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父の命日に思い出すこと

三男兄からLINEで、今日は父の26回忌お墓参りしてきたよとお墓の写真つきできました。

おお、全く忘れてました〜!m(_ _)m
三男兄はお墓参り大好き人間。私はほとんど行かない人。

父の古い履歴書類のぎっしり入った封筒がしばらく前に見つかって兄には見せていなかったので、良い機会とその写真を送りました。

その記録をもとに終戦の日の頃にnoteに記事を書こうかと思っていたのですが、体調不良で書類の精査もできずそのままに置いてしまっていました。

この数日前から父のことをなんとなく思い出していたんですよ。
色々思い出したので今日は書きたくなりました。お墓参りの代わりにね。
取り止めもなくなりそうで、先にごめんなさい。

兄に送った写真は整理されてない画像だったので一部を。
従軍証明書に行った場所が見えます。

マレイ半島 スマトラ チモール スンバワ ロボック

南方のどこに行ったか程度を私も見ただけなのだけど
どなたかに何か参考になることがあれば。(ないかな)

まえの「終戦記念日に寄せて」の記事では書かなかったのですが
父は軍属の獣医でした。
主に軍馬のことを担当してたのではないかなと思います。
出征の時にたくさんお守りを頂いたけれど愛馬に1つだけつけて、あとは捨てたそうです。自分は全く死ぬと思わなかったからお守りは要らなかったと言ってました。
馬が好きで獣医になったという人なので、馬にだけは付けてやったのだと思います。

戦地で飛行機からの機銃掃射を受け、軍馬たちがバタバタ倒れていったことも話していました。白い愛馬は大丈夫だったのかな?
飛行機から打ってくる兵隊の顔ははっきり見えたそう。よく聞く話しだけどやはりそうなのですね。

最初の頃の戦況穏やかな頃は、白い猿を飼って可愛がっていたとか
小銭一枚でバナナ一房かと思ったら、山ほど買えたとか。
食糧事情が悪くなった頃は、現地の人たちは布を貴重にしていたので、衣類靴下なども食糧に交換し、衣類を入れていた箱(梱 /こうり)の内側に貼ってあった布まで剥がして食糧に代えたそうでした。

そういえば先日、父の兵隊姿のヘッダー画像を使って下さったnoterさんがその記事のなかで、大日本帝国の軍隊には「補給」という考えがなく現地で略奪し現地の人を殺戮していた、というようなことを書かれていました。
戦地は中国だったようで、酷い命令を下す上官がいたようです。
それは確かにあった事なのでしょうが戦った場所と隊にもよるのかなと。
「大日本帝国の軍隊には」と日本軍が全てそうだったというように語ってしまうのはどうかと、父の思い出から感じます。
実際あった面は直視しなければいけないのでしょうけれど。

父の細切れに語った思い出話しを、記憶のまま裏付けもなく誰かに話すのは意味もない事だとずっと思っていたのですが、戦争体験者が年々少なくなり実際に直接その話しを聞いた世代さえもこれからだんだんいなくなっていく、私もいつか消えていくし、私の持つ小さなカケラでもネットの海に流しておいたら、もしかすると何かの足しになるかもしれないなんておもうようになりました。
まあ何にもならなくてもいいんです。自己満足。
ただ流しておきたいなと思うのです。

ここからやっと、戦争に関係なく私と父の思い出話しをお墓参りの花束代わりに父へ感謝を込めて書こうと思っていたのだけど、、
あら、今日がもう終わりに近づいています。

今日の命日中にこれをアップしたいので、あとは続く!にいたしますね。

ではまた。良い日を!(^^)


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