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サンデールーム 22歳だって

今度の8月1日で22歳になるサンデールーム。22歳といえば大学卒業していよいよ就職って歳かあ、まあ人に喩えればのお話ですが。思えば私は大学4年生の時に地元に帰ることは決めてはいたものの、就職活動をする発想は全くなくて、試験を受け公務員を目指すか、家業を手伝うかでぼんやり迷う日々。住んでいたアパートの近くの喫茶店でメニューに占いがあったのでみてもらうことにしました。占い師による答えは「どっちでもいい」。今の私だったらどっちでもいいの根拠を根掘り葉掘り聞きたいところだけれど、どっちでもいいならば、忙しく働く両親の手伝いの方が想像がしやすかったのと、本気で公務員を目指している友人と一緒に勉強をしていると学力と気持ちの部分で温度差が大き過ぎて、勉強にも集中できず。そんなこんなでいたところ、なんとも父が板前の修行先探してきてしまったのです。「飲食を手伝うというのはそう簡単なことじゃない手伝う前に修行へ行け」ということらしく、大学卒業式前の長い春休み、友人たちはみんな卒業旅行という名のヨーロッパ長期旅へ行く時代、私の板前修行がはじまりました。

この辺りから、私の人生はそれまで想像していたのとはだいぶ違う展開が繰り広げられていくことになりました。あれから30年近くが過ぎ、ようやく俯瞰してふりかえることもできますが、当時は板場の修行をしながらも自分のスタンスはあくまでも両親の手伝いであるのに、その料亭で身につける料理は両親の店で役立つようには到底思えず、いったい何を修行しているのか。月に一度か二度の休日とお小遣い程度のお給料という文字通りの修行期間は料理より人間ドラマをおもしろがっていたような3年間でした。その後、行きがかり上、今度こそ料理を身につけようと好きなフレンチの店に就職するけど大きな挫折を経験することになり、この時やっと両親を手伝うことと私のできることへの見直しがはじまったのでした。

占い師にどっちでもいいと言われたり、受験勉強がはかどらないだけでなく、思えば「家業に関わる」という選択は大学受験当時から心の奥にはしっかりあったように思えます、今となってはわかることですが。選択というよりかは「流れ」が見えていた。祖父が戦後、焼け野原になった前橋の今のところで食堂を始めたという。当時の話を聞くととてもおもしろいのだけれど、隣は畑で野菜を育てていたり、毎朝炭で火をおこしたり、電車で河岸へ仕入れにいたっとか。父は忙しかった両親を手伝うため、上野の料亭へ修行へいき、食堂を引き継いで予約制の料理屋にした。そして、三代目の私たちは料理屋だったお店の空き時間を借りて、サンデールーム というカフェをスタートさせた。コーヒーやケーキやサンドイッチなどの軽食を出すのでは自分自身の関心を持っていることに飽き足らず、すぐに「毎日でも食べられるからだにやさしいお昼ごはん」という日替わり定食を出す店に変えたのは、表面的にはカフェでは経営が成り立たない、お客さんのニーズがないということが理由だったけれど、実はカフェでは私の興味関心ごとが研究できなかったから起きていたことなんじゃないか。

近所のOLやアパレルの人たちの社員食堂のような店から、10年が過ぎだんだんと客層が変化し、身体に何らかの症状を持つ人、家族や自身の健康を気づかう人たちが増えていったのも、それは私の興味関心から引き寄せたことなのではないか。治療家という職業の方たちもお客さんで来られていて、お話を聞いたり、施術を体験させてもらったりもしたけど、いつも納得できずふに落ちないまま、答えを見つけたくて求めつづけている日々だったあの頃。それでも「食べること」に関しては別格で私の中の大切なこととして君臨し続けていた、そのくらい大切な大切なこと。まかないや家でのご飯、深夜のちょっと何かを食べる時も、大して手をかけない一皿の料理でさえ決して手を抜かない。その時の最大限の美味しいを手に入れることが私のモットー。そんな中、出会ったのが自然栽培でした。この自然栽培の世界観や仕組みを知るほと、身体の仕組みや健康という概念の一般的な考え方に無理があることが妙に納得がいき、今にいたることになります。

先日、人間に喩えると大学卒業前のサンデールーム を占星術師にみてもらいました。サンデールーム のこの先の進路はいかに?ちょっと驚いたのはMITSUKOはサンデールーム を生きてきたことがわかりました。これはどちらにとってもよかったというか必然だったのでしょうけど、MITSUKOとサンデールーム を切り離してかんがえようと、占いをしてもらい気づきました。2021年はこれらをちょっと整理する年かな。ともあれ、サンデールーム 22歳おめでとうございます!さらに飛躍して行ってくださいね!!

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