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「弱者」どうしを比較する無意味さ

こんばんは、ゴリィです。僕がどんな人間かは僕の公式サイトをご覧ください。

現在、精神的に参っています。これは訪問看護師(会社名は明かしません)の嫌がらせや不手際でどんどん僕の「精神」と「時間」を削られているのが主要因です。というところから今回の話です。


こころの「傷」は比較できない

時々、「私は通ってきた修羅場の数が違う」自慢をしている人を見かけます。今日もTwitter上で見かけました。まるで今弱っている人達を上から目線で叩いているようにすら見えます。

僕は他人の意見も尊重するほうですが、このことだけは明確に「違う」と思っています。

まず、誰しもがこころに傷を負うことはあります。それは一時的なもの(挫折)とかであれ、僕のように「虐待の傷」を一生引きずるものまで。

でも、僕が一時的な「挫折」をしている人を見て、「俺の方が心の傷がふかいんだ、甘えるな」みたいに攻撃することは違うと思っています。それぞれに生い立ちがあり、人生の中で育まれてきた「こころ」に傷を負うきっかけや、その深さはその育まれた「こころ」のどの部分に引っかかるかで反応が変わるからです。

パチンコで、「今日いくら負けた」「俺なんてもっと負けたという「負け自慢」をする光景はよく見られますが、それくらい今心に負っている傷について比較して「自分の方がもっと大変な思いをしているから偉い」と上から目線を取る行為は、パチンコの負け額自慢並みに無意味なことだと考えています。

じゃあ、あなたはその比較対象としている人の「痛み」をどれだけ理解していますか?


訪問看護の話に戻って

冒頭の「訪問看護」の話に戻って、「そんなことで精神的にやられてるの?」と思う人が必ずいると思います。しかし、「教師から酷い虐待経験を受けた過去がある」と聞いたらどうですか?

それでも、「そんなことで甘えてるんじゃない!」と思った人とは縁を持つつもりはありません。一生、分かり合える関係になるのは難しいからです。

同じように、つらい病気と向き合っている方は多くいらっしゃいます。僕は、その方の個別の事情に寄り添ってお付き合いができればと思っています。でも、それが無理な人はいるようですね。これは、今までどんな関係だろうと縁を切ります

話がそれましたね。

訪問看護師の話は、数年前にさかのぼります。ある訪問看護師が「寝る前」の薬に「夕食後」の薬を誤ってセットする「医療過誤」が起き、寝る前に薬に含まれる「むずむず脚症候群」で仕事もできない、生活もままらないとして金銭補償を要求し、会社の役員と話すまで問題が発生しました。

その後も、その訪問看護師の問題行動は繰り返され、「人の話を聞かない」「部屋を勝手に漁る」(これは人権侵害の可能性)「パソコンのキーボードの上に平気でものを乗せる」などの問題行為が見られました。

そして、僕が拒否していることを無理やり押し付ける行為が5月下旬にありました。立場の強い人間が弱い人間が拒絶していることをやる、これは嫌が応にも古傷を思い起こさせるきっかけになりました。

さらに、別の訪問看護師が「1ヶ月分以上余っている薬を調整しよう」ということで「この薬だけもらって」とリストアップしてくれたのですが、1つの薬に漏れがあり、「薬を取ってきて」と言われ、予定を変更して病院に薬を取りに行かされました。

実は、「残薬」の話は1ヶ月ほど前に例の訪問看護師に確認を依頼したところ、「残薬はない」という回答でした。その後それほど間を置かずに今回のことが発生したことで、問題の訪問看護師が「役員レベルの問題になるほど薬の管理の改善を求められたのに、何も変わっていなかった」という話になり、これは重大案件として話さなければならない問題だと思っています。


経験したからこそ

「役員が登場するほどの配薬ミス」(医療過誤)を起こされていた、そして仕事もままならず眠れない夜を過ごさざるを得なかった、という過去の経験を知らないと、今回の話も「なんでもない話」になります。

過去の医療過誤でお金(働けない)、信頼(仕事ができない)、時間(いろんな人が来てその応対に追われる)といろいろなものを僕から奪っていきました。

その過去を知っているからこそ、今回の件も「お金」(2か月間のストレスでの休業)、信頼(轟RADIOの訪問数半減/依頼を受けているオルゴールアレンジの納期の問題)、時間(病院に行く、また応対の時間を取られる)ことは明白でそのこと自体が心労です。

ここにこころを至らせずに「私は修羅場をもっとくぐってきているからこんなことで病んでいるのは甘い」と批判する人間とは絶縁します。

繰り返しになりますが、人生経験が違う以上「こころの問題」のどこに傷がつくのかは人によって本当に違いますし、これは本当にデリケートな問題だと思います。

別に僕は「教師に虐待を受けてきたから人よりひどい目に遭っている」というのは(現実的にそうだったとしても)自慢するつもりはありませんし、誰かと比較して「僕のほうが酷い目にあっている」、というつもりもありません。


自分が痛みを味わったのなら・・・

これはまとめになりますが、もし、「私は痛みを味わった」「日常生活に生きづらさを感じている」と感じている人こそ、他の人の痛みに想いを馳せてあげる必要があるのではないかと思います。

そういう自分も、「私の方が酷い目に遭っている」という上から目線をしてしまう方の気持ちを考えた場合、「激しい劣等感」を感じる経験や困りごとがあり、それを補うため「マウントを取る」(弱いものの世界で上の立場に立とうとする)気持ちがあるんじゃないかと思います。

でも、そうして何が得られますか?

自己満足」なんですよね。「自己満足」を満たすために次の弱い立場の人間を探して攻撃して「自分が上」という立場を崩さない。

疲れませんか?

今回は「自分が弱者の中で上に立ちたい」と思っている人自身のこころの健康を守る意味も込めて、「弱者の中で上下関係を考えるのはやめよう」という話でした。

今回も最後までご覧くださいましてありがとうございました。

轟RADIO1「こころいろ」

https://gory.jp/koko


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