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Ash 熱海5日目 「沖の小島に波の寄る見ゆ」

熱海滞在5日めとなるこの日は、湯前神社で琵琶の奉納演奏をした。

湯前神社

熱海の湯の神様を祀る神社で、この日はわざわざ来宮神社から宮司さんと巫女さんが来て、祝詞をあげてくれた。

熱海滞在のために私が用意した曲は「源実朝」だったのだが、この神社の境内にも実朝の歌碑があり(そしてこの簡素な神社の境内にはそれ以外には何もない)、あまりの偶然に驚いたことは先日も書いた。

熱海の図書館で読んだ「吾妻鏡」

源実朝は、言わずと知れた鎌倉三代目将軍、頼朝と政子の息子である。二代目将軍頼家の弟だが、その頼家の息子である公暁に父の仇と勘違いされて殺されてしまう。その有名な話を、琵琶のクズレで弾じる。鶴岡八幡宮の大階段の下、大銀杏の前が、その舞台だ。

湯前神社の神木(イチョウではなく楠である)


この実朝公は、雅やかな人で、和歌を嗜み、金塊和歌集を遺す。私と実朝の和歌の出会いは百人一首である。

世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海女の小舟の綱手かなしも
(世の中が永遠に変わらないものであれば良いのになあ。海岸に沿って漕いで行く漁師の小舟の引綱を陸から引く姿は、しみじみといとおしいものだ)

 鎌倉右大臣


私が琵琶を弾いているのは、好きが高じて小学校に上がる前に全首を記憶していた百人一首の影響が多分にある。百人一首の歌を覚えるだけでは飽き足らず、詠み人の名前も一字一句間違えずに記憶して、その歌人の人生に思いを馳せる変な子供だった。その上、毎年のように勝手に「My BEST SELECTION」を選出しており、実朝のこの歌は、マイベスト3に入っていた。今思うと、なぜこんな渋い歌を選んでいたのだろう。幼少の私にきいてみたいものだ。

その頃の一位は菅家の「このたびは」であり、第二位が阿倍仲麻呂「あまのはら」であったことを考えると、位と徳が高い人間の、それに見合わぬ「悲劇的な滅び方」に心を寄せる癖があったように思える。(つまり歌そのものよりもその人間そのものにより興味を抱く傾向にあった。)

当然といえば当然で、現在は和歌の技巧の素晴らしさに打ちのめされた持統天皇の「いにしえの」や、頭韻の見事さに聞き惚れる大納言公任の「滝の音は」などに感銘を受けることを考えると、子どもの頃は歌そのものの良さなどよりも、どんな人間が詠んだのか、どんな物語がその裏にあったのか、ということがかなり気になっていた。

琵琶曲・源実朝

私の弾く琵琶曲「源実朝」も、拝賀の礼で実朝が鶴岡八幡宮の大階段を一歩ずつ降りてくる優美な姿と、そこに突如現れる刺客・公暁の早業を描く前段に続き、後段ではひたすら実朝がどのように人格者で人から愛されたか、どのように雅人で美しい歌を詠んだか、ということを語る

琵琶歌にはその人物が描かれた詩吟や、当人が詠んだ和歌が折り込まれるのが普通で、この曲には実朝の私集である金塊和歌集より以下の歌が引かれている。

箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ

金塊和歌集(639番)

現代語訳を入れる必要がないくらい、普遍的で力強い歌である。十国峠にもこの碑があるという。その単純で明快な情景描写を締めくくるナミノヨルミユ、という響きのやわらかな集約力。初めて琵琶歌で聴いた時に、前半のクズレの何倍も心に刺さった。

この波が寄する小島は熱海市の「初島」であると言われており、実朝は22歳の時二所詣で箱根権現、伊豆山権現を訪れた時に、この歌を詠んだとされる。

前日に伊豆山から眺めた初島

前日に、伊豆山を詣でた際に、初島を眺めてみた。
実朝が見たのもこんな景色だっただろうか(建物はなかっただろうけれども)。

実朝については、小林秀雄の「実朝」や、太宰治の「鎌倉右大臣」などの作品もあり、その人生と詠み遺した歌の数々は古来多くの表現者を惹きつけてやまないのだと思う。

今回の奉納に関しては、この熱海でご縁のあった方に感謝をする意味と、一昨日目にした伊豆山地域の災害からの復興への祈りを込めて、演奏した。
特に告知をしたわけでもなかったけれど、早朝だというのに近隣からご縁のある方々が駆けつけ、見届けてくださったことに感謝したい。

となり町から舞台仲間が来てくれ、演奏後は来宮神社にお詣りしていってくれた


音響セッティングもしてくれたミーツバイアーツのお二人に感謝

それにしても、気になるのは…


この子。どうしたんだろう。

歌碑の後ろに打ち捨てられていた?立札っぽい歌碑

石の歌碑ができるまで簡易的に立っていたのだろうか。
謎は深まるばかりである。

※ 熱海新聞にも取り上げていただいていました。ありがとうございます。


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