劇団四季ミュージカル「ノートルダムの鐘」京都公演 感想

初めての四季ノートルダム観劇、脚本と音楽の完成度がとにかく高かった。もうそれに尽きると言ってもいいほど。

音楽について

作曲家はもちろんディズニー音楽で知られるアラン・メンケン。この名前を見てまず音楽にハズレはないだろうと思えた。

いくつかの曲については事前に知っており気に入っていた。しかし実際に劇場で観てみると、登場する曲の全てが作曲家の心血を注いだ作品であるとわかる出来。ひとつとして印象の薄い曲はなかった。

脚本について

「愛は宿命を変えられるか」というテーマが掲げられているこの作品は、登場人物のそれぞれが背負う宿命を辿りながら進行していき、その時々でエスメラルダを取り巻く様々な愛が描かれる。個人的な答えを言ってしまえば、愛は宿命を多いに変えたと思う。良くも悪くも。

第一幕

この劇は大部分は「オーリム」の後の「ノートルダムの鐘」という曲から突入する劇中劇の世界で繰り広げられる。この外枠があることによる意義は何なのか。これについては最後に考えたいと思う。

先述の通り私は事前に幾つかの曲について知っていて、その中には終盤に登場する曲「石になろう」も含まれた。カジモドの最期をぼんやり知っていた私は、序盤の「陽ざしの中へ」の時点で既にボロボロ泣いていた。カジモドの辛い境遇と唯一の友達と言えるガーゴイル達との会話、育ててくれたフロローに従って健気に生きる様に涙腺は耐えられなかった。

世間の怖さを改めて知り、大聖堂から街を見下ろすことしかできないカジモドに救いの光を与えてくれたエスメラルダの慈愛の心、それはまさしく、劇中に名前のみ登場する聖母マリアを彷彿とさせるものだった。その後の「天国の光」でも当然のごとく涙。全編を通してカジモドが最も幸せな場面であったと思う。

そんな聖母マリアのようなエスメラルダに心揺さぶられている人物がもう一人、大助祭フロローだった。ジプシーを忌み嫌うフロローにとって、神を信じ救いを求める心の残っているジプシーで見た目も美しいであろうエスメラルダには惹かれるものがあったのだろう。このあたりからフロローは自身の強い信念とそれに反して湧いてくる思いとの葛藤に悩まされ、様子がおかしくなってくる。

少し話は逸れるが、これらの場面の間に挟まれるカジモドとフロローの大聖堂内での場面がなんとも良い。フロローがカジモドに話を聞かせ勉強させる場面である。カジモドはフロローの話に興味津々で、フロローもまたこの時ばかりはどんなに切迫した心情のときも心からカジモドを思っているのが感じられる。何度か繰り返されるこの場面のキーワードは聖アフロディジアス。この場面があるとないとではフロローの印象は大きく変わってくるだろう。

話を戻して、フロローは葛藤のあまりに暴走してエスメラルダを捕らえることに奔走、第一幕の最後の曲「エスメラルダ」へと突入する。フィーバスもまたエスメラルダの慈愛と美しさにあてられて順風満帆の人生を捨てる。フロローがフィーバスを解任し「聞け これは天の思し召しだ…」と歌い出すところの盛り上がりには身震いした。

第二幕

かくして第一幕が終了し美しいアントラクトの後、それぞれがエスメラルダを探し出すところから第二幕が始まる。

ここで満を持して「エジプトへの逃避」、聖アフロディジアスの登場である。フロローとのお勉強の場面が脳裏によぎる。アフロディジアスの首を切られた姿はなんとなくシュールなものがありほんのちょっぴり面白いが曲は至って真面目。外の世界を恐れるカジモドが一大決心をする場面である。ガーゴイル達の温かみがしみる場面でもある。

奇跡御殿に到着したカジモドとフィーバスはクロパン達とかくかくしかじかあり、「奇跡もとめて」が歌われる。フィーバスとエスメラルダの愛の歌であり、カジモドやクロパンの思いも少し語られる。ここで二人の愛を見せつけられたカジモドは少し裏切られたような気持ちのなっているのだろう。無理もないが。

この曲は他の様々な歌や思いの交差する曲であるように思う。「天国の光」の旋律や「石になろう」の詩が含まれており、二人が「心を閉さずに」と歌っている一方でカジモドは「心を閉ざして」しまう。

フロローに捕らえられ、言い寄られ、それでも毅然とした態度でいるエスメラルダ。処刑前夜に閉じ込められた部屋でフィーバスと歌う「いつか」。ノートルダムの鐘の中でも最も甘い旋律の曲である。フィーバスとの愛を甘ったるく歌うかと思えばそうではなかった。この曲を聴くとエスメラルダは最初から最後まで自然体というか「自分」でいるという感じがする。さらにはこの物語を一段上で、客観的にみているようにさえ感じる。

そして打って変わって悲しみや絶望を感じさせる前奏が流れ、「石になろう」である。これまでの曲のどれとも違う雰囲気を一気に醸し出し、観客を惹きつける。人生に悲観的になっているカジモドが感情を爆発させ、ガーゴイル達にも牙を剥く。心が締め付けられるような思いがした。

遂に「フィナーレ」、ここからはノンストップで終幕まで怒涛の展開で進んでいく。完全に我を失っているフロローと聖域を守るカジモド達。溶けた鉛をぶちまけて事態は収まり、ボロボロになったエスメラルダにカジモドが語りかける。エスメラルダの「あなた本当に素敵な友達よ、カジモド」という言葉に、「友達だ!」と笑顔で答えたカジモドの胸中は言葉ほど簡単なものではなかったはずだ。

そしてエスメラルダが死んだことにより、やっと我に帰ったフロローはかつて亡くした弟ジェアンについて語る。それでも怒りの収まらないカジモドはフロローを投げ飛ばし自らの手で殺してしまう。フロローがカジモドに諫める言葉を投げかけると、どこからともなく、「いや、きみはその気だ」とカジモドの心境を代弁する声が聞こえる。思わずゾッとする演出だった。

カジモドがエスメラルダを抱きかかえると劇の最初に登場する「オーリム」と「いつか」が流れる。舞台奥から一人ずつ前に出てきてまるで怪物のように顔や体を歪めていき、死んだはずのエスメラルダは立って歩き舞台奥からゆっくりと消えていく。最後に振り返ったカジモドは綺麗な顔で真っすぐに立っている。ここでの演出はやはり考えさせられるものがあり、人によって解釈は異なるだろう。私の思うところは後に書こうと思う。

ここまでで序盤の曲「ノートルダムの鐘」から始まった劇中劇の世界は閉じる。そして劇中劇内の役柄から解放された演者達が「ノートルダムの鐘」と同じ旋律で、同じく「人間と怪物 どこに違いがあるのだろう」という詩を歌い、鐘も降りてきて、荘厳なアンサンブルで幕を閉じる。

総評

第一幕からすでにかなりキていたが、第二幕に至ってはずっと涙を流しっぱなしだった。カーテンコールの間は心からの拍手で演者達を賞賛したが、それでも溢れ出る感動でそれどころではなかった気がする。

とにかく素晴らしいとしか言いようがなくこんなに感動したのは久しぶりだった。絶対に人生でもう一度は観劇しにいくと思う。

キャストに関しては、本当のことを言えばCDキャストの飯田達郎さんのカジモドを見たかったが、寺本健一郎さんのカジモドも素晴らしく「石になろう」では気迫のこもった歌唱だった。どの演者さんも良かったが、中でもフロロー役の野中万寿夫さんの演技は素晴らしかった。私は、「弟思いの兄は失望を隠せない」というなんでもない歌詞にフロローの全てが凝縮されているように思えて仕方がない。人間の誰もがもつ弱さのようなものや、人間らしさを実はもっとももっている、そんなフロローにぴったりだったと思う。

答えを後回しにしていたことについて書くが、劇中劇という形をとったのは、「人間と怪物 どこに違いがあるのだろう」という問いかけを明示的に表現したかったのではないだろうか。

それに伴って解釈すれば、フィナーレでの演出も何を表しているのかわかる。我々が人間と思っていたものが怪物へと変容し、逆に怪物と罵られていたカジモドが普通の人間の容貌になる。これはストーリー全編を通しても言えると思う。怪物のカジモドに対して他の人物達は人間であるはずだった。しかし終わってみれば怪物のように見えるのは我を失ったフロローや、カジモドを罵る人々である。

人間と怪物

何がこの二つを分けるのか、それこそがこのミュージカルが伝えようとしていることなのではないだろうか。



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