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ちぇんしげ「《茶の途》 後書き」

【後書き】

 どうも、美術作家のちぇんしげです。今更ですが改めて自己紹介をさせて頂きます。私は絵画、マンガ、言語の三つのメディアを用いて、視覚におけるおトクな状況、情報の圧縮、コミュニケーションとディスコミュニケーション、多言語社会などをテーマに創作活動を行なっている。自称「美術作家」だが、アーティスト、や「絵を描く人」と呼ばれたりする場面の方がむしろ多いかもしれない。肩書きどうこうを考える時間があれば、早く手を動かして作品を作る方が切実だと常に思う。美術作家は職業ではあるが「仕事」として捉えられてしまうとなんだか思わずにモヤッとする。より包括的な表現はないかな。
 「旅人」という呼び方に対しては非常に魅力的だ。遊び人か無職だと思われるのだろうが、「慣れた暮らしと訣別して新しい風景/新しい町/新しい人に出会う」に精神を費やすことも立派な(人生レベルにおける)生業だ。旅先の町を独りで気ままに目的なく歩いたら、知らぬ人からの「こんにちは」の一言で関係性が生じるのはいつものこと。会話が深まる時もあるが、大抵の場合はそのまま浅く互いに微笑んで終わる。そういう素朴で感情を過度に盛り込まない少々脆い関係性を求めるために私は昔から一人旅が好なきのだ。
 滞在先の菊川・せんがまちは実に良い町だった。静岡と浜松の間に位置することもあってか住みやすい町ではあるが、私の今住んでいる茨城県取手市のような「絶妙さ」は微かに漂っている。都会でもなくど田舎でもないそのどちらにも属しない「郊外的」だった。出会った町の人から「菊川はなんにもねぇよ」とこの一週間でよく耳にしたが、自嘲できる町は本当は強いだと再び思った。
 長期滞在ではない一週間のみのレジデンスは滞在先からインスピレーションをどこまで得られるか、滞在先にどう影響を与えるかを考えるとやや不安に覚える。毎日の見聞きしたものをいかに消化して記録するにはかなりのエネルギーや精神力を要される。街中にあり溢れた動物の造形にした遊具っぽいもの、ベトナムやフィリピン食材店、城跡にある石碑、スライド中の説明文、イノシシの足跡、棚田にある案山子、案内人のおじさんがカラスウリに彫った笑顔の造形、公会堂の看板、部活名入りのTシャツ、惣菜の置き方を試しているお母さんたちの指先云々。どれも関係ないように見えるが、実は時系列なしに菊川に存在し、もしかしたら互いに知らぬ間に影響し合った結果ではないかと勝手に想像してみて、マンガ形式に落とし込んで思想的な部分に繋げようと試みた。当然、実際のところ関係あるか否かは知る術がないし、おそらく緻密に関係し合っているわけでもなくただただ必然的に存在するだけかもしれない。

公会堂の玄関に飾った子供の絵
腕章ですね

 400年もかけて形成したせんがまち棚田は戦後、一時期消えかけていたが、地域NPO30年の努力によって棚田の原風景はなんとか維持できた。かと言っても当時の三分の一くらいの面積しかない。昔の棚田はそれなりの農業従事者がいたからこそ成り立った風景だった。従事人口が年々減る今において農業に携わることを如何に農業に関わって来なかった人々に知ってもらうか、彼らにどう農業に興味を持ってくれるか、その「せんがまち(地域)に関わる」「自ら関わりたい」きっかけを作るのは非常に重要になってくる。近年、美術業界でも今後の第五次産業革命における「美術」、「アート」と「一次産業」との関係性がすでに注目され始めているようだ。風のこと、土のこと、木々のこと、青空のこと、雨のこと…デジタルの技術面が人間の身体を凌駕した後、人類の古きから積み重ねてきた土着らしい知識はむしろ再び大事になってくるのではないかと私は勝手に推測している。

アーティスト・ヨッちゃんの手

 「矛盾を維持する」。せんがまちの棚田と菊川地域の茶畑は世界中の忘却されかけている風景の中のほんの一例。だが、意地でも矛盾を保ちたい姿勢は美術作家の私からすると、かなり「美術」の真髄に近いと感じた。世間に媚びずやって楽しいと思うことをとりあえずやる(もちろん媚びる時もありますが)。当事者が楽しんでやらないと周囲の人が楽しめるわけがないよね。さぞかし静岡大学・棚田研究会の学生たちも棚田に訪れるのをいつも楽しんでいるのだろう。少なくとも私は毎日楽しく制作に追われて滞在していた。それでは、《茶の途》全編を一気にご覧ください。どうぞ。

《茶の途》1/6
《茶の途》2/6
《茶の途》3/6
《茶の途》4/6
《茶の途》5/6
《茶の途》6/6

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