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西松秀祐「函南探訪まとめ」

静岡県函南町を訪れ、2週間もの時間が過ぎようとしている。年間4cmほど移動しているという伊豆半島はおそらく1.555mmほど移動したことになるのだろう。函南町まで自身が今住んでいる大分県にある山香という場所からは直線距離にして大体707km、そして三島で借りたレンタカーで滞在期間中1週間で函南町を走った距離大体350km。今回の滞在を思い返してみると、プレートの移動ということを入り口に時代の移り変わりやそして人の移動について考える滞在になったように思う。

(上の写真:丹那盆地からみた山の風景 / 右側の山はプレートの移動によってできた隆起によってもりあがっている)

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(函南駅前の住宅地をぬけた農道)

はじめて訪れる町を歩くとき、私はその町のどの場所から歩き始めるか考える癖がある。駅やバス停、港そして道の駅だったりと、いろんな可能性がある中、私は函南駅からこの場所を見て行こうと思った。

その理由に元々少し知っていた丹那トンネルのことがある。丹那トンネルによって函南町への移動が容易になったこと、しかしトンネル工事によって、丹那山の水源から水が流れだし、稲作中心だった丹那の産業は酪農中心へ変わっていったこと。町の風景が変わった要因でもある駅から歩き出すことは、なんなとなく探索の始まりとして大事なように思えた。

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(函南駅の案内板)

函南駅の案内板には古墳、マリア観音、丹那断層、天文台、函南駅の案内板には様々な名所が書かれていた。駅周辺を歩きながら、ゆったりとした下り坂を歩きながら川を渡り、一戸建ての家々が並ぶ団地をぬけるといつの間にか農道へ入っていた。階段のないそのゆるやかな坂道が駅から農道へ繋がっているのが、とても印象的だった。

街を歩いていると階段の幅や段差などを気にすることがある。ゆるやかな階段、急な階段、階段の幅、それによって人の移動のリズムが変わり、それによって街のリズムも少し違ってくる。この函南のリズムはどういうものなのか、この坂で感じるリズムと近いものなのか? そんなことを考えながら私は丹那断層を見学しに行った。

1. 断層公園と火雷神社 / 自然の力と人の所作

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(丹那断層公園)

丹那断層は函南駅から車で20分ほど東へ山を越えたところにある。今回の滞在のホストである酪農王国オラッチェもそこにあった。丹那トンネルの工事による渇水被害のエリアはこの場所で、トンネルこのエリアの地下160mのところを通っていて、当時は稲作、そしてわさびを中心に栽培していたそうだ。現在は水を地下深くから汲み上げをしたり、貯水をしたりしながら、丹那地域では稲作もしている。

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(丹那の風景)

わたしは丹那断層公園、そして火雷神社へ計三回訪れた。1回目は滞在初日に一人で、2回目は今回の滞在のホストである酪農王国オラッチェの職員の磯野さんと、そして3回目は伊豆半島ジオガイド協会の池谷さんと。正直自分でも滞在日数の半分をここへ通うのは行き過ぎな気もしたが、函南で日々過ごす時間と、そしてガイドの方に教わる新しい情報で、自分の興味みたいなものが整理されていくような感覚があった。

印象的だった情報:①

火雷神社の管理は田代村の人たちで行われているそうだ。災害の記憶を残すため、柵をするなど保護はするが、基本的に手を加えず保存をしてきている。地震によってずれた鳥居と階段の位置、そして台風によって流れ出し埋まった鳥居の被害が見れる。街の人たち主導で保護してるのが素晴らしい実際にユネスコ世界ジオパークに認定されるときも、そのことが視察員に評価されたそうだ。火雷神社には参拝者、見学者のノートみたいなのが設置されていたのも印象的だった。

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(火雷神社にあるタブノキ)

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(火雷神社の来訪者の感想ノート)

印象的だった情報:②

田代、丹那はもともと山地に囲まれた湿地帯で、地面を掘ると神代杉が埋没しているそうだ。昔はその発掘された神代杉を展示している家があったそうだ。盆地を眺めると住居は山沿いに建てられていて、むかし湿地帯だった風景、そして農作利用していった流れみたいなものを想像した。

印象的だった情報:③

1930年(昭和5年)11月26日に起きた北伊豆地震の震源であった丹那では建物の被害者はあったが人的被害は少なかった。その理由に瓦屋根でなく、藁葺き屋根だったこと。そして余震が大きな揺れがある前からあり、藁を家周りに積み、屋根を落ちないように守ったり、大黒柱付近で皆んなで寝るようにした等の対策を丹那の人はしていたということを聞いた。

一人で断層を見学に来た時は、断層のずれやそこに見れる地層についてだったり、地質学的な情報を理解するのに一生懸命だったが、何度も訪れる間に、その圧倒的な自然の中、どのように人がふるまったかそういったものに興味があることを教えてくれた場所だったように思う。

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この丹那断層の近くに小さな橋があり、名前の由来は分からないし、おそらく違う気もするが、断層を通してずれ続け動き続ける大地の上で人間ができる一つの反骨のようなものを想像してしまった。

2. 柏谷横穴群 / 海岸線そして太古の移動に思いを馳せる

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柏谷横穴群は函南町の南西部に位置する、静岡県内で最大規模の横穴古墳群で、訪れてみると散策路がしっかりと整備され、公園や広場のまわりに古墳群があり、散策しながらどこかで子供の遊び声など犬の散歩をしている人などに出くわした。住宅地もすぐそばにあり日常に古墳がある風景に惹かれるものがあった。

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パンフレットを見ていて個人的に興味があったのが、出土品に亀甲片(亀卜と呼ばれる占いに使用したもの)があり、卜部との関連が指摘されていると記載されていたことだ。亀卜とは亀の甲羅を焼いてできたひび割れをもとに吉凶を占う神事で、もともと亀卜について初めて知ったのが、対馬でおこなわれている芸術祭に参加して、対馬について調べていた頃だったと思う。亀卜は対馬の豆酘と呼ばれる集落では現在でも毎年おこなわれている。そして卜部とは亀卜を商業としいてた品部(集団)のこと。その卜部氏が力を持っていた場所が対馬、壱岐、伊豆の三国だったそうだ。対馬の豆酘で亀卜がおこなわれる神社は雷神社といい、柏谷横穴群の場所とは違うが、先日行った火雷神社のことを思い出した。丘に登り見渡しのいい風景を眺めながら、函南町で対馬と壱岐、そして伊豆のことを思うと、古代の海岸線のことが気になった。

後日ガイドをしてくれた伊豆半島ジオガイド協会の池谷さんに柏谷横穴群と海岸線について聞いてみると、公園辺りは湿地帯でその先は縄文海進時代に海が入り込んでいたそうだ、あたりの住宅地からは貝の化石や高下駄なども発掘されていたことを教えてもらった。

3. 興聖寺に伝わるマリア観音そして仏の里美術館 / 人の移動と信仰

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(かんなみ仏の里美術館から見た桑原地域)

駅裏の坂道をあがっていく仏の里美術館へ向かう道中は、正直はじめは未開発な感じがする場所だと思った。しかし美術館に入り仏像を見学し、ここにある仏像がこの桑原地域にあった「桑原薬師堂」から寄付されたものだということを知ると、この桑原という地域がどんな場所だったのか気になり始めた。むかし旧道がここを通り、山越をする手前にあるお祈りをする場所だったのかな?とか桑原地域の興味が湧いた。しかし滞在中このことについて具体的に知ることはできず、今後どこかで調べたいと思う。

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興聖寺へ着くと住職さんは庭木の剪定をおこなっていた。マリア観音を見学したいことを伝えると、住職さんは本堂を開けてくれ、興聖寺に伝わる襖絵のことやマリア観音についてお話ししてくれた。伝えによるとこのマリア観音は狩野川、大原川の大水で流れてきたものということだ。話をしていると、ここに至るまでどのような経緯があったのか?

文献上で(上智大学キリシタン資料室)で伊豆にキリスト教が登場したのが1620年のフェルナンデス神父のイエズス会報告で、ドイツ語で書かれた日本キリスト教分布地図には伊豆教会と明記されている。切支丹迫害が激しくなった駿府をフェルナンデス神父は逃れ、関東に入ろうとせず三島へ来て布教した。神父はその時、30名の信徒を発見して赦しの秘跡と聖体を全員に授けた上で‥   (三島教会前史より抜粋) 
伊豆への布教は、1607(慶長12)年に、ロドリゲスが江戸から駿河への帰途に立ち寄ったことがその始まりではないかと思われる。これは、「日本切支丹宗門史 上」に、‥駿河に向かって帰途についたが、ロドリゲス師は、公方の招きに応じ、伊豆の鉱坑を訪問するために乗船し、‥ (伊豆と世界史 / 桜井祥行 著)

桜井祥行が書いた伊豆と世界史 を読んでいると、伊豆のキリスト教の広まりは、1604(慶長9)年江戸城の修築工事をおこなう際、城壁に使用した伊豆石の採石と運搬をおこなっていた西国大名によるという。ロドリゲス師が向かった土肥金山、そして伊豆石伊豆半島の広大な自然が作った鉱物と、それに関わる人々の動きと信仰の広がり。興聖寺での体験は人の移動についてもたくさん考えさせられた。

4. 場所を通して人に出会い、そして人を通して場所を知る

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(Nedokoキャンプ場からの景色)

滞在初めは美術館や断層公園といった施設や場所といったものを見学していく時間や史実を理解するよう努める時間が多かった。

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例えば丹那牛乳がある丹那地域には、もともと稲作やわさびが中心だったのが、川口秋平氏が私財を投じてアメリカからホルスタインを輸入したことによって酪農がはじまる。秋平氏は村人にもホルスタインを貸与し酪農を推奨していく。そして丹那トンネルの工事による渇水被害がおき、町全体で酪農へ移行していく。これが僕の理解している部分。

でも丹那の町で出会った人と話していると「丹那は稲作から酪農へ転換したり、酪農をして加工品であるチーズを生産したり、韓国などに海外輸出をしたり、色々挑戦してきたから、だから新しいことへ前向きな気質なのかもしれない」そんな風に言っている人がいる。こういった場所を通して人に出会い、そして人を通して場所を知る体験が、滞在期間中たくさんあったように思う。

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5. まとめ 

丹那地区、函南町を車で移動すること1週間。2000万年前の海底火山によって生まれゆっくり変化しているこの場所で、自分の興味が赴くままに東西南北、函南町を見てまわった。初めのころは土地勘が分からず、行ったり来たりする本当に無駄な動きが多かった。頭の中の函南町の地図も、中々できてこないなぁと自身の方向感覚を嘆くこともあった。そして興味の対象もばらばらで、それに伴い行ったり來函南を回る体感が、まるで自分の方向感覚のずれと同じなような気がしていた。

滞在途中こんなことを考えた。おそらく函南町の地図を頭でかけるようになった時、点々と散っている時代や学問もばらばらの興味が一本の線で繋がるような気がする。そんな自分の旅の方法論などを学ぶ機会になった1週間だった。

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(お土産にもらったもちもちあんぼーる)

追記:旅の終盤は場所目的ではなく、人に会いに行く目的で動けていた。

そしてBohemian Craftのバーブさん、伊豆半島ジオガイド協会の池谷さん、そしてNedokoキャンプ場のワタナベさん、興聖寺の住職さん、酪農王国オラッチェの職員の佐野さんなど、またいつか本当に会いにいきたい人たちもできことも含め、改めて本当に良き旅をさせていただいたと思った。本当に丹那の皆様、函南の皆様、しずおかアーツカウンシルの皆様ありがとうございました。