癸生川栄(eitoeiko)「西村京太郎殺人事件」(一日目)

 東京発12時00分の特急踊り子115号はまばらな乗客を乗せて進路を南に取っていた。前日、福島県沖にマグニチュード7.4という大きな地震があり、東北新幹線が脱線するなどの被害があったが、東京駅は東北新幹線の運転見合わせを告げるほかは、マスク着用義務のある日常を淡々と演じているようであった。
 その先頭車両に全身黒ずくめの男が乗車していたが、別段誰の目にも止まることは無かった。横浜駅で老母を連れた熟年の女性が乗り込み、男の後ろの座席についた。彼女たちは久しぶりの旅行に浮いた声で会話をしていた。伊東が近づくにつれ「もうすぐハトヤだね」とコマーシャルソングを口ずさんでいたが、視界に現れた老朽化した建物を見て「汚い・・・」と心無い言葉を呟いていた。
 ハトヤだけではない。日本中がくたびれているのである。こと観光資源に頼ってきた地域には、この二年間に蓄積したダメージは相当なものであると心中お察しするのが大人の作法なんじゃないのか、といったことを考えていたかどうかわからないが、親娘の二人連れと男は他の乗客とともに終着駅の下田に降りた。

 終着駅の佇まいには格別のものがある。線路が途切れ、その先に改札口のある風景は、旅の目的地にふさわしい。ここで鉄路は終わり、バスやレンタカーなど別の移動手段をとって旅を続ける者もいれば、送迎車に乗り込み温泉宿に赴く者もいる。遠く離れた西方の地では、多くの市民が侵略戦争の災禍を逃れるために列車で隣国に避難しているが、この下田は一見、地震にも戦争にも関わりのない平穏な姿を見せていた。世界は繋がっているし、バラバラに離れてしまってもいる。
 結果的にコロナ前の国内アート事情を象徴することとなったあいちトリエンナーレ2019には「情の時代」というテーマがあった。その英訳にはTaming Y/Our Passionという言葉が充てられていた。「あなたの/あなたたちの/わたしたちの 情熱を飼いならすこと」と再翻訳できる。オーストラリア出身の人気バンドTame Impalaは飼いならされたインパラ、の意となる。芸術祭は「表現の不自由展・その後」に対する右翼の抗議活動によって制御不能となり、その中断・再開と文化庁の補助金の不交付・再検討・減額という動きから、それ自体が解体されてしまった。新しく登場した国際芸術祭「あいち2022」は「STILL ALIVE」と謳いながらも、そのコンセプトにはあいちトリエンナーレ2019の文言は一言もあらわれていない。ま、ちゃっかり英文はそのままAichi Triennale 2022となっているのであるが。
 男がそんなことを考えながら列車に乗っていたのか、それともただ画面の割れたスマートフォンでアプリゲームをしていただけなのかどうかはわからない。東京から下田は直通で2時間45分と、さほどの時間は要さない。男は駅近くの眼鏡店に入り弦の修理を頼み、それが仕上がると小さなビジネスホテルに入っていった。

 昨夏開催されたART OSAKAというアートフェアでは、大阪府にまん延防止措置が施行されていたため、コンビニで夜食を摂るしかなかったことを思い出した男は、日の落ちた街に出た。市内は車社会だった。側溝を石板で覆った歩道を歩きながら、シャッターが降りたままの店の前を過ぎ、大型スーパーマーケットに入った。そこで「ご当地もの」を探したが、何も買わずに出た。さらに進むと、角地に平屋建ての書店があった。駐車場があり、いくつも並んだ本棚には婦人誌、趣味の雑誌、実用書、小説、漫画と様々な書籍が種類別に並んでいた。売れ筋の順位をつけたディスプレイもあった。全国でこのような書店がどのくらい残っているのだろうか。都心では大型書店以外ではこのような大きな書店は珍しい。かつてはあったはずなのだが、現在となっては大きな書店と言っていいのではないだろうか、と男は思った。
 店内では数人の客が物色しているほか、女児が母親に本をねだっていた。書店の本棚で背表紙を読みながら意中の書物を探し当てることに比べたら、アマゾンで購入する物足りなさったらない。本を読む行為には、本を探す行為が含まれているのではないか。そこで、探している本とは別の本があることを認識し、人間はほかの可能性に気づくのではないだろうか。ウラジーミルとか書店で本を探した経験を忘れてるのかしら。
 小説の棚のほとんどは興味のない、くだらない本ばかりが並んでいるのだった。ほんのいっとき、どこか別の世界に連れて行ってくれるだけの娯楽。いや、そのことは素晴らしいことなのかもしれない。気が付くと、書店のリノリウムのタイルの上で、西村京太郎が仰向けになって死んでいた。本名矢島喜八郎はひな祭りの日に、九十一歳で亡くなったのだ。

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