音について

わたしは難聴である。

昔、「自分に聴こえない音は存在しないのと同じ」と思っていた。というか、そう思おうとしていた。多くの人が生まれながらに持っているのに、わたしは一生かかってもそれを聴くことができないということが、悲しくて耐えられなかった。

蝉が鳴くことを知っているから、わたしの世界には蝉の鳴き声が欠けているけど、雀が鳴くことを知らなかった頃、わたしの世界には雀の鳴き声というもの自体が存在しなかった。漫画でよく見る「チュンチュン」は擬音だと思っていた。本当に鳴いていたらしい。知ってしまったから、足りないものがまた増えてしまった。なにも知らないままで居られたらよかった。これから何かを知る度に、自分の世界から音が失われていくのが怖かった。

わたしの認識しているものが、わたしの世界の全てだから、わたしに聴こえない音は、存在しないのと同じ。そう思うことで、自分を納得させようとしていた。

でもそれは一時の気休めにすぎず、そう思い続けて生きていくのには無理があった。生きていく上ではどうしても人と関わっていかなければいけない。真の意味で分かることはできないが、自分と違う人の事を知らなくてはいけない。知ろうとしなくてはいけない。他人のことを分かることができないことを、理解しなくてはいけない。知らない何かが存在することを、受け入れなくてはいけない。知りたくない、自分は知らないから存在しない、という考え方は危険だ。

知るのはとても怖いことだと思っていた。知る=失うことだと思い込んでいた。

結局、失うとかどうとかはわたしの気持ちの問題で、知っても知らなくても最初から聞こえている音は変わらない。変わらないことが、最近分かって、怖がっていたことがバカバカしくなった。とまではいかないが、受け入れられるようになった。

どの音が他人に聞こえ、自分には聞こえていないのかわからないということは、どの音が他人に聞こえず、自分には聞こえているのかわからないということでもある。もしかしたら、わたしにだけ聞こえている音があるのかもしれない。でもそれを知ったところで、聞こえる音が増えるわけではない。最初からなにも変わらない。ただただ、わたしはわたしのままだ。

悲しくても悲しくなくても、わたしの音はもう変わらない。知っても知らなくても、減ったり増えたりしない。それを分かるのに、23年もかかってしまった。たくさん悩んでしまったし、悲観してしまった。でも、これからの人生の方がきっと長い。