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混乱しながら生きる

私たちは常に混乱しながら生きている。

普遍的だと思っていたものに例外があったり、社会的に正しいと思っていたことが別の人にとっては全く正しくなかったり。

「常識」ある大人が「非常識」を語っていたとき。

好きな音楽や映画、本やクリエイティブに携わる人が「社会的に問題がある」と指摘されたり。

自分の気持ちと世間のずれは勿論、自分の中でも相反する考え方を持っていたりして「正しいのはなに?」と頭の中がはてなマークだらけになる。

その混乱を救うのが「学び」だ。

専門家の解説や先人たちの経験を知ることで、現在起きている出来事に対して「社会的におかしい」と怒りを覚えることもある。

他人をステレオタイプに当てはめ、勝手に評価を下し、糾弾する人を見て嫌悪感を抱くことも増える。「無知って恐ろしい」と思う。

ただ、厄介なのは、「学び」はさらなる混乱を生むことでもあったりする。

たとえば、2つの意見を聞いて「どちらも間違ってはいないな」と思うときもあれば、「全部違う」と思うときもある。

それから、過去の自分が描いた「自分像」と今の姿の差にも気づく。
過去の自分は「社会から背負わされる役割は背負わないし、絶対に抵抗する」と思っていたのに、数年後、無意識のうちにその役割を背負っていた。

絶対になりたくないと思っていた人物像に、何故か近づいていると気付く。だからといってショックで震えるわけではなく、「そうだなぁ」と、なんとなく自分を外側から認識して終わる。我ながらめんどくさいやつだ。

過去の自分と今の自分が全く違う。強いて言うなら、以前のほうが「芯が強い人」だった。今はグラグラだ。変な思想に染まったわけでもないし、年を重ねている以上知識のストックが減ったわけでもないのに。

自分が揺らぎまくっているから、「連帯」や「怒り」のエネルギーが減ってしまった。しかし、連帯や怒りから遠ざかることは、私が嫌いな「冷笑主義」ではないか?とも思ったりする。

何故?
学びを得て、社会に対してある種の確信を持てたと思ったのに、何故自分はこんなにも不安定なの?

こんなこと考えている人、いるでしょうかね・・・・我ながら面倒くさいやつだと思う・・・・(2回目)

でも、ちょっとだけパラダイムシフト(発想の転換)があったのです。

今日はそれを書き留めたい。
恩師と再会して、教えてもらったこと。

1.自分が完璧だと思う「あの人」も完璧ではない

実はグラグラしてるのは私だけじゃない!

全ての人が「社会の理想像に対し、自分には弱い面も、情けない面もある。」と思っている。自分の心の中に多様性があるのと同じように、他者の心の中にも多様性があるのだ。

だからこそ、完璧だと思っていた人が弱さを見せたとき、「裏切られた」と思ってはいけない。勝手に人物像を作り上げて、その人物像がちょっと違っただけだ。

自分だけでも精一杯なのに他人の多様性を考えるって、頭がパンクしそうになることだけど、そもそも、私たちは、パンクしそうな社会の中で生きているのだからね

全てを整理することはできないし、あらゆる出来事が複雑に複雑に絡み合っているのが社会である。

混乱を解きほぐそうとするのが「学び」なんだけど、たゆまなく編まれている社会の中では、学びとは決して終わることのない試みなのである。

2.全てに怒らなくてよい

社会に対して違和感を感じた時、怒りを表すことはとてもエネルギーがいる行為だ。自分の立場を明かすことは勇気がいるし、怒ったとしても雑に扱われたり、反論されたりすることだってあるかもしれない。

自分は怒ることができないと思ったとき、「自分はチキンだなぁ、勇気がないな」「沈黙は多数派への加担なのに」と自分を思い詰めることはないだろうか  (私はめちゃくちゃあって、それが自分でも辛かったときがあった)

でも、怒れなくてもできることはある。

私たちは、怒りのエネルギーをそばで困っている人のケアにまわすこともできる。

権力に向かって怒ることも大切だが、傷ついている他者を思いやり、その人に寄り添うことも、この上なく必要なことだ。 

その時に自分ができることを選んでいけたらいいと思う。


追記
いつかの下書きを公開しました。
混乱だらけの世の中、少しでも生きやすくなりたいと思っています。

🌱サムネイルの絵画  Three Houses/Paul Klee

mid.

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