見出し画像

認められるという底力。

ぬるま湯どころか
砂糖水に浸かって生きていきたさ、さえある。


自己承認・他己承認

性善説についてよく考える私。


自愛がよく、
シャンパンタワーに例えられるように
人の悪意も他人が善意を注いでいけば
自分が学んでいけば
濁った泥水も溢れて、澄んでいくのじゃないかと思います。

はたまた
ちょっと拗れたくらいの性格の悪さは悪玉菌、
人を傷つけたりするような人間性は悪性の腫瘍、
みたいなイメージ。

もちろん悪性腫瘍は
外的処置で取り除くことも一つだけれど
取り除くべきは根本原因だと思っているので。
逆にいうと根本原因を取り除かないと腫瘍を除いても再発するだろうしね。


自分が輝けない場所に身を置く必要はない。

社会人になりたてのころは
それはそれは本当に、自己肯定感が低かった。

体育会系のノリは嫌いではなかったはずだけれども
もっともっと!まだまだ足りない!
そんな環境は私にはフィットしなかったようで
上司たちが喋っているところを見るだけで
「あ、絶対私のこと言ってるな」
「きっと私が何かしてしまったんだ」
と、胃を痛めてました。

今考えると、
もはやハイパー自意識過剰ですね。


でも、その後に転職した先では
何をしても喜ばれる認められる
上司に褒められる。
対等に扱ってもらえる、接することができる。

何をしても失敗続きで
何にもできない私だったはずが、
働く場所が変わっただけで
お客様にも喜ばれて求められる私に。

あの時の衝撃は今でも忘れられません。


誰からもらうかは、さして重要では無い。

今考えると、
そこに至るまで私を培ってきた土壌の中で
愛が欠乏していたんだろうな。

もっと言うと
愛を受け取ることができなかった。
見つけることができなかった。


でも、もらえないところ
枯渇している井戸から水は出ないので
私の場合は別の潤った井戸で十分に水を貰いました。
だから、
底力を発揮できたのだと思います。

本質的には自分で自分を満たしてあげられることが
何よりですが
親に恵まれなくても友人や人間関係に恵まれていなくても
【今】、認められない悲しさを感じていても
環境が問題なだけかもしれません。

人間はついつい
現象を問題にしてしまうし、
大事にしてしまう生き物。

自分のことを認めてくれる場所に
移動するかしないかは
自分にしかできないことなので
そこはしっかり手綱を握っていけると良いですよね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?