久木田茜「自然文様模様(4日目)」
4日目。
初日から3日間、意外とみっちりスケジュールを組ませてもらっていて、
今日は4日目にして一日フリーな感じの日であった。
午前中はダラダラして、午後は少し市内で気になるところをぶらり。
思い付きで、中尾生(なかびゅう)城跡を目指す。
ああゆう、城の跡地とは良い。
「城跡地って何があるのかな!?」期待を膨らせて歩くが、行ったら「何もないな〜」って肩透かし喰らわされる感じが好きだ。
かつて何かあった場所に訪れて、何かの気配を感じようとすると、何かが見えてくる気がする、この想像力を働かせて空気を食べるような場所との関わり方が好きだ。
ってこと、上記の地点からですね、実は車で進めなくて歩いたのですね。
その理由は、土砂崩れなのか、ということは歩いて5分くらいでわかった。
ふと、昨夜の交流会で最近、熊が出たという噂を思い出した。
「今日は一人、、熊でたらどうしよう。逃げようないな、、」と熊の存在にビビりながらテクテク城跡を目指す。
漠然と、「自然と触れたい」というのが理由の一つとしてこの龍山を例に挙げたが、おそらくこのような山道をはじめ、自然というものは「とても怖いもの」という一面も強いだろう。
そこそこ都会な環境にいる私としたら、山のある風景だけでも十分と「自然」と感じるわけだ。
しかし、それは非常に視覚的で遠い距離からの自然の認識であり、
身を持って体感する自然の一面とは大きく異なる。
自然を感じるとは、自分が人間としての弱さを感じることかもしれないし、或いはただただ人間を超えた存在の、山やそこに茂る植物や鉱物に対して圧倒されることかもしれない。
とにかく小高い山の上の方に城はあったのかと、理解した。
こんな細い急斜面に城立てて、攻める方も守る方も大変だなあと思った。
もちろん見晴らしの良い場所の方であることに意味があるのだろうけど。
もう進む道がない、と思ったところで強く風が吹いた。
真っ直ぐ聳え立つ針葉樹が揺れて音を立てる。
龍山にきてとにかく目に入るには、このような植林のすっと真っ直ぐ立つ針葉樹たちだ。
改めてこの様子を見ると美しいなと思う。
垂直に伸びる針葉樹のストライプ模様というべきか。
気がつくと見渡す限りの針葉樹に私は囲まれて、歓迎されているように感じた。
それは、私がライフワークとしている装飾造形研究ゆえに、
勝手に感じる満足さ加減だからかもしれない。
何となく「何もないね〜」と思って、満足してテクテク車に戻るわけである。
この道中、もう一度模様を探すことができるならば、上記の写真のようなシダ模様もあった。
このブログにシダ模様を載せる余裕はないが(まとめで載せようかな)
こうやって、自然が作り出す反復の模様はいかに生命力あふれそしてしなやかなことか。
突然だけど、
20世紀の思想家ヴォリンガーという人は、著書「抽象と感情移入」(1907)において、自然のカオス化した様子に恐怖心を抱いた人間が、平静の感覚を求めるために抽象的な法則性や幾何学系の模様を道具や衣服などに装飾したと言われている。
自然をどう認識するかは、ここで議論しないが、ここ数日人と過ごす時間が長かったから、一人で山を散策してみると何となく孤独な人間になってはじめて漠然とした自然という他者との会話が始まる気がする。
ヴォリンガーのこの論理は、賛否両論ある論理だが、私は時折この心情が本当かどうか確かめたくなる。
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