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ある書き物屋の仕事

 2018年10月6日をもって世界最大の市場・築地市場の営業が終了した。
11日に豊洲市場が開場すると、順次、築地市場は解体される。1935年から続いてきた83年の歴史は、これで完全に幕を閉じる。

 東京都民の胃袋を鷲掴みにしてきた築地市場の長い歴史を振り返るテレビ番組の再放送を観た。

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「提灯に丸い魚河岸のマークを描く、浜のやさん」とナレーション。

「浜のや」とは、築地市場にあった雑貨屋さんだ。

その姉妹店である包装紙などを扱っていた「小林紙店」も築地市場に店を構えていて、私は高校の3年間、夏冬の長期休みに配達のアルバイトをしていた。

魚をのせる紙皿なんかを市場内の魚屋さんに届けて回った。その流れで、この「浜のや」にもちょこちょこ顔を出していた。

市場のすぐ隣の新聞社に入社したのも何かの縁かもしれない。もちろん入社面接の際に、市場でのアルバイト経験をネタに使わせてもらった。

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「元々提灯屋をやっていたのですが、そちらの方は商売にならず、今は市場の中で文房具店をやっています」

高度経済成長真っ只中の日本では、提灯なんて誰も必要としなかったのだろう。

ただ、実際には築地の「浜のや」さんは提灯屋をやっていなかったらしく、小林繁三さん自身は提灯に限らず、扇子とか色紙とか、新装開店をしらせるポスターみたいなものとかにも依頼があれば文字を書いていたそうだ。

いわゆる江戸文字の書き物屋さんというところだろうか。

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「”魚河岸(魚がし)”という文字を丸い形にまとめたのは、浜のやさんのお父さん。それ以来、全国どこの港、どの市場でも、このマークは築地の魚河岸を代表します。そのマークをかくときは、いまでも浜のやさんのところへ持ち込まれます」

とはナレーション。

明治初期頃の浜のやの初代から五代目である繁三さんまで改良を重ねられ、今はこのマークに落ち着いたようだ。

その意味では「浜のやのおとうさん」が考案したとも言えるが、時は明治。商標をとっているわけでもなく、また文字をまるく囲むデザイン自体は魚がしに限らずあったようで、他の方がもっと前に考えだした可能性もある。

いわば、諸説ありなのだ。

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実際、よく見ると、微妙にデザインが違っている。

つまり現在でもいろんな人による丸魚がしマークが出回っているわけだ。

もはや、あまりに似たようなマークがありふれていて、ピースマークとかスマイルマークのように公共のマークのようなもので、商標なんかもあってないようなものなのだろう。

とはいえ、一応、魚がし会という築地の魚がしの旦那たちの集まりが、この繁三さんのマークを正式なマークとして推奨してくれたようで、その記録は今ものこっている。

その意味では、今のようにこのマークが町にあふれる上で小さくない貢献が浜のやさん、繁三さんにあったということは言えるんだと思う。

この小林繁三さんの「字」は、このマーク以外にも拝むことができる。

たとえば、浅草の浅草寺。
小舟町の大きな提灯の両脇に吊り下がる鋳物にかかれた「魚がし」の文字。

五代目浜のやとは、小林繁三さんのこと。

浅草寺の奥にある天水桶の「魚がし」の文字もそう。

成田山新勝寺にある大きな提灯に書かれた「魚がし」の文字も小林繁三さんが手がけた文字である。

川崎大師、中野の新井薬師、大山の阿夫利神社、愛知の豊川稲荷、、、といくつもの神社、寺院で小林繁三さんの文字を拝むことができる。

築地の魚河岸がなくなっても、往時の人による仕事ぶりを拝めるのは幸せなことだ。

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