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三浦雨林「河津に居た」(滞在まとめ)

 こんにちは、三浦雨林です。
 河津滞在から、河津滞在中では考えられないようなスピードで何もかもが過ぎていく東京の慌ただしさに揉まれて、いつの間にか年が明けてしまいました。
 まとめとして、所感の前に河津町立図書館で調べたことを記しておこうと思います。

河津町立図書館


 図書館の郷土資料はかなり充実していた。伊豆周辺の資料が何冊も発行されていて、歴史のある土地なのだと感じる。どれも面白かったが、特に河津町文化財専門委員会と河津町教育委員会が発行していた『川津』が良かった。市民の方も有志で投稿していたようで、文体も視点もいろいろなのが、懐の広さを感じさせる。

 いくつも資料を読んでいくと、どうやら河津には明治時代、製糸場があり、近世初頭には、短期間ではあるがゴールドラッシュが起きてたらしい。しかし、ゴールドラッシュや金鉱についての資料はあまり見つけられなかった。あまり記載がないというのに、勝手に物語を感じる。

伊豆石
 伊豆石は江戸城の石垣材、品川台場などに使用されていた。東西海岸の山地には大名の石丁場があり、現在も矢型や刻印のある石が放置されている。また、伊豆石は江戸市中の灯籠、手洗い鉢、庚申塔などの石碑材にも使用されており、江戸の石文化の担い手になっていた。

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河津の神様

 河津でまつられていた神は、もともと分水嶺の神で、水分神(みくまりのかみ)、勝手明神と呼ばれる。北方にまつられるので子(北方)の神とか、甲子(北方)明神とも呼ばれ、山の頂から四方に流れ出す水量を調節してくれる。河津の上地区にこの神が多く祭られたのは、天城山頂に降った雨を山頂で調節してもらって、麓の山々の洪水を少なくしてもらうために祀られたものであった。
 明治初年の国家神道は河津地方の上地区の住民の意思を無視して、洪水帽子を願った子神、子守神を出雲系の神やただの水神に替えてしまった。しかし、依然として残っているらしい。
 また人々はむしろ晴天の神を祀る風習へと大きく変化していった。この神は神社という社には祀られず、石像物として野の祀られている。これらは河津の上地区に多い民族信仰であり、この土地が天城山系の村々で最も山の産物の多いことと、天城峠越えという伝馬の稼ぎの多さが晴天を要求したからであろう。晴天の神は太陽である。天道大日如来。この信仰は全国的なものではなく、今も地方によって残っている所があり、河津にもこの神の信仰が残されている。

引用:河津町教育委員会(1990)『町史資料編第5集 河津町の石造文化財Ⅰ』p6

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塞の神石祠
 村の境や集落の小道の辻、峠などに祀られて、その協を守る神のこと。集落内に疫病や悪魔などが入って、不幸を起こさないように村境を守る神で、サイの神、サエの神、セーの神などの呼び名がある。

石祠
 塞の神との判別がわかりにくい。河津にも多くの石祠があるが、住民の言い伝えも途切れて、現在では祭神不明のまま祀る人もなく朽ちるに任せたものが少なくないとのこと。

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・河津城跡
 特に遺構は残っていないが、1491年の火攻めを受けた際に消化に使った大量の米が焼き米となって今だに見つかるようだ。
 河津城跡地には結局辿り着けなかったので、次に河津を訪れる時はぜひ登りたい。

今はもう無いものを見る/私がいなくなった後を見る

 来の宮神社に、何かが置かれていたであろう空間があった。一段上がった四角く区切られた場所は、何かのための空間に見えたけど、今は何もなかった。図書館の資料を読むと、元々は鐘があったようだが、第二次世界大戦時中に兵器製造資源として昭和17年12月に回収されたとの記載を見つけた。
(また、来宮神社の狛犬は文政三年に商人からもらったものらしい。)

『保存版 伊東・伊豆・下田今昔写真帖』や『目で見る 三島・伊豆の100年』には貴重な写真が多く掲載されていた。特に印象に残ったのが以下の3つの写真だった。
 大正12年 源泉試堀により今と変わらず高く噴き上げる温泉
 昭和13年 まだほとんど水田の河津町の街道を出征する行列
 昭和35年 水田の中央でこんもりとした森になっている来宮神社
どの写真も、たった何十年か前なだけで、想像できないほどに街並みが違った。次に訪れる頃には、きっとまた河津は違った姿になっている。でもたぶん、変わっていくのは人間と、人間が作ったものだけなのだと思う。

 ここには何があったんだろう、誰と誰が何の会話をしていたのだろう、例えば雨が降っている日に響く音はどんなだろうとか、晴れている日の日差しは何を照らしてきただろうとか、河津での1週間、今ここにあるものを見て、それから今ここにないものを見ようとして過ごした。ここにないものを見るというのは、過去を想像するだけではなく、今から5分後、1時間後、1日後、1ヶ月後、私がいなくなった後の時間へも連なり、流れてくる。生き物はいなくなっていくけれど、石や木はそのままそこに佇み続ける。

 河津は今どんな風が吹いて、どんな波が打ち寄せて、どんなように山は輝いているだろう。
 かつて居た場所をこんなに鮮明に想像出来る(したくなる)のは久々だ。たった6日間の滞在だったが、かなり土地に体が馴染んだ状態で暮らせたのだと思う。一人で居ても寂しくなくて、疎外感も感じず、かと言って干渉もされない。ただ本当に普通に居られた。この普通に居るということがいかに難しいか。河津は不思議な町だった。山と海と川のある、静かな町。大ソテツや大楠のように、深く深く根が生えているような延々と続く町。

 河津に滞在してみて、やっぱり自分の戯曲を石に刻んで残したいな、と思った。

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 今後の制作に繋がる、とても有意義な滞在になりました。ホストの和田さん、お話してくれた河津の方々、アーツカウンシルしずおかのみなさま、本当にありがとうございました。また旅に行きます。

三浦雨林

【参照書籍】
加藤清志(2006) 『保存版 伊東・伊豆・下田今昔写真帖』郷土出版社
佐藤小一郎(1991) 『目で見る 三島・伊豆の100年』郷土出版社
中村羊一郎(2011)『最新版 静岡県全域ガイド』羽衣出版
伊豆学研究会(2010)『紙上博物館 伊豆大辞典』羽衣出版
金山閣書院『図説 静岡県史 別編3』
河津町教育委員会(1983)『町史資料編第8集 河津町の民俗』
河津町教育委員会(1990)『町史資料編第5集 河津町の石造文化財Ⅰ』
河津町文化財専門委員会『風土誌 川津』伊豆印刷
静岡県女子師範学校郷土史研究会編纂『静岡県 伝説昔話集』永倉書店
平凡社(2000)日本歴史地名体系第22巻 静岡県の地名』平凡社
稲葉修三郎『川津のむかし話』

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