岩江圭祐「 滞在まとめ |沼津・三島・清水町」
汚いもの/綺麗なもの
今回のマイクロアートワーケーション(以下「MAW」)で私は、沼津・三島・清水町に滞在することとなった。沼津にある千本浜海岸にはフィールドワークとして行う海洋漂着ゴミの収集を行うため何度か訪れたことがあった。白砂青松百選に選ばれるなど美しい海と雄大な富士を抱える海岸線の光景は確かに圧巻で素晴らしいものではあるのだが、ネットで見る写真はどれも漂着ゴミなどが映っていない、まさに絵に描いたような美しい情景のみが選定されており、そのことには以前から違和感を抱いていた。観光においてそうした海岸の漂着ゴミは目に触れてはいけない(視界に入っていても見えないことになっている)ものであり、決して観光案内のイメージに採択されることはないと理解しつつも、そこを訪れた観光客の写真を見てみても、きれいな画を意図的にトリミングした理想的な姿ばかりであり、漂着ゴミは決してこの場にあってはならない秩序を乱すものであるという意識が伺えた。しかし実際に訪れてみるとそのゴミの多さがよくわかるように、すべては沼津の一部を切り取っただけの外向きの自然の姿である。定期的に清掃活動などが行われているものの、海水浴シーズン以外は大量の流木とプラスチックゴミで溢れている浜である。漂着するゴミは外国のものと思われるものも多く、必ずしもこの地域から出たものだけというわけではないのだが、人が汚れを感じる時、それは排除すべきものであり、自分とは関係のない遠いものであると意識することで自らの美的尊厳を保ちたいという無意識の感情が働いているのかもしれない。誤解のないようにお伝えすると、全国の海岸をフィールドワークで巡る中でこのような状況は決して珍しくなく、沼津に限った話ではない。ただ自分の関心は、そうした「汚い/綺麗」という人間の意識は何に因って生まれるのかという認知の問題であり、環境問題への啓蒙や批判的精神は持ち合わせていない。
そんな私の収集活動の目的はというと、紫外線や風雨などにより経年した人工物をただただ“愛でる”というもの。機能や目的を持って生み出された人工物が自然の影響を受けることでその様相を変化させ、人工物から自然物へと移行していく過程を半人工物という新しい価値として捉え直すことで、機能の物理的/精神的効能について思索を巡らせている。そのプロセスこそがこの活動の本義である。漂着物収集といえば“ビーチコーミング”と呼ばれ、砂浜の陶片やきれいなガラスなどを収集するものが一般的であるが、私の標的はプラスチックゴミである。控え目に言って、ただのゴミ。それを見て綺麗だとかおもしろいと思う私のような人間は決して多くは無いものの、ゼロではない。そんな人間にとってこの千本浜海岸はメッカであると言ってもいい。何を汚いとし何を綺麗とするか、そうした価値観の違いこそがおもしろいと思わせてくれる場所である。
古いもの/新しいもの
私たちがMAWに参加した時期、日本ではまだ珍しかった沼津のアーケード型商店街が老朽化を理由に取り壊される前の最後の姿を拝むことができた。趣のある外観を見ていると取り壊されるのが惜しい気持ちにもなり、このまま残しておいてほしいなどと勝手な考えが頭をよぎってしまうのだが、それは仕方のないことなのだろう。駅前でも再開発の計画が進められているようで、完成イメージ図が街中でも散見できる。街や公園が新しくきれいになることは、誰にも疑いようのない良いことであるに違いないという確信が顔をのぞかせているが、沼津といえばアニメ「ラブライブ」の舞台として2016年から地元企業などと提携し観光資源として大きな経済効果を生み出していることでも有名である。その結果、東京から三時間かけてやっと到着した安堵感も束の間、目の前にはラブライブの立て看板やラッピングバスがでかでかと出迎えてくれる。街中の商店も、これでもかというくらいラブライブのポスターやフィギュアで溢れかえっている。アニメに関心のない私にとっては疲れがどっと増してしまうような気分である。変化を好まない保守的な人間にとって言語や異文化の侵入を汚れと感じるように、それらはいつまでも外からやってくる望ましくないもの、汚れたもの、美しくないもの、忌避したいものなのである。しかし、そもそも人の生活自体が吸収と排泄を繰り返すように何かを継続的に異化し汚穢化し続けることで成り立っていることを考えれば、それを忌避すること自体が自分の生きる生を否定することに繋がる。そう考えると、こうした文化の流入は受け入れ難くもどこかで折り合いをつけなくてはいけないことなのかもしれない。
変人/常人
滞在期間中、沼津市街地からバスで1時間ほど南下した場所にある西浦地区に二日間宿泊をした。その際、同じく西浦地区にある廃バスを改修しバーを営まれているTheOldBus店主のお二人と会ってお話をする機会を得た。今回仲介役となって頂いた西浦在住の方からは事前に彼らのことを “変人です” と説明を受けていた。どんな変わった人たちなのだろうと内心ドキドキで、ただでさえ人見知りの自分は到着前から不安な気持ちでいっぱいであった。早めに到着し待機していると、軽トラの荷台に大きな木製のはしごを積んで現れた彼らは私が想像する変人とはイメージの違うとても穏やかそうな風貌で、穏やかそうな声で、穏やかそうな犬(看板犬の“うしいろ”さん)を抱いた人たちだった。お店にご案内頂き、薬草のアイスとホットコーヒーを頂きながらお二人のことやMAWでのことなど一時間ほど話していた。お二人からはどことなく人見知りの雰囲気というか、自分の世界がしっかりあるのだけれど他者を拒むことをせず、しかし受け入れ過ぎることもないというようなニュートラルな空気感があり、自分の中の好きを大事に、それを純粋に貫いているだけという存在感がとても心地よかったし強い共感を覚えた。廃バスをバーに設えた空間は決して広くはないのだけれども、その空間に身を寄せ合いながら、沼津の海を背に陽も沈みかけようとする穏やかな時間に身を委ねていると、この時間こそ普遍的な幸福のある瞬間に思えた。世間から見たら彼らは変人であるらしい。でも私にとってお二人は、普通の幸せを大切に生きる正常な人たちに思えた。
沼津の我入道地区には、循環ワークスという生活用品のリユース販売や定期的にワークショップなどを行うお店がある。ここで取り扱う商品は、取り壊しになる家屋からの引き上げ品や不用品として持ち込まれた家財や資材などで、リサイクルショップではなくリユースショップであるという点においても、環境への負荷をできるだけ減らそうとする強い思いを感じ取ることができる。工場長の山本さんは “よくやっているね” “頑張っているね” と声を掛けられると、私たちはただ生活をしているだけで頑張っているわけではないとおっしゃるのだそう。百姓という言葉の由来についてもとても興味深いお話を伺った。百姓とは庶民を表す意味であるが農家の意味合いで用いられることもあり、その農家の仕事が多岐に渡ることに由来する一種の言葉遊びから、生活に関わる百のことを自らこなすことができる多能工を指して用いられる。なので百姓を自負する循環ワークスが軸とするメインの活動はワークショップであり、そこから得た新しい知識や技術を自らの生活に生かそうというのが彼らの信念だ。車のバッテリーが上がれば自分で修理をし、トイレが必要であれば土を練って自らトイレ小屋を建ててしまう。そうした意味においてもやはり彼らは特別な存在でも変人でもなんでもなく、普通のことを普通に行うことができる常人であった。
不便/便利
西浦地区から市街地へ向かう公共バスは少ない。一本乗り過ごすと次は数時間後になってしまい、一日の予定をこなすことができない。スケジュールはまた一から練り直しになってしまう。沼津駅までは車で一時間ほど。飲食店や商店などもほとんどない地域であるため、食事の確保をどうするか考えて行動しなくては空腹のまま何時間も過ごす羽目になる。日頃なかなか使わない脳みそを使い、もうそれだけでワクワクしていた。地域のバスは朝の小学生たちを学校へ送り届ける交通手段としてとても重要な役割を果たしている。バス停ごとにランドセルを背負った子供たちがぞくぞく乗り込んで来て、バスの中は朝から賑やかである。乗客は私一人を除いて全員小学生という珍しい状況が完成する。乗車早々、椅子に座って寝てしまう子もいる。この心地よい揺れは朝の眠たい体にとても堪える。こころの中で“そうなるよね”と静かに共感していた。バスはそのまま学校へ到着したかと思うとズンズンと学校の敷地内へと侵入し、ついには下駄箱のある玄関の前まで来たところでやっと車が停車した。入り口では何人かの先生が出迎えてくれていて、ひとりひとりとハイタッチをしながら挨拶を交わしている。とても微笑ましい光景に遭遇し、ほかほかした気分を味わっていたのだが、学校を出たバスの中の異様な静寂は自分だけになってしまった乗客の寂しさをより一層際立たせていた。
沼津駅と西浦地区は程よい距離感で、市街地での活動を終えてバスに乗って帰る時間が、せわしなく動き続けた自らの体と心をゆっくりクールダウンさせてくれるとても豊かな時間となり、バス停を降りて出迎えてくれる波の音が一日の疲れを取り除いてくれるようだった。早朝に宿を出た時は海の底が見えていた砂浜も、帰る頃には岸壁に波が強く打ち付けている。潮の満ち引きという至極当たり前な自然の摂理を再認識させられ、それもまた新鮮な驚きであった。自然によって生かされているということを改めて考える有意義な滞在であった。
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