癸生川栄(eitoeiko)「イソヒヨドリあるいは稲生沢BOYZ殺人事件」(六日目)

 まだ下田に四つの中学校があった頃。稲生沢(いのうざわ)川にかかる中村大橋のたもとから、フェンスを越えて川べりに降りた少年は、身体よりも大きな安物のアコースティックギターを弾いていた。成績は良くも悪くもなく、運動が苦手でも得意でもない子どもだったが、ひとつだけ特別なことがあるとすれば、ギターが弾けることだった。少年は簡略化したコード進行を使って、自分で書いた歌詞にどこかで聴いたようなメロディをつけて歌っていた。学区の他の生徒に知られないように、自転車で少し離れた川向うに来るのが少年の日課だった。
 橋を通り過ぎる自動車の騒音が少年の音色をかき消してくれるおかげで、その才能は誰に知られることもなかった。ある日、橋を曲がった横道で、自転車に乗ったまま川面の少年を見下ろす同級生の少女に出会うまでは。
「〇〇君、歌うまいね」
 演奏が終わったとき、少女が声をかけた。少年はどこかに逃げ出したかったが、これ以上どこにも行き場のない小さな船の係留場からは、どこにも逃げられなかった。
「どうして△△がここにいるんだよ」
 少年は少女に向かって怒るように訊いた。
「私のお父さん警察署で働いているから」
すぐ裏手の建物が下田警察署だったのだが、少年はそれが答えになっているのかどうかわからなかった。そしてどうでもよかった。
「〇〇君って大人っぽいね」
 少女はその場を去っていった。少年は四月生まれで、少女は三月生まれだったため、じっさい年齢に違いはあった。そのことを言っていた訳ではないのかもしれないが、少年はそう思うことにした。そしてなんだか心の奥に自信のようなものが芽生えるのを感じた。
 中学に入って少年は初めてのバンドを組んだ。バンド名はメンバーの誰かが提案して、イソヒヨドリになった。少年は恥ずかしがりで、自分から友人に話しかけることもなかったが、たまに自分の冗談で人を笑わせると、満足な気分になった。卒業生を送る会で、彼ははじめて人前で歌った。

もしも14の僕がさかさまになったら
僕は41の大人になれるだろうか
太ったお腹を気にしているんだろうか
もしも13の君がさかさまになったら
君は31の大人になれるね

 少年は同級生の少女の言葉を憶えていたのだ。はじめての観衆のなかに、少女もいた。生徒たちは笑っていたが、少女は笑っていなかった。

もしも15の僕がさかさまになったら
僕は51の大人になれるだろうか
会社で課長と呼ばれているんだろうか
もしも14の君がさかさまになったら
君は41の大人になれるね

 結果的にイソヒヨドリのデビューライブはファイナルコンサートとなり、中学を卒業するとバンドは自然消滅してしまったが、下田高校に入っても少年は歌をつづけていた。下田で一番ギターがうまいということは決してなかったが、弾きやすいエレクトリックギターのおかげか演奏は以前よりはましになったと自分では思っていた。
 ある日、少年は文化祭で久しぶりに人前で歌うことになった。そのとき結成したバンドの名前は少年も忘れてしまった。数少ない仲のよい友人たちと、オシャレなバンドだけはやめようと言っていたことを憶えている。少女も下田高校だったが、すれ違っても話をすることはなくなっていた。だが、ライブに集まってきた意外に多い生徒の中には、彼女の姿もあった。

もしも17の僕がさかさまになったら
僕は71の大人になれるだろうか
とっくに老人と呼ばれているんだろうか
もしも16の君がさかさまになったら
君は61の大人になっているんだね

もしも18の僕がさかさまになったら
僕は81の大人になれるだろうか
老人ホームで歌っているんだろうか
もしも19の僕がさかさまになったら
僕はそこまで生きているんだろうか

ああ生きていたいって言ってみたい
生きてていいって言われたい

 それは下田高校の卒業式の翌日だった。中村大橋の上で、少年はばったり少女に出会った。狭い街なので、そんなに珍しいことでもないのだが、そこにはあの日の思い出がある。あ、あのさ。少年は意を決して、思い切って、彼女に訊いた。ライブ、どうだった?彼女はちょっと笑って、ああ、ええ、何ていうか、と少し考えて言った。
「〇〇君って子どもっぽいね」
 少女は東京の大学に進学して、下田には戻ってきていない。少年は浪人してやはり都内の大学に進学し、20年経ったいまでも中央線沿線をうろつきながら、働き、たまにそのときどきの仲間とバンドを組んで歌っていた。
 
もしも41の僕がさかさまになったら
僕は14のこどもになれるだろうか
趣味が気持ち悪いっていわれるんだろうか
もしも31の君がさかさまになったら
君は13で大人びた少女のようだね

もしも51の僕がさかさまになったら
僕は15のこどもになれるだろうか
受験勉強についていけるんだろうか
もしも41の君がさかさまになったら
君は14でもう大人のようだね

 バンドの評判はまったく芳しくなかったが、彼の心にはいつも地元の風景があった。そしてそこから眼をそらしながらも、決して忘れることはなかった。少年の耳はずっとイソヒヨドリの鳴き声をきいていたのだ。
 彼が遺した手帳には、歌詞が留めてある。

もしも僕がさかさまになったら

もしも14の僕がさかさまになったら
僕は41の大人になれるだろうか
太ったお腹を気にしているんだろうか
もしも13の君がさかさまになったら
君は31の大人になれるね

もしも15の僕がさかさまになったら
僕は51の大人になれるだろうか
会社で課長と呼ばれているんだろうか
もしも14の君がさかさまになったら
君は41の大人になれるね

もしも17の僕がさかさまになったら
僕は71の大人になれるだろうか
とっくに老人と呼ばれているんだろうか
もしも16の君がさかさまになったら
君は61の大人になっているんだね

もしも18の僕がさかさまになったら
僕は81の大人になれるだろうか
老人ホームで歌っているんだろうか
もしも19の僕がさかさまになったら
僕はそこまで生きているんだろうか

ああ生きていたいって言ってみたい
生きてていいって言われたい

もしも41の僕がさかさまになったら
僕は14のこどもになれるだろうか
趣味が気持ち悪いっていわれるんだろうか
もしも31の君がさかさまになったら
君は13で大人びた少女のようだね

もしも51の僕がさかさまになったら
僕は15のこどもになれるだろうか
受験勉強についていけるんだろうか
もしも41の君がさかさまになったら
君は14でもう大人のようだね

もしも71の僕がさかさまになったら
僕は17の何者かになれるだろうか
人生をやり直したいと思うんだろうか
もしも61の君がさかさまになったら
君は16の大人になっているんだね

もしも81の僕がさかさまになったら
僕は18の大人になれるだろうか
本当に大人になっているんだろうか
もしも91の僕が19になったら
そんなにそれは嬉しいことなんだろうか

ああ生きていたいって言ってみたい
生きてていいって言われたい

僕と君がさかさまになったら
僕は大統領になれるだろうか
それでもやっぱり戦争をするんだろうか
もしも君が僕と入れ替わったら
迷子の子どもにやさしくできるんだろうか

ああ生きていたいって言っているよ
生きてていいって言われたい

 現実の彼は故郷に戻り、下田市職員を経て下田市長になった。その後の話については、熱心な読者はもう知っているはずだ。

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