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『記憶を消してもう一度』という言葉に首を傾げる
◎前置き
少し前に十三機兵防衛圏をクリアした。
面白かったよ。
よくわからないままに事件や戦いへと巻き込まれたキャラクターたちと共に少しずつ世界の真相へと迫っていくゲームだった。
この手の群像劇における「点と点が繋がり、理解する瞬間」というのはたまらなく面白い。
だからこそ、感想で「記憶を消してもう一度プレイしたい」と言っている人間が見受けられたりするのだろう。
ただ、私はその言葉を聞くたびに「せやろか……?」と、首を捻るのである。
STEINS;GATEをプレイし終わり、電子の海を漂う数多の感想の中でも高頻度でその言葉を見掛けたのだが、そのときにも眉を顰めていたことを思い出した。
ちなみに、記憶を消してSTEINS;GATEをプレイし直すかと言われても、少しばかり独特なキャラクターデザインであることを考えればそもそもプレイしない可能性も全然あると思うし、プレイしたとしても序盤で主人公やまゆしぃにキレて投げ出す可能性が大いにあるので、やはり記憶を消したいとは思わない。
◎記憶を消してもう一度、という言葉について
『記憶を消してまた遊びたいゲーム/視聴したい映画/読みたい小説』というのを見るたびに、言わんとすることは分かるが不正確なのではないかと、そう思うときがある。
いや、不正確というよりかは不誠実なのではないかと、勝手ながらに思ってしまうのだ。
オタク特有の、大仰で、言葉の勢いと強ささえ伝わればいい、という物言いであり、それ故に本当に伝えたいことから逸れてしまった言葉なのではないかと思ってしまう。
名作と呼ばれるような映画、ゲーム、小説などに触れ、そのとき味わった感動というものはそのときその瞬間の状態だからこそ味わえたものであり、もう二度と同じ感動を抱くことは出来ないだろう。
そうなると、記憶を消して改めて——となると、それはむしろ、そのとき覚えた感動に泥を塗る行為なのではないかと、そう思ってしまう。その感動に価値を感じているのであれば、手放したくないと思うのが普通ではなかろうか?
——ここで大事なのは、“同じ感動”が不可能なのであり、近似値の感動は起こり得るということである。
作品が色褪せることなくとも、自身が変われば受け取り方も変わる。見え方も変わるのだ。たとえほんの些細な違いだとしても、それは確かに“違う”のだ。
昨日の私が、今日の私と全く同一の感想を抱けるのかと考えるとかなり疑問なのだ。
記憶や状態の完全な再配置でもない限り、全く同一の感動はありえない。
加齢や環境の変化によって精神状態にも変化が起きる。昔、装丁がボロボロになるまで読み込んだ小説を今になって改めて読んだとして、それを当時と同じように楽しめるかと言えば難しい。それは初見かどうか以前に、今の私が今の私に至るまでに無駄に堆積させた経験や知識によって別の反応を起こすからだ。
だからこそ、私はその時に感動したという思い出を大切にするべきだと思い、忘れたいとは考えられないのだ。
不朽の名作が幅広い年代の人間に親しまれようとも、人は朽ちるし人は変わる。その名作にはあくまでも朽ちた人や変わった人でもしっかりと面白いと思わせる部分があるだけであり、必ずしも全ての要素が等しく万人に刺さっているわけではないのである。物語の大枠が好きでも、登場人物の稚拙さには眉を顰める人がいたとする。物語の大枠に飽きていても、登場人物の青臭さに眩しさを見出す人もいる。それが十年前の自身と十年後の自身である可能性は大いにあり得るのだ。
好きだった小説。若く幼かった当時は楽しめていて、でも、今になって読んでみると面白さに引っ掛かりを覚えてしまう瞬間があるかもしれない。
それでも、当時は心から楽しめていたというその事実はなくならない。
その事実にこそ私は価値を感じる。
その思い出にこそ私は意味を感じる。
だからこそ、辛い経験や苦しい経験ではない——楽しめたという記憶を消したいなどとは、思いも依らないのだ。
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