鋤柄ふくみ「森町レポート(まとめ)」
知らない景色の中を歩いてみたいと思っていた。知らない場所に自分を投げ込んで、日常の中で退屈している感覚を喜ばせたかったし、自分が新しい世界とどんなふうに交感するのか楽しみだった。あわよくば、作品のアイデアになるような感覚を得たいとも思っていた。
でも、森町に行ったらもう何がなんだか。到着した日にまず小國神社という由緒ある神社に連れて行ってもらい、そうしたらちょうど令和のお屋根替えと言って檜皮葺の屋根の葺き替えをしているところで、現場に上げてもらって大興奮し、翌日は朝から本当に日が暮れるまで、ホストのみなさんが森町のいろんな場所に連れていってくれた。歴史資料館、森町焼きの陶房、地元のおばちゃん食堂、恐ろしいような山道を分け入って辿り着いた湧水、重要文化財の友田家、私が心惹かれてその後も訪れることになる大日山の金剛院、最後は山の中で薄暗くなって、真夏なのに寒いと思いながら帰ってきた。行く先々で出会う人たちも、私たちに森町の歴史や産業、文化、生活のことを熱心に話してくださって、いつも時間が足りなくなってあわてて次の場所に移動したりするような一日で、最後はみんなヘトヘトになった。
滞在中はそんなふうに森町についての知識をどんどん注入してもらい、ホストのみなさんのキャラクターにも巻き込まれて、ぐるぐると森町のことで頭の中はいっぱいになって、作品のこととか自分のこととか考える余裕は無くて、ただ一生懸命森町を受け止めた、みたいな感じで帰ってきた。
森町に行ってすぐに分かったのだけど、私が滞在前に抱いていた、“狩猟でも行われていそうなひっそりとした山村”という、森町のイメージは大間違いだった。ものすごく都会だった。デパートがあるとか、スクランブル交差点があるとか、人がいっぱいいるとかではない。森町にはホテルもなかったし、マクドナルドもデニーズも、洋服のアオキもファッションセンターしまむらもなかった。でも、歴史が裏打ちする産業や文化があり、かつて交通の要所であったせいだろうか、町にも出会った人たちにも「都会だ」と感じる雰囲気があった。
町の中を流れる太田川が、海と山の人や物を繋ぎ、信州へつながる山の稜線は塩の道でもあり、江戸時代に秋葉山信仰が盛んになった頃はその道を通って秋葉神社へ参拝に行く人で道がいっぱいになったという。そういう交通が発達した場所で、昔からさまざまな人が立ち寄り交流があった土地だからだろうか、森町で会う人たちの感性は、外に開かれていて、視野が広く未来を見ている感じがした。私たちのような、「芸術家」「アーティスト」などと名乗る旅人に、とても好意的な関心を寄せて、いろいろな話を熱心に語りかけてくれた。
高橋農園の高橋さんは、東京で生まれ育ち、自分が農業をやるのに適した土地を探して森町に辿り着き、30年前から森町で暮らしているという。現在66歳の高橋さんは、40年以上前の大学時代に当時ほとんど誰も本気にしなかった有機農法について研究し、そこで結論として辿り着いた農業のやり方を、今ここでその通り実践しているのだと語ってくれた。無農薬で野菜を育てる方法、育てた野菜を自分自身が直接消費者の家庭に届ける流通の方法は、今の私から見ると、時代をすごく先取りしているように見えた。農園の広さ、機械や運搬のために必要なエネルギーと収穫できる量、野菜の販売価格などについて、よく計算し、理想と現実が折り合いをつけ、自分の中で納得できる方法を選択していた。理想があると同時にとても理性的だった。大学のときに研究して得た結論を、その後ずっとその通り実践して成功しているというのも、とても驚きがあった。
自分の考えを力強く実践し、一家をちゃんと養うだけの生活を成り立たせることができているという高橋さんは、自信に溢れていたし、楽ではないけれど、自分が良いと思った生き方をして、その姿を自分のこどもたちに見せることができているのは、いいことだと思っているとも話してくれた。私たちに向かって、好きなことをして生きていくのは楽じゃないけど、好きだから頑張れるよね、ということも何度も語ってくれた。
高橋さんが、話しているときに何気なく言った、「少しでも人類を先に進めることができる」という言葉が忘れられない。どんな流れでそういう言葉が出てきたのかはっきりとは覚えていないのだけど、気候変動や自然環境の変化についての危機感について話していた時だと思う。未来が良くなるように(少なくとも悪くならないように)芸術にしろ、農業にしろ、一人一人が、その分野でより良い方法を探そうと一生懸命考えれば、「人類が先に進める」という話だったと私は理解している。大きな視野で世界を見ている人だと思った。芸術が、当たり前とされていることに疑問を呈したり、「別のやり方」を探したり、見えないものを見えるようにしたり、「別の見方」を見つけたりするものだといしたら、生活の中でそれを実践しようとしている人がいて、かっこいいと思った。
高橋さんは丸木美術館の原爆の図を見て衝撃を受けたことがあったそうで、芸術には何かを伝える力があるんだから、そういうものを表現して欲しいと言っていた。芸術がプロパガン的にメッセージを伝えるものとして機能することには、危険な部分もあると私は思っているのだけど、確かに、芸術作品には、現実の世界を、ある切り取り方によって「見える」ようにする役割があると思うし、何かを伝える役割もあると思う。それは絵の大切な側面だと考えたりもした。生活する人からの芸術に対する言葉は、私にとって考えさせられるものがある。
気候変動や自然環境の変化についての話も興味深かった。昔から森町に住んでいる人が「昔は、今みたいに山は緑一色じゃなかった」と言う。昔の自然林は、いろんな種類の木が渾然となって生えていて、葉の色が樹の種類によって違うし、それぞれが季節ごとに様々な色の花を咲かせるので、今のように杉の木が緑一色で山を覆っているようなことはなかった。戦争の時に燃料として木が一気に伐採され、戦後の政策によって、同一種類の木が一面に植林されることになった。気候変動も明らかで、雨はゲリラ豪雨といわれるような激しい降り方をして、山はそれをゆっくり受け止める暇もなく、地滑りが起きる。たしかに、私は山のなかで、木が倒れているのをたくさん見たし、木の根が剥き出しになっているのをよく見た。森町の地盤が岩盤で、木の根が浅い土の層にしか張らないからだという話も聞いたけれど、人為的な植林と、異常気象が引き起こしている部分も大きいのだろうと思う。これを今すぐ止めることは難しく、自分たちは危険が迫った時に、そこに一人暮らしをしているお婆さんをどうやって助けるか考えるくらいしかできないと歯痒そうに言っていた。そうやって対処療法的に現実に向かうしかないのだと、今はそれしかできないと言っていた。でも、少しずつでも人が行動を変えていくことができたら、それも変わっていくかもしれない。森町で出会った人のなかには、移住してきた人たちを含め、自分の暮らし方を真剣に考え、納得のいく生活を作ろうとしている人たちがいた。
それから、山の上の、かつての塩の道の、絶景の景色の中に住む小田さんの話もすごく面白かった。庭には綺麗に花を咲かせた植物がいっぱいあって、目の前に山の緑や茶畑が見渡す限り広がって、谷を下ってさらに向こうの遠くの山も見渡せる。息子さんに手伝ってもらったと言いながら、長椅子を並べ、大勢で訪ねていった私たちに、自分の畑で作ったお茶を淹れてくれた。「自分は遊んどるだけ 悪戯を考えるのが楽しいもんで ヒヨドリと一緒にブルーベリー狩りをする ヒヨドリが食べてもこっちで自分たちも採る ハワイに行きたいなぁと思ってたら数年後に実際に行けた 前から植えたいと思っていた〇〇の苗を今年50本植えたんだ 夢を持ってたら叶う 妻とはもっと喧嘩しておけばよかったなぁと思う、死んでしまったら喧嘩しておけばよかったと思った、そういう思い出が欲しかった 妻が亡くなっちゃったけど、若い衆が助けてくれるから俺はもうちょっとイタズラしていたい」。 話をしてくれている間中、「全部食べていいよ」と言って出してくれたブルーベリーの容器が私たちの間を何度も行ったり来たりした。方言があって所々聞き取れなかったけれど、夏の日差しの中で小田さんの言葉を聞いていたら、ものすごく優しい気持ちになれた。世の中の常識に合わせているようじゃなくて、自分の考えを大切に生きてきて、なんでも自分でやってきた人の言葉だからだろうか。私は優しくて素直で前向きな小田さんのことを、かっこいいなぁ!かっこいいなぁ!と仕切りに思っていた。ほんとうに面白かった。ふだん、仕事場なんかでする会話では、みんな本当は面白い思想を持っているのかもしれないけれどこんなふうに話を聞けることがないから、人生の先を生きている人からこんな言葉が聞けて私は優しい気持ちになれた。帰りがけに、持っていっていいよと、私たちの一人に鉢植えの花をあげて、百日紅の赤い花の下で手を振って見送ってくれた。
人の小さな感覚、物語を聞くのは面白い。考えてみると私たちは自分の親の子供時代の話だってそんなによく知らないし、祖父母の人生の話なんてよっぽど興味をもって聞こうとしなければ知らないままになってしまう。だけど、聞いてみると面白いエピソードがたくさんあって、祖母の女学生時代に読んだ本の話など、聞いているだけで愛おしいような気持ちになる。だから、生活の中に今回の私たちのような「旅人」が通り過ぎ、そこで暮らす人々の生活の中にあるものがたりを表出させることができたら、面白いと思う。旅人という異物が入って、それがきっかけになってそこで生活する人の言葉が聞けたり残ったりしていくことになるのはとても面白いし、大切なことのように思う。
ところで、帰ってから聞いた話を振り返っていたら、様々なところで火のことが語られていたなぁと思った。
森町にいるとき、水のことはいつも意識していた。山の中を歩いていてもどこからか水が染み出しているし、しょっちゅうサワガニに出会うし、川の水もいつも隣にあるので、存在感をすごく感じていた。町の発展に川がいかに大切だったかも想像できた。でも火のことは、ことさら意識することがなかった。
鍛治島という名前の地区があるように、鉄の製造が行われていたこと、鋳物師の街であり、遠州瓦の産地であったこと、いつの時代の話かも分からず、混乱する頭で話を聞いていたのだけど、これらの話には、いつも火が出てきた。火は鉄を生んだし、陶器も生み出した。火を使えることは、とても大きなことだった。江戸時代には山田七郎左衛門という人物がいて、家康から火を扱う権利を与えられ、あたり一帯の鋳物師を支配したとも聞いた。火を生み出すには木が必要で、森町には、その木がふんだんにあった。先程の小田さんの話で「昭和の初めごろは、林業で大儲けして、この辺りの人たちは働くのを忘れちゃった、勤労意欲を失くしちゃった」という笑い話のようなエピソードがあったのだが、木が燃料としていかに大きな価値を持っていたかを知った。今の石油王のようなものだろうか。木を持つものが火を使うことができたのだろう。この地で修行をしていた修験者たちも火をコントロールできる者として崇められていたと聞いたし、秋葉神社も調べてみると、火の神様がいる所だった。
水は、川の流れが人生に例えられたりするように、遍く人々に行き渡り優しく寄り添うものである(水が豊富な日本においては、かもしれない)いっぽう、火は権威的なものと結びついて見える。火は人の役に立つものでもあるけれど、怖いものでもあり、神話の中でも神であったり悪魔であったり、何かしら強い力を帯びたものとして描かれている。森町で聞いた話を思い出していると、それが、実際の人々の暮らしと具体的に結びつくものとして見えてきて興味を惹かれた。山、木、産業、信仰などの話が火というキーワードによってひとつながりに見えてくるのが面白かった。
今回は、森町を初めて訪問し、目も耳もくらくらしていた。再訪したらもっと町のことが落ち着いて見えてくると思う。地図やパンフレットで情報を知り、それを見に行くのも面白いけれど、私は、毎日散歩で同じルートを歩きながら少しずつ範囲を広げたり、知らない路地を通ってみたりして自分のなかの地図を詳細にしていくように、同じ場所をなんども訪れて少しずつ自分の中に町のイメージを作っていくのが好きだ。
だから、またあの林の中の大日山金剛院にも行きたいし、今回工事中で行けなかった東海自然道を通って春埜山の方へ行き、道中から見えるという富士山を見てみたい。それに、お盆休みで行けなかった、日月神社の細道の先にある「かづさや」にも行きたい。「かづさや」でお惣菜を買って、日月神社の木陰で食べたい。ホタルがとぶ時期には、野鳥たちも繁殖の時期でたくさん見られると聞いたから、日月神社でオオルリのとぶ姿を見てみたい。カワガラスが水の中にトプンと潜って、消えてしまったと心配になる頃また川から出てくるのも見てみたい。アカショウビン、ムササビにも会いたい。西向きの山の間から見える夕日や星空が綺麗だと聞いたから冬の景色も見てみたい。
ホストをしてくれた町役場の方、地域おこし協力隊として移住している同世代の人たちも、一人一人ユニークで話を聞くのが面白かった。これまでの生きてきたこととか、これから森町でどんなふうに暮らしてくのかとか。また会いたい。
次に行く時は、お祭りの時がいいだろうか。4月、小國神社や天宮神社で舞楽が行われるお祭り(パンフレットを見ると、子供が赤い口紅と真っ白な白粉で化粧をして踊ったり、怪しげな面をつけた人たちが行列したり踊ったりしている、怪しげだ)の時か、それとも11月、町の路地を三日三晩、十四台もの屋台が引き回されるという森のまつり(話を聞いているだけでものすごくカオスな感じがする。写真で見た屋台はカラフルでなんだかポップ。巻き込まれてみたいけど、体力が入りそうな。)の時がいいだろうか。はたまた、6月蛍がとぶ頃、鳥たちの姿を見に行くのもいいかもしれない。