調停のお知らせだった。目の前が真っ暗になる。中には以後連絡は弁護士を通して連絡してくるようにと書いてある。すぐに電話をしたがその日は時間が遅かったのか繋がらなかった。順調な仕事とは裏腹に家庭のほうは最悪な方向へと進んでいた。


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