15年を振り返って2008-2024

昨年も大変お世話になりました!みつきです。
2023年のうちにこのnoteを書き終えたかったものの、そう計画的に何かできてたら今頃とっくに博士だと思うので、そんな自分を省みつつ、かなり長い新年のご挨拶としてお読みください。

2023年12月27日でみつき(光貴・ミッキー)としてデビューして15年になりました!

とはいえ何のこと??という方がほとんどだと思うので、自分のためにも振り返りつつ、15年を概観しようと思います。


男装弟アイドルユニットB‘sPrince(2008-2013)

15年前、2008年12月27日に何があったかというと、幻の、伝説のアイドルユニット「B‘sPrince」の初めてのライブ出演がありました!
「幻の」も「伝説の」も決して茶化したり盛ったりしていないと思っていて、時代的に活動期間中の写真や動画がオンラインに少ないというか見つけづらいのでほぼ幻みたいに思うことがいっぱいあります。
あとスマホの時代じゃないから手元に全然データもない!ガラケーの中に眠っている。
そして男装やそれに類するアイドルはまだまだ少ない時代だったので(腐男塾さん※当時、現風男塾、のCDデビューが2008年9月)ほんの少しは目立っていて、ニュースになったり、最近になって実は知ってました!って男装系のアイドルさんやファンの方に声をかけていただくこともあってもしや伝説か??って思っている。ありがたいことです。

ずっとアイドルに憧れてたんだけどかわいいアイドルになれるようなビジュアルや声じゃないし(当時は背が高いアイドルさんも少なかった、熊井ちゃんくらい)もうあきらめるしかないかーって思ってたけどたまたま告知を見つけて、当時のマネージャーさんにも相談したらいいんじゃない?って言ってもらえて、チャレンジした男装アイドルオーディション。
面接の時に弟アイドルって聞いて自分にできるかな?!って思ったけどなぜかメンバーになれました。理由は常識がありそうだったとあとから聞きました。

ミッキーの場合、芸名や弟としてのプロフィールはある程度自分で決めることになって、家族や友達に相談して、ものすごくかっこいいミッキー像を描いて提出したんだけど(お顔は城田優さんの設定)結局自分の中のミッキーの部分を引き出して、当時のプロフィールができあがりました。
チョコレートが大好きで、写真も好きで、スペイン語の授業が好きだったし、お芝居もやっていたから演劇部(最初は写真部)。

「史上初の男装弟アイドルユニット「B's Prince」公式HP」https://bpri.ame-zaiku.com/より

15年前の初ステージは、あさがやドラムでの対バンでした。
「勇気100%」のイントロに「おかえり!お姉ちゃん」とセリフが入って始まるのは、その後もグループの定番のオープニングになりました。
事務所のスタジオでみんなでレコーディングして音源を作ったんだったと思います。
それから「ナイスな心意気」、アイドルソングでもありアニメソングでもあり、いろんなライブで歌えそうという理由でプロデューサーが選曲してくれました。
それから「勇気」と同じく、定番のカバー曲になった「Love so sweet」を歌っての3曲で出番は終わったんだけど、歌詞は飛ばすし、メンバーにぶつかるし、ミッキーとしてはとにかく散々でした。

でも、全然想像していたイメージとは違ったけど、夢だったアイドルの活動ができてとにかくうれしかったし、楽しかった!やりたいこともたくさんあったし、絶対Mステに出たかったし、ずっと夢は東京ドームでライブすることだった。

その後、思っていたことがみんな叶ったわけではないけれど、知らないところで見ててくれた方からテレビのお仕事やライブのオファーをいただくこともあったし、何よりレギュラーで出していただいていたライブを中心に共演のアイドルさんやそのファンの方々がB‘sPrinceをとても愛してくださって、規模は決して大きくなかったけれど、自分たちのお姉ちゃん、お兄ちゃん(ファンのみんな)のみならず、幅広く好きでいてもらえたグループだったことが今振り返ってとても誇らしいです。

ビープリ(B’sPrinceの略称)としては4年半、たくさんライブに出て、地方のイベントにも出させてもらったり、メディアにも出たり、貴重な経験を数えきれないくらいしました。
栃木の萌えキャラ「いちごの国のイーたん」とコラボさせていただいて初めてのオリジナルソングも作ってたくさん歌わせてもらったけど、それまでは基本的にカバー曲をメインに活動していて(プロデューサーの方針でカバー曲をパフォーマンスするユニットでした)何十曲も振付を覚えて、アイドルソング、アニメソング、特撮ソングを中心にたくさん歌って踊りました。

そして、弟カフェというイベントがグループのもう一つの柱としてあったんだけど、最初の弟カフェではドリンクも作り方がわからなくて怒られたし、接客の仕方で注意されたり、今もある意味あんまり変わってないんだけど、なんの経験もなかったのになんとなくできるような顔をしてたところをたくさん鍛えられたと思います。

それはライブも同じで、宝塚音楽学校を目指していたし、子どもの頃からステージにも立ってて、レッスンも続けてたし、舞台のお仕事はしていたから、なんの根拠もなく「できる」って思ってたんだけど全然できず、これも今もだけど、歌えないし踊れないし立ち位置に立てないし、なのに妙な自信とプライドだけあってメンバーと喧嘩になるしで本当に酷かったです!
でもさすがに月のライブ本数も増えて、厳しいレッスンが入って、そしたら途中から明らかに自分の歌が変わって、なんというかステージ上で自分が何をすればいいのかわかるようになりました。ものすごく上手にはなってないと思うけど、いい意味で緊張しなくなりました。もちろんいいステージをお見せできるかな、楽しんでもらえるかな、という緊張はあるけど、ステージに立つことを受け入れられるようになったし、自信もついたんだと思います。場数は大事、少なくともミッキーにとっては!

2013年5月26日、ビープリは解散したのだけど、その日はたくさんの方が来てくださって、ステージから子どもみたいに泣きじゃくるお顔が見えて、それはすごいことだなと思って、今でもありがとうの気持ちでいっぱいです。
途中でライブ活動休止もあったし、続けられないんじゃないかと思うことも多くて、自分はプロデューサーでもなんでもないただのメンバーなのにたくさん出しゃばって、営業活動したり、荒唐無稽な企画を立てたり、たくさんしてなんとかこのグループがもっと有名にならないかとぐるぐる考えて、狭いところにハマっているような時間も長かったし、むしろ辞めようと思うこともあったし、楽しいことばかりじゃなかったけど、ビープリとしての時間があったからこそ、その先があって今があるので、15年経ってやっとよかったなと思えている気がします。

苦闘する神田光貴(2013-2016)

ビープリが解散してからは、とても悲しくて、自分がミッキーとしてみんなに会えないことが辛くて、そもそも自分もミッキーが大好きになっていて、鏡をみるとミッキーがいるのが苦しくて、髪型を変えて可愛いお洋服を着てイメチェンしたりしました。
もともと可愛いものが大好きだったからここでやっと可愛い服にチャレンジできました。
可愛いものが似合わない自分を知って、可愛い女の子のアイドルを諦めて弟としてアイドルになったけど、結局楽しい女装もいっぱいしたし、可愛い女装のステージもあったので(共演のアイドルのお姉ちゃん達が可愛くしてくださいました)一周して可愛い自分にも自信が持てるようになっていた気がする。そして解散して、悲しい気持ちですんなり可愛い服を着た、っていうのは皮肉なものです。

可愛いお洋服を着始めたのもあって、ロリィタCafeBar「ぽんでぃしぇりえとわーる」で神田(名前)として働きました!
キャストさんみんな可愛いお名前のお店で、ミッキーも最初は店長さんがぴあのちゃんとか提案してくれたんだけど、さすがにビープリの時の姉ちゃん兄ちゃんがびっくりすると思って、ミッキーとして会いたかったし、でもどうしたらいいかわからなくて、「神田」というおもしろネームキャストになりました。
深夜シフトにもいっぱい入って、キッチンでオリジナルのお食事も出してました!!!!!
これは15年の中でも異色の2ヶ月だったと思う。そう、2ヶ月で終わりました。
大学院の進学準備をしていたのもあって、その時お店でもいろいろあって、そのタイミングで結局辞めてしまったんだけどお給料をもらいそびれました(実話)。まだもらってません。いつかもらえたらいいな(ちゃんと手続きはいろいろやったよ!)

ミッキーとしてのテンションはあったものの、キャストは初めてだったし、今ならわかるけど、芸能界のルールと飲食店のルールが分けられてなかったから(アイドルのお仕事とコンセプトカフェの違いがわかってなかった)変に緊張しすぎたり、自分を作りすぎたり(主に一緒にお仕事してるキャストさんに対して)していたので、今のミッキーでまた「神田」をやりたいなと思ったりもします。

それから大学院に進学して、時々学生としての自分をSNSに報告したりしつつ、手探りでソロ活動もしました。
ビープリ時代からお世話になっていたライブイベントで歌ったり踊ったりもしたし、自分で出られるイベントがないかと調べたりもしました。
それまで特にご縁のなかったハロプロオンリーのカバーライブに出してもらって、15分の持ち時間でいっぱい歌って踊ったりしたけど、少ないライブだったし、自分を見てくれるお客さんゼロの日もあって、難しさを感じていました。
オフ会っぽいイベントも含めて、声をかけてもらったライブやイベントに出演して、久しぶりにお芝居のゲストもやらせていただいたり、作詞のお仕事もたくさんした時期でした。

自分の魅力がわかってるようなわかっていないような、ただミッキーとして何かしたいけどよくわからず、男装エスコートにも登録したり(稼働1回)、男装の撮影会も探してみたり、自分がそこまで綺麗だったりかっこよかったりするわけではないことはわかっていたし、歌も踊りも上手ではなく、楽器ができるわけじゃなく、作曲もソフトを勉強しようとしたけど挫折して、苦闘していました。
それでも会いに来てくれる方に時々会えたりしていたのに、感謝の気持ちがちゃんと伝えられていたかと考えると疑問だし、とても独りよがりな3年くらいだった気がします。

それがなんだかかっこ悪いと思っていたこともあって2016年3月で活動を辞めるとお伝えしました。
そもそもその活動って何?と今は思ってしまうのだけど、要は神田光貴を諦めるということだったと思います。
これ以上は人気が出るわけでも、有名になるわけでもないし、就職も決まっていたのでとにかく辞めようと、辞めると言う方が格好がいいように思っていたというのもあると思います。
大学院修士課程の修了と、ゲストで出していただいたViperaさんの舞台をきっかけにSNSもやめて、神田光貴としての歩みは幕を閉じました。

突然のカムバック(2017)

振り返るといい加減にしろよ、という感じですが、どういう巡り合わせか、実際のやり取りもちょっと忘れてしまったのだけど、お話をいただいてそれから1年後くらいにB’sPrinceの再結成ライブをやることになりました。大阪で。

ビープリが大阪に行くのは初めてで、クラウドファンディングもして、物販の撮影もして、2017年5月26日、解散ライブから4年後に告知して、それから4ヶ月くらい、多分自分にとって念願の「ビープリのミッキー」としての活動をしました。
多分、とても嬉しかったよね、多分。よかったじゃん、ミッキー。

実は就職したもののうまくいかず、体調を崩した時期もあったし、やっぱり博士課程に進みたいなと思ったけどそれもうまく準備ができていなくて(人生いちいち不器用さんだな)、そこで慣れたみんなとやりたかったことができて、姉ちゃん兄ちゃんからしたら嬉しいだけじゃなくて、えっ?結局?????みたいな気持ちもあったと思うけどお付き合いいただいて、楽しく過ごすことができました。

そこで変な自信が出てしまったのか、若い男装アイドルの新メンバー募集に応募してしまいます。

いやでも、このnoteを書くにあたって昔のメールをたくさん見たんだけど、覚えていないものがほとんどだけど、2013年以降数え切れないくらいオーディションには応募している!
書類が通ったのはゼロです。本当にゼロ。だから、神田光貴を諦めた、って書いたけど全然うまく諦められていなかったんだろうね。

自分の中には別の言い訳もあって、大学院ではエンターテインメント文化に関係する研究をしていたから、現場にいることで研究に資するものも得られると思ったというのもある。同期もモデルだったの。だからスタッフでもいいから、と思って、そういう意味でも応募していたんだと思う。
でも言い訳かな!
この年齢になって、まだ諦めてないのが恥ずかしかったんだと思う。可能性もないのに続けてるのがダサいと思ったんだと思う。今もちょっと思う。ここに書くことでダサくないよって認めたいと思います。ダサくないよ!何歳になってもいいじゃない!

その男装アイドルは唯一お返事をいただいた、応募でした。
正直逆にびっくりしてしまって、まだ恥ずかしかったし、物販で撮影した写真を送ったけど後から変な写真でびっくりしたと言われたし、その恥ずかしさを隠したかったのかビープリのCDを持って面接に行ったんだけど、それも変だったみたいで、さすがにそこでメンバーになるというのはないかなと思いました。
まあでも経験があるし、スタッフとか、何かサポートができたりするかなと思ったものの、まずは研修生からやってみませんかと言われて、この年齢で!(年齢コンプレックス)今さら!アイドルの研修生?!浮いてない????!??!と、その状況が受け入れられず(今まで出したオーディションなんだったのか)一回考えさせてくださいとお返事したんだったと思います。

その時に別でチャレンジしていたこともあって(これは芸能と関係のない内容)、それがダメだったというのもあって、思い切ってもう一度アイドルの道に踏み出してみました。

2017年12月17日、誰にも言わずに(サプライズだからね)、青SHUN学園さんの派生ユニット「恒星宇宙(クペイサー)」の主催ライブで恒星宇宙の研修生として紹介していただいてステージに出ました。
楽屋で知ってるアイドルさんとご一緒して、でも研修生だからお話はできなくて、アイコンタクトだけして、それも恥ずかしくて、ひっそりしてたけどわかるんだなと思ったりしました。

これまた全然意味わからないんですが、恥ずかしくて、ミッキーってバレたくなくて、ウィッグとメガネで新しいミッキーを始めました。いや、ミッキーじゃん。
うまく言えないんですが、もう大人だと思ってたからプライベートで会った人も増えていたし、解散以降アイドルファンとしての生活も謳歌していたし(青SHUN学園さんのライブも何度も見ていた)、「中の人」がバレてほしくないと思って、でもミッキーとしての自分でしかステージには立てないからミッキーではいたくて、その結果、ウィッグでメガネのミッキーが誕生しました。

恒星宇宙(2017-2019)

あまりにもビビりながら、ほんの少しの自信とキャリアを携えて、2008年の時みたいな無邪気な喜びは全くなく、いつ何が崩れてもおかしくないと思いながら、また歩き出しました。
いろいろなんで?とも思うのですが、当時はこれが精一杯で、勢いで来てしまったけどこれは大変なことになってしまったぞ、と、あんなに諦められずにオーディションに応募しまくっていたのにいざとなったら、単なるチャンスではなくて、かつてとは違って背負うものが増えてしまっていることに気付いて責任の重さに耐えられず、自分の中でバランスを取りながら、綱渡りで一歩ずつ進んでいきました。

でもその反面、メンバーはもちろん、事務所の社長さん、プロデューサーさん、スタッフさんとの出会いに恵まれて、そして何よりはじめましての愛してくださるみんなとの出会いがあって、とても楽しいこと、嬉しいことがいっぱいありました。

2018年一発目のライブはZeppTokyoのステージで、出番の瞬間、ステージに足を乗せると同時に、あっこの大きさのステージでライブするの初めてだ、と瞬間的に気付いて一瞬緊張したのをよく覚えています。
東京ドームが目標だったのにね。
大きなステージにたくさん立たせていただいて、これまでと全然違うお仕事の中で、改めて力不足や経験不足を痛感する瞬間がいっぱいありました。
でも大人になったからこそそれもかつてより楽しくて、できないことも増えてるし、メンバーのようなフレッシュさはないけど、その分これまでとは違うやり方で新しいチャレンジもできて、勉強になりました。

ビープリも大好きだったけど、同じくらい恒星宇宙も大事になって、不思議と似ている部分もあったりして(メンバーの人となりとか、性格とか雰囲気とか、名前とか)だからこそご縁があったんだなと思う。
ビープリになって、憧れだった「メンバー」という存在ができて嬉しかったし、ビープリのメンバーのバランスが個性的で素敵で、メンバーであると同時に自分もB’sPrinceのファンだったんだけど、本当に同じように恒星宇宙の研修生になって、今度は「先輩」も「同期」もできて、でもそのうちそんなの関係なく仲良くなれて、メンバーの個性もバランスも最高で、恒星宇宙のファンになりました。
まさか2回も同じような出会いがあって、大切な守りたい存在ができると思わなかったから、不思議だなと思います。ラッキーでした。

メンバーはみんな年下で、自分だけ大人で、それはずっと気にしてたし、遠慮することもあったけれど、みんなの仲間に入れてもらえて、なんだか遅れてきた夏休みというか、タイムリープしてやり直しをさせてもらっているというか、そんな特別な時間でした。

しかも、ライブを何度も見ていたアイドルグループのメンバーとしてもステージに立たせていただいて、あの諦めていた、可愛い女の子のアイドルとしての活動もできたというか、初めて青SHUN学園さんの「君がくれた想い」のステージに出た時に泣きそうになりました。
女の子としてアイドルにはなれない、と思って諦めて男装でアイドルのお仕事を始めて10年、こんな道にたどり着くとは思わず、今でも思い出すと込み上げてくるものがあります。
恒星宇宙のメンバーでこんなこと思ってるのはミッキーだけだと思う。というか男装やそれに類するスタイルでお仕事している人でこんなこと思ってる人はほとんどいないと思う。
それを考えても、不思議なたどり着き方で、神様に感謝するしか考えられません。

恒星宇宙としての活動が自分の研究の刺激にもなって、うまく進められずにいた博士課程への進学も決まりました。あんなに停滞していたのに急に動き出す。あるある人生。
そして博士課程と芸能のお仕事の両立が想像以上に難しいことがわかりました。これまでとは全然違う。
周りの大学院の仲間や先輩と比べて、自分の研究の成果も勉強も遅れていることに気が付いたし、そうするとアイドルとして出られないライブも増えて、どっちつかずの2018年でした。
せっかく掴んだ念願のチャンスだったけど、初ステージから半年もしない段階で卒業を考えて、相談し始めていました。
研究生活もそうだけど、「中の人」とバランスを取る苦労もあって、責任が大きくなりすぎないうちにメンバーとしては退かねばと、でもその中で想定外のことがあり、それはミッキー推しだよ、ミッキーが一番好きだよ、と言ってくださるファンの方々がいてくださって、そうでない恒星宇宙、そして青SHUN学園さんのファンの皆さんもミッキーのステージでの姿を楽しんで愛してくださって、思いがけずたくさんの愛を受け取ってしまったことです。

ビープリの時もそうだったのに、その時はまだ子どもでその重大さに気付いていなかったし、いや、この時も全然実感できていなくて、嬉しい気持ちをたくさんいただきながらちゃんとお返しできていなかったどころか、大事なことを忘れちゃったり、酷いことを言っちゃったこともあると思うし、何もわかっていなかったのですが、それでもさすがにいきなり辞めるのは責任がなさすぎるとは考えていました。

そしてもう一つの想定外が、恒星宇宙を好きになりすぎてしまったことです。
ここでもっとやりたいと思ってしまった!大人すぎるとか、研究とか、時に忘れてしまうこともあって、いい意味で周りが見えなくなりました。まさかそうなるとは。
だけど一方では冷静な自分もいて、事務所とお話もしていたので、短かったけれど2019年3月3日付で卒業させていただきました。

責任がなかったね。さすがに。反省している。でも本当にやらせていただいてよかった。
その後、当初の予定通りなのか、今度こそスタッフとしてサポート側に入れていただき、新メンバーの指導なども担当しました。大人だったのもあって、これはいい方に作用して、微々たるものではあったけどキャリアを活かすことも任せてもらったのは、大変ありがたいことでした。

気絶(2019/2020-2024)

恒星宇宙で出会ったみんなとミッキーの繋がりをそのままにしたくない、いただいたものをお返ししたいと思っていました。
研究者だし、と思ってものを書くのがいいなとnoteを始めました。

2019年4月に気絶が開店して、その情報を見て面白そうな店だと思っていました。湯島は幼馴染が住んでる街で、本があるお店なんていいな、と。
弟カフェもあったし、一瞬だったけどコンセプトカフェで働いて、コンセプトのある飲食店への関心はあったのだけどお店に行く機会はほとんどなく、でも行ってみたいなと思っていました。

なんとなく時々流れてくる気絶の情報を見ていたら、お店番制度とか(今はやってません)、カド席貸切とか、なんか、ミッキーがみんなに会える場所としてもすごくいい空間なのでは、と考えるようになりました。
夏頃、初めて気絶に遊びに行って舎長にご相談して、2019年秋に「かんだみつきと気絶」(ぴち会)を企画しました。
いろいろあって3回企画して、2回開催できました。

ちなみに「かんだみつき」になったのは、画数の関係などで恒星宇宙時代に「菅田光希」に改名したからです!読み方は同じ。今自分がどちらを名乗るべきかわからなくなり、ひらがなになりました。
ちなみにぴち会というのは、恒星宇宙時代、メンバーカラーがピーチ色(ピンク)でぴーちって呼んでもらっていたからです。本当に可愛くてミッキーを除けば人生で一番好きなあだ名です。
ちなみにビープリ時代のメンバーカラーはパープル(紫)でこれは大好きな色です。

気絶の印象がとてもよかった。
綺麗だった。清潔なお店。インテリアがごちゃごちゃしてるのにすごく整頓されている。
それがとにかくいいなと思って、カド席を貸切でイベントをやらせていただきました。来てくださった皆さんありがとう。
気絶で会いたい方々にも会えて、この時点では気絶というお店のことは表面的にしかわかっていなかったのだけど、素敵なお店だと、本当にありがたい機会をくださったお店でした。

その後、コロナもあったけど気絶がメイドを募集していると聞いて、何かお役に立てればいいなと思って応募しました。
https://note.com/mickey33/n/n04ae822d322c
この時はまだ何か言い訳がましい、メイドをやることに違和感はないけど、みんなにどう思われるかなと気にしていた時期だったと思う。だけど、気絶は年齢も性別も容姿も不問だったので、みんなに会いたいけど…と何か遠慮してしまうミッキーにとって、その遠慮を払拭してくれる場所でした。だからこそ、すんなり応募できたんだと思う。

そして今思えばよくぞ、と思うけれど、気絶のメイドになれて、2020年7月31日、初出勤を果たしました。

正直それから1年くらい、気絶のことは全然わかっていませんでした。
「ぽんでぃしぇり」の時もそうだったけど、アイドルのお仕事と飲食店のお仕事の違いがわかっていないわけです。全然違うじゃん、と思う方もいると思うけれど、どちらもある程度「接客」の要素があり(目的も肩書きも違うけれどお金を払って来てくださった方に接するという意味で)、自分の中でミッキーの立ち振る舞いは「アイドル」でしかないので、メイド以前にアイドルでないミッキーがなんだかわからない。
そして自分にお気に入りの飲食店があるわけでもなく、というかあっても気絶と結びついてなくて、テーマパークとも違うし(コンセプトカフェだったらテーマパークでもある程度結びついたのかも)、お客さんが気絶で何を楽しんでいるのか、気絶の魅力がわかっていなかった。これは正直なところです。
だからメイドとしてのお仕事の仕方も食い違ったり、気絶という時間と空間を作るというのもピンと来ず、お客さんやメイドのみんなと話したり、舎長の指示を聞く中で少しずつ擦り合わせて、わからないながら、とにかくなんか違うぞ?ということには気付いていきました。

それがなぜか1年くらい経ったところで、特にきっかけがあったわけではないのですが、ふっと肩の力が抜けて気絶のメイドのミッキーになれました。
思い当たるとすれば、それまでは気絶に出勤するたびに日誌を個人的につけていました。お会いしたお客さん、話した内容、チェキの有無、一緒に出勤したメイドさん、注意された内容、など。帰りの電車の中でずっと書いてました。
自撮りもして、お願いして一緒にシフトに入ったメイドのみんなとも撮っていました。
伝わるでしょうか、アイドルの挙動なんよ。それ。
気付いたら、それをやめてて、気付いたら、今とあんまり変わらないミッキーになっていました。

研究がメインで、出勤はいわゆるレア。
「非常勤メイド」という肩書きを最初にいただいたので(誰も覚えてないと思うが)いいと思っています。あんまりお休みが多いと自分も寂しいし、困るし、申し訳ないし、で、月に2、3回シフトに入れていただいています。
途中で留学もして、入院した時もあったし、この3年半で100回も出勤してない気がする。だからあんまり何の役にも立ってないんだけど、大人だからできることもあると思って、気絶した時には頑張らずにベストを尽くしています。

アイドルとしてのミッキーに出会ったみんなは、ミッキーと同じくメイドのミッキーがいまいちわからず、気絶したことない人多いと思う。
今回振り返ってわかったけれど、ミッキーもわかってなくて1年かかったんだからそれはそうだよね。
みんな来てよ!と言いたいところだけど、気絶はそういう場所でもないし、言わないけれど会えたら嬉しいとは思っています。
ミッキーがいない時に気絶したよと聞くこともあって、それは本当にとっても嬉しいです!ありがとう。

みんな大好き、チュッ!Mickey2024

15年はとにかく出会いの15年で、ビープリの時に出会った方が恒星宇宙やそこで出会ったメンバーのライブやイベントに今も行ってたり、自分が卒業した後の恒星宇宙のライブにピーチ色のペンライトやお洋服で来てくれたり、自分がきっかけになって、他の誰かと誰か、どこかとどこかを繋いでることもあって、ミッキーがいない時に気絶してくれる気絶以前の出会いもそうだし、それは本当に嬉しいなと思います。

気絶では「気絶フェス」という大人の文化祭イベントをやっていて、今ミッキーがステージに立つ唯一の機会になっています。
ベースはビープリ時代〜ソロ時代のステージです。持ち時間いっぱいにやりたいことをやって、誰もが楽しい、自分を目当てに見てる人ではない人には楽しんでもらえる、そんなコンセプトがベースになっています。
ビープリがカバーユニットだったのも、その気持ちが土台にあって、プロデューサーが知らないオリジナル曲よりも初めて見た人にも楽しんでもらえるようなみんなの好きな曲をやるという方針だったからです。

恒星宇宙時代にたまたまソロのステージがあって、思い切って、許されるかわからなかったけどその頃のテイストでやってみたらすごく楽しんでもらえて、そういう意味でもこの15年間、ミッキーと出会ったみんなの好きなものが合ってたんだなと思う。ライブの楽しみ方が一緒な方が多くて、許されるなら気持ちはみんなお友達です。
気絶での出会いも同じく。こちらは紛れもなくみんなお友達だね。

「気絶フェス」の自分のステージでは、アイドル時代の仲間と気絶での仲間に出てもらっています。それはステージの内容上、たまたまなんだけど(幻の第1回出演は違った)、結果的に15年の間の出会いを繋ぐステージになってるね。よかった。
多分今のところ「気絶フェス」でのDJかんだみつきのステージはある意味で?文字通り?ミッキーとしての集大成です。それは、一生懸命隠そうとしてた「中の人」も含めて、これまでのキャリアも好きも詰め込んで、気絶にたどり着いたからこそできるステージだと思います。
読んでないと思うけど舎長ありがとう。ちなみに舎長と話すのいまだに緊張している。

思えばそこまで考えてなかったけど、顔は城田優じゃなかったけど、15年間、ミッキーとしての生活があって本当に良かったと思います。ミッキーじゃなかったらできなかったことがあまりにもありすぎる。ミッキーに出会えて良かった。みんながそう思わせてくれたと思います。私とミッキーを繋ぎ続けてくれてありがとう。

15年目以降は、多分やったことないと思うんだけど、ミッキー主催で何かやろうかな。
ミッキー人気ないのよ。集客もないし(傷つく言い方してごめんね!全然、母数が少ないし、行くも行かないも自由だから!気にしちゃう人もいそうな言い方するけどごめんね!気にしないで!※)なんというか数字には弱いのよ。メンバー内で1人だけいいねつかないとかよくある感じの。
だけど、ちょっともしかしたら、やってみようかなと思います。

※自分もアイドルが好きだから、アイドルが好きって、そのグループや曲が好きで、現場の雰囲気が好きだったり相性よくて、お友達もいて、メンバー同士の関係性も好きで、という全てが込みでの「好き」だと思うから、好きになった時のミッキーじゃなければやっぱり関心は薄くなると思うし、自分もそうなのでわかるので今はなかなか会えないというのも仕方ないけれど、でも今でもその頃の思い出や楽しかったこと、素敵なことをずっと大事にしてもらって、自分も大事にしていて、そんな関係性も大好きなので、会えなくてもずっと大切で大好きだよ!
あと個別にとかじゃないけど好きでいてもらってるのもすごく知ってる。ありがとう。ミッキーも大好き!

そして書きそびれちゃったけど2022年にはPHD48のオーディション企画にも参加しました!数字に弱いって言ったけど、ここは本当に今までの絆総動員でみんながいいねやRTをしてくれて、そのおかげで審査を通過しました。ありがとうございました!
その後はただただミッキーの力及ばずというか同じチームがタレント揃いで進めなかったんだけど、自分にしかできない経験ができてよかったです。

恒星宇宙を卒業するときに約束した博士論文がいまだに書けてないので今年こそ頑張ります。博士号取れたら博士気絶やります。
長くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。

神田光貴/菅田光希/かんだみつき


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