Menuet チェンバロ再発見 No.3
Menuet Favori de Madame de Maintenon (Piece de Clavecin) 1896年
128年前の当時のチェンバロ現代音楽です。
チェンバロ再発見No.1の「Les Adirux」は1876年でした。
チェンバロ再発見 No.2は Eduard Chavegndの1885年の「Histoire d'une Marionnette]です。が、後にChavegnadはまた登場しますので、そこでまとめてみようと思います。
次に見つけたのこの曲です。
楽譜には再構成reconstituéとあります。
Eugene Anthiomeによって復元・編集されてということでしょうか?
「マダム・マントノンのお気に入りのメヌエット」という曲です。
出版社情報:Paris: unidentified publisher, n.d.[1896]. Plate V.I.1.
発行者不明リストに入っています。
Bibliographie de la France, 第 85 巻の381ページにこのようにあります。
パリでEugene Anthiomeによって修復されてたが、名前は公表せず。とあります。作曲者の公表がされていないということでしょう。
作者不明ですが、復元して出版したのは Eugene Anthiomeです。
Eugene Anthiome (1836~1916)フランスの作曲家
パリ音楽院で和声学、オルガン、作曲を学ぶ。
1863年から1901年までパリ音楽院のピアノ教授を務める。1889年に、モーリス・ラヴェル(1875~1937)をピアノ準備クラスとして迎えた。(En 1889 il eut Maurice Ravel comme élève, en classe préparatoire de piano.)
ラヴェルの先生ですね。
Anthiomeについてはまた詳しく述べるところがあるので、とっておきます。
マントノン公爵夫人について
マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ(1635~1719)
ルイ14世の妻。数奇な人生で、貴賤結婚のため正式な妻ではないが、宮廷ではマントノン夫人(Madame de Maintenon)と呼ばれた。
前夫ポール・スカロン(1610~1660)のおかげで王室ともつながりがあった。
17世紀のフランスの劇作家であったスカロンはフランス喜劇に大きな影響を与えたと言われている人物です。
彼女はスカロンと1652年に結婚。17歳で25歳年上のスカロンと結婚した。1660年にスカロンの死後も宮廷で王の子供たちの養育係として勤めていた。1678年にマントノン侯爵夫人の称号を与えられた。
1685年から1686年にかけての冬にルイ14世と結婚、結婚に関する証明書は存在しない。貴賤結婚で正式な妻ではなかった。
1686年、マントノン侯爵夫人によって、貴族の少女たち250人を教育する学校メゾン・ロワイヤル・ド・サン=ルイが創設された。生徒たちに親しみやすく、母のような影響を与えた。
ここからは憶測ですが。
1660年頃はスカロンが亡くなり、その後も宮廷で教育係として務めていたマントノン夫人がサロンを続けることが可能になった時期です。またフランス宮廷ではジャン=バティスト・リュリ(1632~1687)が宮廷音楽監督に任命された時期です。
両人ともそれ以前から宮廷に席を置いていました。マントノン夫人は教育係として、リュリは1646年頃、イタリア語の話せる人物、コメディを解する人物として宮廷に招き入れられ、(なんとそこでリュリは音楽教育を受けたのでした)。その後、1661年に宮廷音楽監督にまでなります。
同時期に宮廷に勤め、少なくともリュリが1687年に亡くなるまでの26年間は手ほどきを受けるチャンスがありました。
で、私の憶測は
この曲はリュリか他の宮廷音楽家がマントノン夫人のために書いたのか?
またはリュリかまたは他の作曲家から教育を受けたマントノン夫人が作曲したのか?
どちらもありそうではないですか?
作曲者名不明記という控えめなところがもしかしたら・・・・・・と思ってしまいます。
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