見出し画像

フローベルガーの10の組曲


Johann jabob Frobeger(1616 ~1667)の10の組曲集の巻末の可愛い絵に惹かれて調べてみました。覚書きです。
楽譜はAmsterdamのEstienne Roger.n.dから出版されました。
作曲年、出版年ともに不明。
マニュスクリプト。
アムステルダムの音楽出版社 Estienne Roger.n.dという会社は当時Walsh, Tellemann, Boivinといった音楽印刷で重要な会社の一つでした。コレッリ、ヴォヴァルディ、リュリ、クヴァンツ、など、多くてがけました。
この楽譜集はフローベルガー死後に出版されたものであることは確かですね。しかし絵の作者は謎です。

表紙の作曲者名は
mons. Giacomo Frobergue
フローベルガーはFrobergueというフランス語のサインを好んだとされています。

いつも思うんですが、プログラムなどに書く時は日本語でフローベルガーと書いてしまいますが、抵抗を感じるんですよ。それで原語で書きたいのですが、なんて読むのか?という問題が発生するので仕方なくカタカナ表記も書くことになります。


問題の巻末の可愛い絵は

Mademoiselle du roy 王様のお姫様
campagaie campagaie


子供の筆跡のようですね。
Mademoisell du roy ?
誰が書いたかは定かではありません。

フローベルガーが生涯でもっとも重要なことは、長く務めた王がウィーンのフェルディナンド3世だったこと。その王には王女が3人、皇太子が3人成人しました。
また、イタリア、ローマにフレスコバルディに師事するために遊学しています。そして、最後に務めたのがヴュルテンベルク公のシビル公爵夫人です。
フローベルガーはフェルディナンド3世亡き後、1662年頃からシビル公爵夫人の住むエリクール城に住み、シビル夫人の音楽教師を務めました。シビル夫人は当時42歳で子供の話は王子のことだけ出てきます。

フローベルガーはこのエリクール城で亡くなりました。後にフローベルガーの作品はヴュルテンベルク家の音楽図書館に所蔵されました。

その後、半世紀を経て出版されるまでに誰が弾き、誰が落書きしたのか、謎は深まるばかりです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?