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Ash 熱海旅人(MAW)の振り返り 「三船のいずれで波間をゆこうか」

熱海から戻って、あっという間に10日以上が過ぎてしまった。
出立時には咲いていなかった桜も、あっという間に満開を迎えた。

あの旅は確かにちょっと前にあったことなのに、20年もまえに世界をさすらっていた記録と同様に既に過去のものである。もっとも色鮮やかに繰ることができるページだが、その日々を作品にするにはまだ時間がかかる。だから、ここに記しておく。ここ二日の風雨ですっかり散りかけている桜のように色をなくす前に。

MAWしずおか

私は神奈川県の川崎市に住んでいるが、もともとク・ナウカという劇団に所属していた為、静岡県舞台芸術センター(SPAC)で仕事をいただくことが多く、今年は野外劇場有度での「忠臣蔵」公演や、週に1度の演劇アカデミーのために東静岡の静岡舞台芸術劇場に通っていた。

グランシップ

こちらのグランシップと呼ばれる建物の舳先部分に、演劇専門の劇場があり、SPACはそちらにあるのだが、実はアーツカウンシル静岡が同じ建物の中にあるというのは、このMAWの応募を通じて知った。

東静岡の駅から静岡芸術劇場に向かう途中に毎回通っていた

今回の事業は、2021年の1月に立ち上がったアーツカウンシル静岡の、おそらく嚆矢となる事業なのだろう。募集があったのは2021年の9月で(これにより私はアーツカウンシルしずおかの存在を知ることになった)、10月の終わり頃に「旅人」に選出されたという通知がきて、11月から翌年3月にかけて実施される事業のなかで、自分の滞在先となった熱海市に赴いた。

自分が旅人として熱海市に滞在した7日間に得たものは多大だったので、アーティストとしてはこの事業の素晴らしさを声高に叫びたい。ワーケーション、という一見ゆるい枠組のなかで、旅先での探究の時間と資金をもらうことがアーティストのインスピレーションにどれだけ多大な影響を及ぼすのか、体感することができた。

熱海サンビーチ

同時に、ここ数年、川崎の街で演劇を作る中で「まちづくり」に関わることが増えたため、受け入れてくれたホスト団体(彼らが実質的にはアートマネージャーの役割を担い、街と「旅人」をつないでくれる)の立場からのMAWの評価も、低くないだろうということが予想できる。

アーツカウンシル、及びわたしのホストになってくれた熱海のミーツバイアーツには、この場を借りて先に最大の謝辞を述べておきたい。ありがとうございました。

滞在場所を選ぶ

提示されていた多くの魅力的な滞在先の中から、熱海を選んだ理由について、語る必要がある。そこにはわたしのいつだって創作の枷になってきた自分の中の相反する二つの表現欲求、そしてライフステージの問題が絡んでいるからだ。

提示された滞在先を見て最初に興味を持ったのは「龍山町」だった。自然の中に取り残されたような小さな集落。写真にある荘厳な林の中にいる自分を想像するだけでドキドキする。何かに導かれるように創作が始まるときの感覚を思い出していた。

かつて、そんな創作を何度もしていた。世界中のいろいろな街で、家族のようにもてなしてもらって、旅から旅への生活の中で大きな宇宙とつながる感覚が磨かれていったことは間違いがない。それができなくなったのは、10年前、親という新しい肩書きを得た時である。物理的に旅から旅への生活が不可能になることを悟った。

旅から帰るといつもこの山に迎えられた

自分の腕の中で息づく新しい生命から教えてもらうものはミクロな宇宙だった。自分が忘れてしまった、祖先から人間が受け継がれてきたであろう細胞の記憶。例えば0歳児が周囲の音を聞き分けていくその習得の過程、二足歩行を始めるまでの筋肉の大幅で膨大なアップデート。それらの神秘に瞠目して過ごす日々。

SPACの演劇祭の仕事の時などは、子どもを近くのホテルで遊ばせていた

遠出はできなくなったが、ありがたいことにSPACでいただく仕事があったので、静岡に来る。その短い旅が私にとって大切な創作の構想を練る時間になった。だから静岡というところは、ここ10年の私の創作活動においては語るに欠かせない重要な土地なのである。(たとえ自分自身で創ることができなくても、東西の渾身の作品を見続けることには意味がある。)

静岡県内にも未知の街があり、今回創作をアウトプットとして要求されないことも考えれば、なかなか訪れにくい場所を選び、土地との出逢いから新たな気づきを得たいのはやまやまであったけれども、子どもを置いて1週間家を留守にすることを考えると、天竜は遠いのではないか。何かあったら帰れる場所にしたほうがいいのではないか…検討の結果、龍山は第二希望の欄に書いたのだった。(事実、滞在中に大きな地震があって、割と肝が冷えた)

そして、そことは真逆の、今回の候補地の中でもっとも観光地として賑わっているといえるだろう街を第一希望にしたのは、何も一番地理的に近かったからではない。この選択にこそ、ここ10年間、いやもっとか? アーティストとして出発してから今までの私の葛藤が凝縮されている。

まちづくりとアートとの関係

わたしが「まちづくり」のことを意識するようになったのは、海外から帰ってきてすぐのことなので、芸大に入るより前だった。その時関わっていたミュージカルの作品をプロモーションするために、長野県の小諸市に3ヶ月ほど滞在した。小諸ではまちづくりが盛り上がっていて、若い市役所職員さんたちや、農家さん、地元企業の方などに毎日のようにいろいろなところに連れていってもらった。

劇場は、街の人たちが集まって情報交換をして、教養を深め、地域自治について話をする場所であるべき、という私の基本的な信念はこの時に生まれた。

その後、芸大で宮城さんに出会って、鈴木忠志さんの演劇塾を勧められ、スズキメソッドのトレーニングを受けるために行った富山県の利賀村で上記の信念が確信にかわる。

3週間滞在させてもらった利賀村の瞑想の里

利賀村の商工会議所に掛け合い、三週間の滞在制作をさせてもらい、村の人たちと一緒に作品を創る経験をした。(鈴木さんが切り拓いてきた土壌があったので可能だった。)

短い滞在であればまだ他の地にも思い出がある。これらの経験と信念を軸に、地域資源としての演劇を創り、多くの人と共有したいと考え、子どもが生まれた10年ほど前に、まずは自分の住む街から始めようと思ったが、ここからが大変だった。
小諸はもともと栄えた町ではあったが、新幹線の駅を作らない選択をしたために、観光客の足は遠のき、街を元気にするためのミュージカルを求めていた。利賀村は過疎の村だけれど、鈴木さんの演劇祭が爆発的な力を発揮することを知っているので、アーティストを大切にしてくれる。しかし、工業都市として発展し、商業的にも東京に近くてモノや経験の溢れている川崎市では、まずアート、特に演劇の地位が低いのだった。

アートを消費する街

川崎は完全に消費社会であり、アートを創る人間にも工業製品を作るのと同じマインドを求めてくる。劇団をやっています、というと「どうやってマネタイズするの?」「劇団も金銭的に自立できる方法を模索しないとね」と言われることはしょっちゅうだった。「わたしたち役者は河原乞食ですから」とは冗談にしても口にすると痛痒を禁じ得ない言葉であった。

こりゃ、不毛の大地にタネを撒き始めてしまったもんだ、と我ながら嘆いたこともあったが、諦めずに耕しているとそんな大地にも春風の兆しが届く。それは、地域デザインという胡乱な言葉と一緒にやってきた。(と胡乱なやつに言われたくないだろうけれども。)

デザインと、アートはオモテウラである。(アートをお金にするのがデザインだと、昔デザイン科の何某くんは言っていた。じゃあデザイン科出身の人はアーティストではないのか、というと黙ってしまったが。)
消費社会を生きる人はアートよりもプロセスやアウトプットの明快なデザインという言葉が好きだ。

地域をデザインする、要はまちづくりを今風に言い換えただけなのだが、急にアート寄りの話が持ち上がるようになり、隣町では心ある大家が地元の人たちのニーズを掬いあげ、少しずつ街の中に文化的な空間を作りはじめていた。これは、劇場がないこの街にせめても劇場の代わりになる空間を創るチャンスではないか、と何度か熱苦しい話をしたが、街の大家にいきなり劇場を作ってくれと言ってもそれは無理だ。

その大家氏が代表理事を務めるゲストハウスが、なぜか熱海にあるというので、連れて行ってもらった。その時に肌感で、熱海という街が観光資源としてアートを必要としていることが伝わってきた。一度失った輝きを、再び取り戻した街の強さとそこに住む人たちのメンタリティに興味を持った。

まさか、その一年後に旅人としてそのゲストハウスに滞在することになるとは夢にも思っていなかった。


古いものと新しいもの


観光地としての栄枯盛衰を経験し、再び蘇った街の強さを見てみたい。その街に根付くアーティストはどんな葛藤を抱えて表現しているんだろう。わたしと同じようなことに悩んだりもするのだろうか。もっと違う視点があるだろうか。

こんな考えは、休むに似たり、と悩む時もある。
でも、私の琵琶の師は言う。「人生には演奏を休まなきゃならないときもあるのよ。でも、身につけた芸は決して消えないから、できるときにまた始めればいいの」

MAWはワーケーションだから、すなわち休むことを否定しないでくれる。そうしたら、思い切って熱海という街で見聞に勤しむのも悪くはないだろう。

このあかりひとつひとつのなかに人の営みがある

少し話はそれるが、私が琵琶を弾き始めたのは幼い頃に大好きだった百人一首の影響があることは5日めの日録で書いた。

「夕されば門田の稲葉おとづれて 葦のまろやに秋風ぞ吹く」という和歌を作った大納言経信(だいなごんつねのぶ)は、白河上皇の遊びに随行した時、遅刻をぶちかまし、すでに出てしまっている船を必死で呼び戻す。船は「漢詩の船」「和歌の船」「音楽の船」の三艘があり、自分の得意な分野の船で芸を競う、という趣向だった。どの船を岸につけるか尋ねられた経信は「どれでもいい」と答え、結局音楽の船に乗り琵琶を弾いた。さらに漢詩と和歌を作って天皇陛下に捧げた。それ以来この貴族は「三船の才人」と呼ばれていた。

この「夕されば」という和歌は、殿上人である彼が身分の低い人間の気持ちになりきって詠んだ歌なのである。この時代に俳優という職業はないが、あれば演技も相当の巧者だろう。

平安時代を彩る名シンガーソングライターはこの人だけではなかったが、彼らの教養の象徴であったその楽器に憧れた私は二十年後に遅ればせながら琵琶を弾き始める。古き良き、そして悪しきものすら併せ飲むような古典芸能の懐の深さに魅せられ、歴史を語ることはすなわち人間の営みを賛美も卑下もせず、ただ肯定することだ、という境地に今はいる。

三船の才人にあこがれたせいか、こんな不思議な肩書きになってしまったが。「演劇の船」「音楽の船」「文筆の船」さて、今日はどの船に乗り込もうか。

そんな気分で熱海に「乗りこんだ」。

熱海はそんなわたしをまるっと肯定し、受容れてくれた。清濁合わせ飲む大丈夫のような懐の深さは、ちょっと川崎という街の持つそれとも通じるものがある。その一つ一つの出会いは日録に書いたので、そちらを読んで欲しい。

そのうち一人である、芸者の松千代さんが「なんていいところに来たんだろうと思った」と言っていたあの夜景。一度消えかかっていたその光を呼び戻した力。街は休んでいたけれど、けっしてその魅力は失せたわけではなかった。時がきたから再び輝きだしたのだ。

シンポジウムへの敷衍


このMAWから戻ってすぐに、地元の川崎で「アートDeまちづくり」というシンポジウムに登壇することになっていた。パネリストとしてではなく、討議のファシリテーターとしてである。

ここでも「三船」っぽさを発揮しているww

アーティストが登壇するよりも、アートマネージャーや研究者の視点の方が一般的にわかりやすいシンポジウムになる、それはそうだ。10年孤軍奮闘してきたからこそ、今この動きは素直に嬉しいし、それが「地域デザイン」なるものと背中合わせにくっつけられていたとしても、ないよりはいいのだろう。

このシンポジウムの話を受けたのは、これがアーツカウンシル川崎を作ろうという動きにつなげていくための前哨戦だと、主催者にきいたからである。

シンポジウムは盛況だった。
地元の人が一番地元の魅力に気がつかないというのは、地方のことだけではなく、川崎のような都市部でも一緒である。(いや、単に田舎マインドなのかも)

熱海での経験も、微力ながら役に立った。
ほんとうにアーツカウンシルが立ち上がるのかについては、ながーい道のりを感じるところはあるが、なんにせよ、初めの一歩を踏み出すことは大切なのだ。息子が、初めて歩いた日をちょっと思い出した。


こうして、すでに過去のものとなっている滞在の記憶を辿りながら、その意味について字面に起こしていく作業というのは、実はアーティストがもっとやるべきことなのかもしれない、とふと思う。

文章を書くのが嫌だから、作品を作っているのに、という人も多く知っているが、明確に歴史になにかを刻むのは、文字であり、文章なのだと痛感する。演劇も、琵琶も、その文字で書かれたものを現在を生きる人間が口にして、その場の空気を震わせるからこそ、古典であっても進行形の物語となり、現代を写す鏡ともなり得る。

私の熱海滞在は、私が文字に残すことで、それこそ源実朝公の熱海滞在と同じように歴史に刻まれる。和歌のひとつでも詠めば、公のように歌碑にはならなくても、小さな歴史の片隅に残る。
刻まなければ、それはただ流れていくのだ。
割れて、砕けて、割けて散った幾千、幾万の波のように、ただ流れて。

そして、ただ流れていくもの。それを本当は私はとても愛おしいと思っている。
自分がゆかし、愛おしと思う気持ちにあらがい、この文章を記している。



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