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洗礼を受けたら

この国では、日本では考えられない呆れてしまう自体によく遭遇する。今日は呆れるどころか、衰弱し切ってしまった体験からちょいと考察してみようと思う。

それは、初渡航時に宿泊した大臣らも泊まるという有名なホテルにて起きた。疲れて早く寝たかった私は、シャワールームの扉を開けた瞬間にその陰鬱とした空気に最後の英気を吸い取られた。薄暗く、じめっとした雰囲気、シャワーガラスには水垢がびっしり付いていて、向こう側がはっきり見えない。トイレ脇のアルミ製のゴミ箱の蓋は、所々凹んで錆びている。私の不潔に対する閾値を超えるどころか、バロメーターは振り切れてしまった。日本と同じぐらい綺麗で設備の整った場所じゃなきゃ無理、というつもりでこの国に来た訳ではないし、サニタイザーや浄水器を持ち込んで身の回りの衛生環境を整えようとしていたが、そんな努力も及ばずこんなにも簡単に打ち砕かれてしまったのが悔しかった。仕事以外のこんなところでもうこの国には来ないと言わねばならないのか、他の人には耐えられて自分には耐えられないのか、打ちひしがれる想いでシャワーを浴びた。シャワーを浴びても全くスッキリした感覚はなかったことを覚えている。

翌日、明らかに様子がおかしかったのかメンバーに何かあったのか聞かれ、「ホテルが無理です」とありのままに伝えてしまった。皆さんの計らいで部屋を変えてもらったものの、今度のシャワーはお湯が出ない、窓の鍵が閉まらないというまたまた不運続きの部屋だった。それでもどこか吹っ切れた私は、冷たいお湯だな〜程度に済ませ乗り切ることができた。余談だが、他の方々の部屋のシャワーガラスは私の部屋ほど汚くなかったらしく、この初回渡航で私の部屋だけ〇〇の武勇伝を作ってしまった。

未知の世界を見てみたいという好奇心もあり、この国に渡航すると決断した。自分の知らない世界を知り、自分の生活を相対化してみたかった。究極的な表現をすると、”洗礼を受けたかった” のだ。久々の個人的未開拓文化との接触はかなりダメージの強い洗礼だった。しかし、慣れると共にこの国の物に対する価値観の仮説を自分なりに立てるに至っている。蓋し、この国では、物・サービスに対する必要条件が日本よりもずっと少ない。この国では、物はただその役割を満たせば十分なのである。

先ほどのシャワールームの清潔感を例に取ると、日本ではホテルで提供されるそれならば、ガラスは綺麗に磨かれていて、アメニティもある程度清潔で整っている。しかし、この国では清潔さや新しさなどまでは求められていなし。あくまでもシャワーは、水が出てきてシャワーを浴びられること、ゴミ箱は、ゴミを保管しておくこと、というようにその物が持つ役割を果たせれば可なのだ。他にも、この国のホテルやレストランで提供されるお皿やマグカップなどは、白地でも黄ばんでいたり、欠けていたりする。恐らくこのような食器を日本の外食産業などで見ることはない。最初こそ、これらの食器を使うのに躊躇したけれど、きっとこの国の人は気にしていないのだろう、と思うと、気にし過ぎている自分を含めた日本人の存在に気づき、私の中の何かが萎縮し大胆にそれらを使い始めていた。現地の人からは、勿体ないから使うというよりかは、使えるから使うというスピリットの方を感じるが、現代の日本は、恐らく経済発展する前は持っていたであろう勿体無い精神を忘れつつあるように思う。持てる者は持っても良いと高慢さを抱いているように、自分を含めた現代日本像を感じてしまい、辟易してしまう自分がいた。


レストランに入ってフレッシュジュースを注文し、1時間弱経過後に出てきたのがこちら。
これだけ待たされるのだから、私たちは果物からジュースを作ってくれると期待していたが、絞られていたのは箱の方だった。


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