ブンガクフリマ

『ブンガクフリマ 28ヨウ』の感想など

 『ブンガクフリマ 28ヨウ』の感想を1作品1ツイートくらいの分量で、と思っていたのだけれど、書いてみればやっぱりそれぞれちょこっとずつはみ出す感じになったので、いっそまとめてここに書いてみることにした。

 『ブンガクフリマ 28ヨウ』は、10連休の最終日に催された文学フリマにて販売された掌編集。前日までは会場に足を運ぶ気でいて、着ていくつもりのウェットブルー・ポケットTシャツ(スナワチ)を引っ張り出したりもしていたのだけれど、いざ当日になると、なぜだかくじけて行けずじまいとなってしまった。
 ありがたいことに、翌日だったか、早々にPDF版が発売された。端数切り上げで購入し、モニタ越しに読んでいたのだけれど、やっぱり紙版にしたくて、かつプリントアウトの束ではなくホチキス製本くらいにはしたくて、ページ順を入れ替えたPDFをコツコツとつくり(やるべきことの溜まった連休明けに何をやっているのか)、A4横・2アップ・短辺綴じ両面印刷して、中折りして、表紙でくるんで、ホチキス3ヶ所留め。オリジナルとは少し異なる小冊子を掌中に収めることができた。達成感あった。

 燃え殻さん「わたしのしぶとい生命線」。自分に非がないことはないとしても、どう考えても相手の非に翻弄されている人生の状況について、「間抜け」と総括して対峙できるところが、「わたし」の生きる力(生命線)のしぶとさの源だろう。「わたし」の描写が淡々としながらも迫真で(女性が読んでどう思うのかはわからないけれども)、最後の場面のチャーミングさには本当に感嘆した。未来に向けた力強さを漂わせるエンディングに、『ボクたちはみんな大人になれなかった』と通じるものを感じた。
 熊谷菜生さんの挿絵も素敵だった。もし、ここに描かれた女性が今の「わたし」なら、きっと大丈夫そうだなと思えるような、いい横顔だった。

 山本隆博さん「ラブバード」。オープニングの1行の衝撃!その衝撃がもたらすグルーヴにやや緊張しながらも惹き込まれて読んだ。高い解像度で描写される自宅での時間と、俯瞰的に綴られる仕事の時間。それらが交互に描写されることがもたらすうねりが冒頭のグルーヴをつなぎ続けている(さながら2台のターンテーブルを行き来しながら1つのグルーヴを創りあげていくみたいに)。たどりついたエンディングに残った余韻は、ちょっと「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のそれのようだった。

 末吉宏臣さん「横断歩道の呪い」。子どもと一緒に「しろ、しろ、しろ」とか言いながら横断歩道の白線だけを踏み渡ったり(うっかり踏み外したり)したことは少なからずあったし、今でも一人でそっとやってみたりもする。そんな親しみある情景から、不意にものすごい遠くまで連れて行かれてびっくりした。動揺しつつ、でも、生と死のあわいでこのような心のやりとりがあることは大いにありそうなことだなあと思った。最後に優しく穏やかなところに降ろしてもらって、ほっとした。

 浅生鴨さん「イマムラ」。5行にわたる書き出しの1文が本当に素晴らしくて、その時点でもう軽く呆然としてしまった。深いため息が出た。教室で無視されることになった辺りの話もずぅんと痛むものを感じつつ読んでいたのだけれど、イマムラが火事になったと知ってからの数日間にわたる雪子の心痛は、読んでいるこちらにもきりきりと伝わってきた。勘違いや取り越し苦労、たくましすぎる妄想、それにもちろん本当にしでかしてしまった失態などに起因して、自らを追い込んでしまうような経験は僕にも多少なりともあるわけで、そういう具体の私的エピソードが呼び起こされたりもした。祐二から真相を打ち明けられたときには、雪子と一緒に安堵して深いため息をついた。…と思ったのもつかの間、雪子の大切な宝物の実態だけは霧消していたという展開に再び息を呑むうちに、ストーリーはそうっと閉じられてしまった。金色に染まるキラキラした初夏の夕空を思い浮かべながら、またもや深いため息を吐くこととなった。雪子を支えていた宝物は、イマムラの二階の奥に隠された具体的な物質から、大空に広がる抽象的な存在へと昇華したのかもしれない。雪子が窓から夜の音を聴くのを楽しむ時にいつでもそこに一緒にあるような。僕にとっての宝物は何かなぁということをぼんやり思った。
 すべてを読み終えてから、ゴトウマサフミさんの挿絵を眺めてみると、ストーリーのハイライトも雪子の心の機微も見事に表現されていて、何度めかの深いため息がもれた。

 「いいよ、別に」。「ですよね」。でも、仕方ない。「大丈夫だよ」。振り返ってみれば、4作品を通じて、出てくる人、出てくる人、みんな説明できない諦観のような気分をまといながら、自分をとりまく状況を受け入れ、だいたいにおいて深く傷ついていく。息苦しさややりきれなさをおへその辺りにじんわり感じながら読むことになった。
 でも、彼らのそんな心身の態度から伝わってくるのは、それが懸命に生きるってことでしょう? という問いかけみたいなものだったように思う。ああ、そうだ、そのとおりだ、と小さくうなずく。ままならない日々を、時には大泣きしながら、自分だけは確かに感じている小さな喜びや救いを携えて、一歩一歩。どの話も人生賛歌(あるいは応援歌)で、新しい時代をまたぐ10連休の最終日に世に出されるにふさわしい、優しい寄り添いの書だった。

 田中泰延さん「ウリコ トバニ カイコ トバ」。冒頭解説。作品に一切言及することなく、貨幣と言語の同質性について解説し、「書いたから、買って帰れ」と締める。斬新な解説だが、ご本人がツイッターで明らかにしたところによれば、作品を読むことなく書き上げざるを得なかったとのことで、解説の斬新さはシチュエーションの斬新さによっていた。
 貨幣と言語の同質性を支えているのはそれらへの信用だが、この解説も4人の著者への確かな信用が書かせている。読まずとも「買って帰れ」と断言できる作品が揃うということへの確信、さらにはこの小冊子を手に取る人たちへの信頼。これらがこの解説の裏にはっきりとある。そして、そういう心の持ちようが人生を生きるに値するものにしているのだということを示している。このようにして4つの掌編の総括的な解説たる文章たらしめているのだ。知らんけど。

 このような小冊子をつくって売り切るなんていうのは、途中に相応のしんどさも挟まれていただろうけれど、それも含めてものすごく楽しい時間、生きるに値する人生のヒトコマだっただろうなと思う。関係各位に羨望込みのスタンディングオベーションを送りつつ、とにかく僕もこの感想を書ききったのでよしとして、極上レモンサワー(宝酒造)のプルトップを引っ張り上げることにしよう。

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