見出し画像

「助けて」が言えなかった

(木漏れ日散歩道第12回)

今日の分の「メンタルヘルス・マネジメントⅢ種」の試験勉強を終え、ふと考えたことがあります。

「僕がメンタルヘルスでやらかした最大の『しくじり』は何だろう?」

自分が精神的におかしくなったターニングポイントは3つ。最後の1回を除き、僕が言えなかった言葉は「助けて」でした。


1回目:突然億単位のプロジェクトの責任者に

当時システム開発部門の責任者をしていました。億単位の金をかけてシステムを再構築することになり、さらに信頼できる上司がマネジメントをしながら進めていたのですが、何かの事情で突然外れてしまい、自分が一番上の責任者になってしまいました。当時まだ30にもなってない若造ですよ。

「何かの事情」は恐らく「権力争い」で会社の上層部に「開発推進派」と「開発中止派」がいたらしく、僕はその板挟みに遭いました。ただでさえ責任の重い仕事に「板挟み状態」。この「板挟み」状態に対して「助けを求める」ことができず、余分なストレスを抱え込むことになりました。

長時間労働(残業時間が月130時間超え)も重なり、「虚血性心不全」に至りました。入院期間中2カ月の開発が停止し、退院後に入院期間中の後輩への「いじめ」も発覚し、くっちゃくちゃな状態で最終的に6カ月システム開発は遅延、後輩2人がうつ病、僕も双極性障害発症、遅延損害が3000万という異常事態になりそこではじめて「役員」が動きました。

このときは「助けて」を言う相手がいませんでした。言うとすれば、その「役員」に言わないといけなかった状態。入院期間中に何の手も打ってくれなかった直属の「上司」(ぶっちゃけ飾りでしかなかったけど)がせめて人間関係にでも介入してくれたら、そして上層部の「権力争い」がなければこんなことは起きなかったかもしれませんが、それを今更言ってもね。


2回目:東日本大震災の対応

震災当時、学習塾の賃貸契約管理やメンテナンスを責任者として担当していたのですが、自分も担当がありその担当が東北地方。津波で建物が流され、貸主と連絡が取れない、津波の浸水の関係で内装を全部やり直す、経験したことがないようなことに次々襲われました。

そのときの最大のしくじりが「全部ひとりで抱え込んでしまった」こと。そのあたりから双極性障害が一気に悪化していき、上司の指示で秋に一度「休職」することになったのですが、その2か月間の休職ではどうしようもならず、復職後も徐々に再発していきました。

メンタル的に追い込まれれば追い込まれるほど、「助けて」が言えなくなるもので、仕事はどんどんできなくなっていき、周囲からは冷たい目で見られ、職場の雰囲気も悪くなり、居場所を失い出社できなくなり、最後は自殺未遂をして再度「休職」(1年間)しました(結局復帰できなかったんですが)。

ちなみに、「東日本大震災」後に「精神障害3級」に認定されましたが休職後の更新時には「2級」に等級が上がっていました。


3回目:突発性難聴にはじまる病気の連続

これは昨年来、現在進行形での話です。

昨年1月に「突発性難聴」になり、左耳がまったく聴こえなくなりました(音圧だけは感じている感じ)。以来、2月には背中の膿だまり、3月には一時的に精神状態の悪化(コロナ禍による)、4月に橈骨神経麻痺。6月~7月に心臓の血管が細くなっていることによる手術、7月下旬~8月にかけて左耳の中耳炎(入院の可能性のあるレベル)、そして9月に「左耳の聴力の回復の見込みは薄い」との最終診断が下されました。

「突発性難聴」になったときはそこまで精神的ダメージはありませんでしたが、病気の連続で次々と精神的にダメージを削られました。

一番のインパクトは「心臓の手術」で入院したとき。ベッド上安静で見上げる天井にいくつもの点滴。1回目のときの「入院」を思い出し、そこから幼少期にさかのぼってこれまでの嫌な思い出が次々とフラッシュバックするようになり、「左耳の聴力の回復の希望」が否定されたことで「精神崩壊」は加速度的に進みました。

ただ、今回は「助けて」を言えるパートナーや親友もいます。こちらから「助けて」を言わなくても「アドバイス」をくれる親友や仲間もいました。エールを送ってくれる仲間もいます。

仕事が難しいことで起きる経済的な問題は親に助けを求め、支援してもらっています。

今回は自分のからだの機能を突然ひとつ失うという今までで一番過酷な状況です。事実、フラッシュバックはおさまりましたがまだまだ頓服薬は手放せず、「平常運転」には程遠い状態です。

それでも、今回「生きる道標」を見つけ、少しずつでも前進できているのは「助けて」をちゃんと言えたからだと思います。


「助けてもらう」から「支える」へ

「エールを送ってくれる仲間」には今もエールをもらい続けています。それは直接的であれ間接的であれ。ただ、現在はその仲間の活動を支えることもしています。結果が出ているかどうかは判断がつきづらいですが(笑)。

パートナーや親友も、「愚痴」を聞いてあげることで「支え」になっているようです。「愚痴」も「助けて」のサインなのかもしれません。

そして、この1年で「防災」と「カラーセラピー(こころの健康)」に本格的に取り組み始めました。顔は見えませんが、誰かの支えになってくれていればいいな、と思います。

「助けてもらったから今度は自分が助ける番」とかそういうのではなく、できるときに、できることで「支える」ことをしていれば気持ちは通じると思っています。「常に支えあえる」が一番の関係だと思っています。


「助けて」=「意思表示」

この1年でいちばん変わったことは、「意思表示」をするようになったことです。「自分はこう考えているから、こうする」というのを以前よりハッキリと口に出すようになりました。

「助けて」もまた意思表示のひとつだと思います。

じゃあ、2回目(震災の後)に「助けて」が言えなかったのはなぜなんだろう。

「責任者」という立場で変なプライドのようなものがあったのかもしれませんし、「意思表示」できるほど周囲を信頼していなかったのかもしれませんし、「嫌われたくない」という思いもあったと思います。

「プライド」と、「嫌われたくない」かなぁ。

今はプライドを持つものは何もないので、そういう意味では自由です。

そして、「助けを求めることは迷惑をかけることになる、つまり嫌われかねない」、こういう思考があったんだと思います。

そりゃ嫌われたくないのはそうですが、自分が「意思表示」した結果嫌われて去ってしまうならそれは仕方ないよね。人間、いろんな考えがあるから。

「助けて」と言われて迷惑だと思って去る人間がいるとすれば、そもそもその人間と繋がっている意味を疑ってもいいですよね。


あのとき「助けて」と言ってたら今置かれている状況が劇的に変わったかと聞かれたら、「そう変わらないですね」と言うと思います。でも、精神状態はもう少し良かったかもしれません。

でも、「助けて」を含め「意思表示」できる人間になりました。また、意思表示のできる自分を見失わないようにしていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?