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新造真人「風景の因数分解、知らない隠し味(1日目)」

自己紹介

はじめまして、新造真人(しんぞうまこと、と読みます)です。本日12月14日から1週間、静岡県伊東市の伊豆半島を中心としたエリアで活動をさせていただきます。生命性や虚構をテーマに作品制作をしており、美術、写真、コーラといった媒体で発表させていただくことが多いです。

こちらに自己紹介乗っていますので、ぜひ刮目ください。

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風景の因数分解と、知らない隠し味

前世というものがあったとしても、ここ伊豆半島には来ていないだろう。これまでの短い人生で、46都府県を巡ってきた。はじめての土地を訪れても、ここはどこどこに似ているな、と無意識に計算してしまう。例えば、山形のとある町に行ったときに「ここは高知のアーケードに、宇部のあの曲がり角を足した感じだ」などと、頭の中で、目の前の風景の構成要素を分解し、それをこれまで見てきた風景で四則演算を行う。食べ物に関しても、何かを食べれば、それの作り方が、ある程度予想がついたりする。そういった風に普段から身体感覚の計算をしていると、ふとした路地、ふとした香り、ふとした盛り付けに、「これはなんだ????」と、体が反応する。視覚的になにかを分類するのは容易なはずだが、たとえ分類できたとしても、最後の隠し味が足りない、つまりは、未知なるものに触れている、ということが、ぼわんと身体と、頭に迫ってくる。

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私は2年前に小田原に移住して来た。普段、美術の仕事をしており、広いスペースと、ゆったりできる環境に身を置きたいと思ったからだ。小田原駅から6kmほど離れた田舎エリアに住んでいる。土日はバスがなく、平日も夕方ごろには1時間に一本のバスが終わる。ここちのいい不便があるところで、それが気に入っている。しかし、不便とか、便利というのは、そこに住む人が何を求めるかである。家のすぐ近くには東京タワーもナンジャタウンもパチンコもない。が、ぼくは別にそれを求めていない。便利とか、立地がいいっていうのは、人によって違う。どこが都会なのかは自分で決めていい。

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小田原の今住んでいるところは、めちゃくちゃ都心だ。都心すぎて、代官山が田舎に感じる。表参道ヒルズにイノシシは歩いているか?銀座でカマスはつれるのか?小田原の家は、歩いて5分で釣りができる。素人がつくった竹竿で、糸をたらせば魚が釣れる。肉は同居人の猟師がイノシシを捕まえてくる。最寄りのコンビニは自転車で往復30分かかるが、ご近所さんが育てた無農薬野菜をときどき知らぬ間に玄関に置いといてくる。そんな生活をしていて、都心でしか買えないものなんて、年に数回買う機会があればいい。自分の人生を、どんなことで満たしたいのか。


便利、とか、都心、とは。一体なんだろうか。いわゆる東京的な都心が嫌いなわけではない。ただ、ずっとそこにいる必要も、東京だけを都心・都会と思う必要もないよね、と思っている。というのも私は18歳まで東京の三鷹で育った。めちゃくちゃ三鷹も、東京も好きです。嫌いなところもいっぱいあるけど。祖父母が山口の出身なので、夏休みは山口の田舎で過ごしたが、家の近くにすぐ海があって、夜はイノシシBBQをするなんて生活はこれまでしてこなかった。しかし、その土地も、この生活も、すぐ肌になじむ。なんというか、驚きがない。昔から、そういったことをしていたな、というふうに、すぐに慣れた。

しかし、今回、その小田原から電車に乗って1時間とちょっと来た町。この、伊東という町は、「来たことがない町だ」という感覚が強い。それは、当たり前のことで、当たり前の感覚なのだが、他の行ったことのない町で感じる「来たことがない町だ」と、この伊豆半島の「来たことがない」はどう違うのか。そこに焦点を当ててみたい。

1日目の行動記録

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滞在1日目。昼過ぎに小田原の家を出発し、14時過ぎに伊東に着く。到着してから、いつもなら、観光案内所によるが、今回はパス。船本さんがたくさん情報を教えてくれるし、情報方になりすぎると、自分の嗅覚が鈍る。

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どんな町なのか、と、町のアーケードにいったり、なにもお店がなさそうな路地を歩く。いわゆるほっつき歩く。そして、本日のお宿「K's House」に到着。宿のご主人と話し、荷物を置いてから、初めてお会いするホストの船本さんにいくつか車で連れて行っていただく。

まずは、船本さんおすすめのなぎさ公園。重岡建治先生の彫刻。その後、イルカを見る。シーシェパードの話をしたあたりから、頭がぐわぐわ回り始める。頭の中でタブが5個くらい開いた。そして、知り合いに「世界一うまいいちご大福」として紹介された司さんが17時閉店なので駆け込む。そちらでいくつか大好きな甘いものを購入した。


夕飯は、船本さんおすすめの納豆チャーハンを。17時開店ということで、すこし早くついてしまったので、お店の近くでフラフラと歩きながら話をした。

「伊豆っ子ラーメンのをオススメします。知るひとぞ知る伊東名物(伊東市民しか知らない?w )納豆チャーハンの元祖のお店です。地域を知るには食から。洗礼を浴びてもらいましょう。」

こちらは船本さんのコメントなのですが、たっぷり洗礼をあびました。先例といいますか、ただただ美味しくて、楽しくて、伊豆名物でした。近所にあったら通いたい。これは、本音です。よく、そういうことを軽々しくいう人がいますが、これは本音です。念のため。いいですね、納豆チャーハン。ナチュラルに美味しい。

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そして、冷えるので宿に戻り温泉に入りました。

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温泉から上がって、コタツでぬくぬくと伊豆の国ビールと、司さんで買ってきたいちご大福をはじめとした甘いものを食べていたら眠くなってしまいました。起き上がって、よっこらしょ、と今書いています。

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今日はこれから、宿の方にお勧めいただいた近所の居酒屋やBARを探索してみようと思います。楽しむのも、仕事のうちですからね。

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まずは、私の自己紹介からはじめあす。私(わたくし)新造真人は、コロコロと、主語が変わる人間です。文章の途中で、その場にあった主語に、一人称をコロコロと転がします。たとえば、今、「私(わたし)」は、はじめて今回のプロジェクトのnoteを書いているので少しかしこまっています。けれど、すこしお酒が入っているので、「私」は「わたし」になりつつあり、もう少ししていくと「ワタシ」になったり、「ぼく」になったりします。

何が言いたいのか。それを端的に言ってしまえば、一人の中には、たくさんの自分がいます、ということです。よく、本当の自己、本当の自分みたいな言い方をしますが、「わたし」は、嘘だと思う、思いたいような追い出したい自分も、一つの自分の中にあると思います。「わたし」は今朝、起きて、布団から這い出しました。雨が降っていて、とても寒かったので、伊豆には行かずに、ずっと家でゴロゴロしていたいなと思っていました。でも、そんな風に思いながらも、頭の中では「いや、行ったほうがいいよ。きっと楽しいよ」とか「午後からは晴れるらしいよ。ホストの船本さんは優しいし、気分屋のあなたを追い立てたりしないよ。自然体でいいんだよ」「仕事なんだから、さっさと準備しろよ」などと、何人もの、自分の声が聞こえて来ます。

分人主義を提唱している平野啓一郎さんの「本心」おすすめです

そのどれもが、自分であり、どれもに、納得します。メンドくさがり屋の自分の気持ちもわかるし、事務員のように決められたことを淡々とやる自分。色々な自分がいて、それらの声を、一つの場面で一気に聞くことは難しい。けれど、それぞれの自分が、舞台に立てる。役割を発揮できる場面があると思うのです。つまり、自分というのは、一つの職業に縛られるものでもなく、一つの住所に縛られるものでもなく、一つの興味に縛られるものでもない。この「縛り」というのは、今日、ホストの船本さんとお会いしたときに、何度か私たち2人の口からでたキーワードでした。「縛り」とは一般的に、窮屈なイメージがありますが、美術の世界では、その「縛り」が、効果的に発動する時があります。

それは例えば、場所特異性アート / サイトスペシフィックアート と呼ばれるものです。これは、展示される場所に合わせた空間、地理的条件、歴史条件に添わせた形で、展示 / インストールされた作品によく用いられます。わかりやすく言えば、ギャラリーという場所は一般的には、真っ白な壁の部屋で、そこに作品(絵とか、写真とか、彫刻とか)が飾られます。一方で、場所特異性アート / サイトスペシフィックアート というものは、その場に合わせて作成されることがおおく、展示場所も、真っ白な壁というより、ときには、廃ビル、病院、学校、屋外、神社、カフェだったりします。近年、例えば、瀬戸内海の瀬戸内芸術祭や、石川県の奥能登国際芸術祭、群馬の中之条ビエンナーレなど、地域芸術祭などと呼ばれるものが、日本だけでなく世界中で行われていますが、これらの大半の作品は、「場所特異性アート / サイトスペシフィックアート」とも呼ぶことができるもの、つまりは、その場のために作られたものが多いです。具体的に言えば、奥能登の宝湯という銭湯では、奥能登の歴史や、その銭湯の歴史にフォーカスした作品展示や、銭湯の浴室や休憩場の空間を生かしたような作品が展開されます。

日本の地域芸術祭のドン、北川フラムさんの本は必見です

白い壁の良さというのは、作品だけが存在として浮き上がるのですが、場所に対応させた作品(の中でも良いもの)というのは、鑑賞者に、作品だけでなく、その場所の成り立ちや、歴史背景、空間へのまなざしを促します。「ぼく」は、そういったことに強い関心があり、普段、作品制作を行うときは、展示する空間のリサーチをして、どのようなものがそこにあって欲しいか。もしくは、そこにどのような装置を付け足すことで、ぼくの気持ちが収まりよくいくのか、そういったことを考えています。やっと、自己紹介に移れました。

今、ぼくが述べた「気持ちが収まりよくいくのか」というのは、超個人的な内容なのですが、収まりよく、というのは、わかりやすく言えば、腑に落ちる、ということです。頭だけで記号を操るのではなく、その場においた肉体のじぶんが、腑に落ちるためには、どうしたらいいのか。腑というのは、いわゆる臓器な訳で、頭ではなく、体が"なんとなく"ゴーサインを出せているということです。そのような腑に落ちること、内臓感覚的に、超個人的に考えていくことにより、少しだけ階段を降りていくことができます。


普遍的、とまでは行きませんが、超個人的な深堀によってAという事象を掘り進めることで、それをみた鑑賞者の方のBというアプローチで繋がれるかもしれない。直接的でなくて、いい。これが僕の、心構えです。同じ風景を見ていても、同じリンゴを食べていても、感じ取っているものは別々なのです。しかし、全く別の風景を見ていても、ふっと、そこから階段を降りていくと、以前見た全く別の風景と繋がることができる。そういった、妄想しりとりのような、もしくは、民俗学者の折口信夫氏が得意とされていた「類化性能(≒アナロジー)」のようなものを、自身の作品や活動によって、鑑賞者や、その周辺の人々に起こせたら、それはとても楽しいことだなと思っています。


明日以降は、しっかりと、その場の身体で感じたことを、綴ろうと思います。


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