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手のひらに親という負債を握りしめて産声をあげてしまったすべての人に(週報_2019_03_09)

この記事に関しては、とても横柄なようで恐縮ですが、アドバイス的なコメントは不要です。
(通常コメントは歓迎です。…かける言葉もないかもしれませんが…)
もしそのようなお気持ちがあるのでしたら、1回で良いので拡散して欲しいです。
そして一人でも多くの人に、こんな親に、子供に、人間にならないようにしよう、と思ってほしい。
私はそれを願うばかりです。

母が倒れた。
正確にいうと、既に倒れていた。
先週私にかかってきた1本の電話。
今は弟の家に滞在している母からだった。

「実はね、先週の日曜日の朝に、
 朝起きたら身体の左半分が動かなかった。
 それからずっと麻痺してて、
 1週間、なんとか仕事できないかと思って
 近所を歩き回って、訓練して、
 車にも乗ってみたの、そしたら運転はできてね」

お母さん、何を言ってるのか、
ちょっとわからない。

…なぜ病院に行かないの?なぜ連絡をくれないの?なぜ車に乗っちゃうの???
気付くと私は電話口で怒鳴っていた。

「何してんの!?
 もし事故でも起こしたら自分だけじゃない、
 みんなに迷惑かけるんだよ!?
 怒られるから連絡しませんでしたってこと!?
 子供じゃないんだから!!」

すると母は少し黙って、

「子供と同じかあ…」

そう呟いた。
きっと向こう側ではいつものばつの悪い顔をしているんだろう。
その顔をされたら私は弱い。
どうしても病院に行かないと言い張る母の説得ができずに一度電話を切る。

4年ぶりくらいに妹に連絡をする。
妹も何も聞いていないという。
少し気持ちが落ち着いたところで母にもう一度電話を入れる。

「お母さん…お願いだから…
 病院に行ってよ…」

こらえきれず、大粒の涙がこぼれる。
お湯で絞った雑巾のように汚い涙だ。
何十年ぶりの私の泣き声に、母が渋々頷いた。



結局、母は木曜日に病院に行き、案の定そのまま入院となった。

『脳梗塞』

それが母の病名だった。
ネットで調べていたので、心の準備はできていた。

私の母は60を超えていて、無年金だ。
年金を、支払ってこなかった人間である。
働いてこなかったわけではない。
むしろ私が知っている、親となってからの母は人一倍働き者だ。

いわゆる会社勤めをしたことがなく、ある程度生活が安定するまで年金を払ってこなかったことから
今更払っても意味がないと思い込み、放置を続けて遂に60歳に到達してしまった。
何が原因かと問われればいろいろ答えは浮かぶが、最終的に『愚かだから』というのが一番腑に落ちる。

母が病院に行きたくないと言ったのは、行ってもお金がないことを本人が一番よくわかっているからだ。
入院になれば子供たちがお金を払うことになる。
誰の負担にもなりたくない、きっと母はそう思っているし、そう言っていた。
でも私は思う。

お母さん、甘い。
もう、負担なんだよ。

そのようなことを匂わせ母を動かそうとしたとき、母は決まってこう言って笑うのだ。

「あんたたちに迷惑かけるようなことがあればそのときは自殺でもするから」

お母さん。
その言葉でどれだけ私の心が傷つくか知ってる?
お母さん。
これからお金で大変な思いをするのだから、せめて心だけは踏み荒らさないでよ。
お母さん、お母さん…。



私の家は特殊だ。
説明をしたくない特殊な事情があり、母は私の家と弟の家を行ったりきたりしている。
弟の家に住民票があるので、生活の拠点は弟の家と言っていいだろう。

そして母の拠点があるということは、そこがきっと私たちの『実家』なのだ。
暮らしたことはないけれど。

泣いていても何にも始まらない。
入院したのは午後のことで身動きがとれなかったため、翌日片道3時間をかけて母を訪ねることにした。

母を訪ねる前にやれることはやろうと、まず母の住民票のある地の役所に電話を入れた。

『生活保護』

最後の手段を使うときがきた、と思った。
母の生活は散々支えてきた。
もし母がこれから動けなくなるとしたら、共倒れしてしまう。

限界だ。
電話で概要を話すと、その状況だったらすぐに認定できるかもしれないと言われ、ほっとする。
訪問の日程を実家・役所・病院、に変更する。
母は実家に私が上がることを極端に嫌がった。
理由はなんとなくわかっていた。



夜はどうしても自宅に帰りたくなくていつもの店に飲みに行くも、見知らぬ声のでかい男性客に身体を触られたり、嫌な思いをした。
早い時間に店を出て、夜の新宿をさまよった。
無数の娯楽が溢れる街を歩いていても私の頭の中には母のことしか浮かばない。

深夜2時、ドンキに入ると昼間作った買い物リストからパジャマと洗面用具を買う。
あとは100均か、自宅にあるものを持っていけばよい。

そんなことよりも先ほどから地味顔のサラリーマンが私のいる棚の横を何度も通りかかる。
顔は地味すぎて何度見ても覚えられなかったが、ストライプの背広と、その背中から出ている白いワイシャツの裾で判別できる。

5階、4階、レジのある3階までリーマンは一緒に降りてきた。
私が会計をしているうちに気配がなくなり、買い物袋を提げて店を出るとドンキの出口でおそらく私を、待っていた。

万引きGメンにしては千鳥足が過ぎる彼を見ることもなく、始発を待つためいつものトリキに向かう。
遠くから眺めてみたかと思うと、裾を飛び出させたままの背中で私を通り越したり、衛星のように彼は私の周りを巡っていた。

結局彼は私に声を掛けてくることはなかった。
ビル9Fにあるトリキからゆっくり下りてくるエレベーターを待つ私を、ビルの外の暗がりからじっと見つめていた。
エレベーターに乗り込み、ドアが閉まる1mm前まで私は彼が飛び込んでくることを待っていた。

意気地なし。
今夜だったら誰に滅茶苦茶にされてもいいと思っていたのに、残念でしたね。

いつものトリキに入ると、いつもの外国人アルバイト女性が迎えてくれた。
過去に何度も終電を逃して来店していたが、この日初めて彼女に何名様かと聞かれなかったのでちょっと笑ってしまう。
今日に限っては、言いたかったな、『私は独りです』と。



始発で家に帰ると仮眠をとり、比較的早い時間に家を出た。
満員電車に乗り、片道3時間かけて着いた実家はゴミ屋敷だった。
母が渋っていた理由はこれだ。
ここに来るのは実に数年ぶりだったが、なんとなくは分かっていた。

母はどんな家もすぐにゴミ屋敷にしてしまう。
働いてるから、忙しいから、そんなことを言い出したら社会人のほとんどがそうなのだからキリがない。
子供の頃から家はゴミ屋敷だった。
その頃は汚す人間(母以外)に対して片付ける人間(母)が圧倒的に少ないから、と思っていた。
散らかす私たちがいけないのだと思っていた。

しかし家族が徐々に減り、一時的に母は1人暮らしにまでなったが、入れ物が変わっても、中身が変わっても、母はずっとゴミの中で猫と暮らしていた。

弟が出勤前にポストの裏に貼り付けたという鍵を使って中に入った。
ポストの裏に貼り付けるなんて一手間をかけた割に鍵についた水色のストラップはポストからダラリと垂れていて、私は思わず「こんな家、施錠しなくても誰も入らねえよ」と独り言を漏らした。

玄関を開け、土足のまま上がり込みたい気持ちを抑え、誰も履いていないであろう埃まみれのスリッパに泣く泣く爪先を差し込む。
おそらくこのスリッパは数年前に私が大掃除をしたときに置いたものだし、そのとき置いた場所に置かれたままに化石になっていたものだろう。

1階の母の部屋に入る。
こたつの天板の上に弟の保険証と通帳を出しておくよう伝えてあったが、ゴミが山になっていて目が通帳を捕らえるまで時間がかかった。
入院のために買ってきた新しい衣料品のタグを持参したハサミで1つずつ切り離す。
母の携帯電話の充電ケーブルを掘り起こすとキッチンを軽く見渡し、写真を撮ると早々に実家を後にした。
マスク越しにこの家の空気を吸うだけで病気になりそうだと思った。
帰りはストラップが垂れないよう見本半分、イヤミ半分でポストの裏へ丁寧に鍵を貼り付けた。



弟は診断こそ受けていないが、発達障害だ。
幼少期から強いこだわりに異常なまでの記憶力、絵を描かせれば今まで車で通ったことのある信号機を交差点名付きで100でも200でも画用紙いっぱいに描き込んだ。

おまけに空気が読めず大声で喋ることを周囲の人間に対するサービスだと思っているので、他人にうざがられ、仕事も続かず、アルバイト暮らし。
いい歳をして還暦過ぎた母親にすべての家事をやってもらい、好きなだけ浪費し、好きなだけ散らかし、母が入院した瞬間に神妙な顔をする。

母が入院した日、弟が一番にやったことは”ブログの更新”だった。
悲しいことが起きた、と。
それを私は白々しい気持ちで見ていたが、彼は至って真面目なのだから仕方がない。

「シフト申請しなきゃいけないから、お見舞いと退院の日、こっちに来れるか知りたいんですが」

弟の一見親切、実は横暴なLINEに怒りが爆発する。

「じゃあ聞くけど、退院の日にあなたが来て、車もなくてお金もなくて
 一体何ができるの?何もできないよね?
 退院の日は妹に頼みました、あなたは自由にお見舞いしたら?
 私ここに来るまでに片道3時間、往復6時間かかるんだよ。
 6時間とは言わない、1日1時間でも掃除しろ。いいか?
 人 間 の 生 活 を し ろ ! ! ! ! ! 」



バス停に向かうとちょうどあと10分でバスが来るようだ。
コンビニが併設されているバス停だったので、母に差し入れる雑誌を選ぶことにした。
ファッション誌、インテリア誌、グルメ誌、旅行誌、さまざまな雑誌が店のガラス面に沿って所狭しと並べられていたが何も母に買いたいと思える本がなかった。

母はいつも亡くなった父や祖母の着古しの服を擦り切れるまで着ているし、ゴミ屋敷に住む人に収納術を説く意味などないし、もともと粗食だった上に糖尿病も患っていて食事を愉しめる状況にないし、入院代も出せず国のお世話になろうとしている人が旅行なんて。

こんなに沢山の雑誌が、娯楽が世界にはあるのに、1冊も母には関係がない。
そう気付いた瞬間に両目からとめどなく涙が溢れてきた。
一度でいいから外国に行ってみたいわね、と洋画好きの母の言った言葉を思い出す。
もうきっと、叶わないのだ。
母と、外の世界はこんなにも、関係がないのだから。

ボロボロと涙をこぼしながらテレビ雑誌を1冊レジに持って行った。
コンビニの店員さんは私の涙に気がつくと出来るだけ顔を見ないようにしてくれた。
バスはそこから5分ほどで到着し、真っ赤な目をした私は後部座席に揺られながら下を向く。

なぜこんなことに?
政治が、時代が悪いんじゃない、頭が悪いんだ。
すべて自己責任だ。
母にとっては自分の作った家族なのだ、見通しが甘いのだ、やるべきことの順序立てができないのだ。

でも母はいつも働いていた、ずっと働いていた。
酷いときは昼夜働いて、自宅で内職までしていた、母子家庭の頃の話だ。
身の丈に合った生活もしていた。
貴金属にも化粧にも興味はない、髪も何十年と自分で切っている。

しいて言うなら、ただただ頭が悪いのだ。
愚かだということは度が過ぎれば罪なのだ。
世間の人たちは収入が低かろうとその中から税を納め、保険料を払い、残ったお金の中で生活をする。
そういった人たちの納めた税を、何も備えてこなかった母が受け取ることになるのか。

愚かは罪だ、でも母はずっと優しかった。
愚かな母だけれど、優しい人だった。

子育てが一段落したと思ったら夫が闘病の末に亡くなり、間髪入れずに祖父が寝たきりになり自宅介護の果てに亡くなり、祖父を送ったあとは順番を待っていたかのように祖母の介護が始まった。

母には兄が3人もいるのに、誰にも手もお金も貸してはもらえなかったし、なぜか母は葬儀費用すら出せと頼むことはしなかった。
立て替えたのは、当時大企業で働いていた、私だ。

少しずつ返すと言った母は、1度だけ1万円を返してくれたあとに、残り数十万円を、忘れてしまったようだった。
本当に本当に、どういうわけかわからないが、純粋に、忘れられてしまった。

何年も経ったあとにお兄さんたちの愚痴を話す母に「だったらお金払ってもらって!私のお金、お母さん返してくれてないんだよ!?」と言ってしまったことがある。
母は「ごめん…返したと思っていた…」と言い「今からでも返すから」と謝ってきた。
そうじゃない、払うべき人に払ってほしいんだと言っても母は自分が返すと聞かなかった。

定収入がなく、老いていく母からむしりとることに意味はない。
どうせまた別の埋め合わせを私がさせられるだけなのだから。
結局私の数十万円はその後私も忘れたことにするしかなかった。
母は愚かだ。
優しくて、愚かな人なのだから。



バスで駅に戻ると役所まで歩いた。
立ち寄り先が増えるごとに入院用品を入れたバッグが膨らみ、それが寝不足の私にはひどく重かった。

地域福祉と書かれている別棟に向かったら、そこは災害などの福祉を扱う課で「本庁の別館4階です」と女性職員に小声で教えてもらった。
肩を落としてエレベーターを待っていると、女性職員から引き継がれたのか年配の男性職員が私を追って課から出てきて、こう言った。

「今一時的に働けない状況でお困りだったら、生活保護じゃなくて一時支援というものがあるからね!」

まだ若いのに働く気もないのかと責め立てるような口調に『一時的だったらどんなに良いか。一体あと何年母が生きるのか私だって知りたいよ』と言いそうになるのをぐっとこらえ、「ありがとうございます、検討します」と言い、エレベーターに乗った。
閉まるドアの向こう側で男性職員は『言ってやったぞ』という顔をしているように見えたので『言われてやったぞ』とばかりに軽く会釈をした。

立派な本庁のエレベーターは6基もあるのにいつまで待っても来やしなかった。
早くしないと病院の面会時間に間に合わないので、4階までは荷物を持ったまま階段で上がった。

息を切らし4階に上がるとすぐに生活保護の課だということがわかるくらいに、独特の荒んだ空気感があった。
受付に「電話をした者です」ということを強調するも、受付のシートを書かされ、扱いは完全に新規の来訪者だった。
座るよう促された硬いソファーの上で待っていると、嫌でも他の相談者の声が聞こえてくる。

遂に、こんなところまで来てしまった。
隣の老婆はしきりに誰かの葬儀費用の心配をしていて、若い男性職員に大丈夫だから、それは助成があるから、と繰り返し諭されていた。
別の窓口からは「家賃を払ったら明細を」「きちんと家賃に使われたかどうかの明細が」こちらも男性職員で、利用者は金髪の男性だった。

5分も経たずにアコーディオンカーテンの小部屋に案内される。
詳細は伏せるが、結果からいうと審査は通らないだろうということだった。
初老の職員は資料を広げ、基準についていくつか説明をしてくれた。

わら半紙の資料に私の涙がいくつか落ちて、薄茶色のシミが広がる。
生活保護を受けて初めて医療費の免除が適用されるから、医療費だけ助けてあげることもできないんだよ、と長く白い眉を下げたままの職員が私に言う。

介護保険料も、国保も滞納している私のお母さん。
逆に、まともに支払っているものがあったら教えてもらいたいくらいだ。

「そうですよね、仕方ないですよね、すみません…」

「また状況が変わったら来てみてね、相談の履歴は残るから、無駄足ではないからね」

3時間かけて他県から来たと伝えた私を最大限気遣ってくれた職員の言葉に、そろそろとカーテンを閉めた後、また涙が流れてしまう。
母のことになると私は壊れた蛇口のようだ。


お母さん、私はあなたが恥ずかしい。
恥ずかしいし、情けないし、みっともないと思う。
でもそれを口に出したら最後、あなたは自死してしまうかもしれない。
私はあなたの毒を皿ごと飲もうと決めたのだから、この感情は私の中だけに、…だけど、だけど!!!


4階分の階段を下りるまで、人目もはばからず声を上げてわんわんと泣いた。
虚しいし、屈辱的だし、惨めだった。
真面目に生きてるのに、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの?

ドンキで買った薄い薄いスウェット上下の入ったバッグの底が階段に擦れてもかまわず泣いて、1階のフロアにスニーカーが触れた瞬間にぴたりと口をつぐんだ。
あんなに早い時間に家を出たのに、役所の外の空はもう夕方の色になっていた。
亡霊のような歩みで駅に戻り、病院までの無料シャトルバスになんとか乗り込んだ。

大きな、それは立派な病院だった。
こんな要塞のような大きな病院の片隅に、小さくなった母がいることが想像できないくらいに。
受付で入院棟の電子キーを兼ねた番号札を渡される。
綺麗な病室に、汚い母が横たわっていた。
真っ白なシーツに包まれた母は、まるでナントカ時代の出土品みたいに部不相応で大げさなラッピングを施されていた。

「遅くなってごめんね」

そう言いながらも、私は自分の脳裏に過ぎった縁起でもない言葉を聞き逃すことができなかった。

『もうすぐ 死ぬ 顔 じゃ、 ない』

確かに母は痩せたようにも見えたが、もともとがかなり細く、おそらく最後に会った日からそこまで変わっていないだろう。

祖父母が死ぬ直前の姿を私は見ている。

長期に渡る自宅介護の末、ホスピスに入って誰も見舞いに行かなくなった祖父母の元に、毎日毎日仕事終わりに寄って、かろうじて心臓だけが動いている祖父母に声をかけ続けた。

祖父も祖母も、私が見舞ったすぐあとに息を引き取った。
そう言うと私が死神みたいだが、そうではなく、いつ死んでもおかしくない状態になると誰も見に行かなかったのだから、必然的に私が最期の看取り人になっただけなのだ。

その顔に比べると、ずっと母は生きている者の顔をしていた。

ショックだった。

いや、ショックを受けている自分にぞっとした。
近くにあると思っていたゴールテープが一気に見えないところまで先延ばしされたように感じて、めまいがする。

「言われたもの、買ってきたからね」

バッグの中から洗面用品を一度取り出し、母に見せ、小さな巾着にまとめる。
衣料品とタオルも取り出すと、広げて見せ、トートバッグに畳んで戻す。

『おかあさん、いつ死ぬの?』

何か喋って口をふさいでいなかったら、うっかり言ってしまいそうだった。
普段よりさらに早口に、天気の話を、電車やバスの話を、来るまでに見かけた植物の話を、どうでもいい話を、とにかく私は繰り返した。
母の点滴の刺さった筋だらけの細い腕が、サイドテーブルに貼ってあるピンクの紙を指す。

<○○様のご家族の方へ 書類がありますのでナースステーションまでお越しください>

母だって父も祖父母も看取ってきたのだから、このピンクの紙が何の召集令状か本当だったら解っているはずだ。
ここは慈善団体ではない。
もうこの人はそういうこともわからないくらいにボケてしまったんだ、そう自分に言い聞かせてナースステーションに声を掛けた。
荷物は全ておろしたはずなのに、身体が、重い。

事務の人が差し出してきた書類には『連帯保証人』の欄があった。
私がゲラゲラと笑いながら

「ぎゃああああ!!
 嫌だぁああああ!!!
 連帯保証人って書いてあるぅぅ!!!!
 サインしたくねえええ~!!!!」

と言うと事務の人の目は全く笑っていなかったので、スッと真顔に戻り我ながら達筆なサインをした。

医療相談員の方とお話がしたい、と伝えて病室に戻ると、妹が来ていた。

「××ちゃん…!」

妹が呼ぶ私の名前に一瞬ドキリとする。
そうだ、妹は”本物のミチル”の母なのだ。

妹に会ったのは4年ぶりくらいで、すっかりおばさんになっていることに時の流れを感じていたら「××ちゃん全然変わんないんだけど…」と眉をひそめながらぼやいている。

そうね、私はあんたの子供の名前を名乗って、今子供時代を生き直してるところだからね、と胸の中でほくそ笑む。

「ダメだった、生活保護」

ロビーで妹に知らせる。
妹には”本物のミチル”を筆頭に、子供が3人いる。
もう母は、私たちだけの手には余る、共倒れするわけにはいかない、妹にそう告げる。

妹の夫が去年失業してから、彼女がずっと朝刊を配っていることを知っている。
妹は昔キャバクラで働いていて、タクシーの運転手にふんぞり返って指図するような本当に嫌な女で、私は妹が大嫌いだった。

そんな彼女が今もずっと朝刊を配っている。
子供とは、”本物のミチル”とは、凄い存在なのだと思う。

ただ、妹は頭はバカなのだ。
医療相談員さんがやっと空いたので、一応この兄弟の中ではしいて言えば頭脳派の私(言ってて恥ずかしい)が別室で相談をすることになった。

「生活保護がダメで」
「貯金も現金もなくて」
「年金払ってなくて」
「国保も滞納してて」
「ごめんなさい…なんで生きてんの?って感じですよね!
 病院も大変ですよね、お金ないって言われたからって
 ハイ出て行って~!って言えないですもんね…
 本当にすみません…」

大きな身体をぎゅうっと縮めた私の話を、相談員さんは根気よく最後まで聞いてくれた。
生活保護のあてがなくなり、全額のしかかってくる医療費の説明、おおよその金額の見通し。
分割もできると聞き、胸を撫で下ろす。
一度で払うことが出来ないわけじゃない、ただもしこの後2度3度と脳梗塞が続けば持ちこたえることが困難になる。

最新のシステムを利用しているこの病院では、テレビはカード式ではなく従量制だという。
「一番お安く済ませるということでしたら、テレビはやめておくのがいいでしょう」
私が買ってきたテレビ雑誌と100円のイヤホンは、皮肉な賢者の贈り物になってしまったと頭をかすめる。

妹と一緒に売店に行き、帰りのシャトルバスの時間まで話し込む。
妹と私は、姉妹だけれど、育ってきた環境が全然違う。
彼女には彼女の苦労があるのだろうから無神経なことは言いたくないが、母についてはとにかく可哀相だからあんまり怒らないでいてあげて!と生温いことを言われて顔が引きつる。

いっそのことあのゴミ屋敷と弟と母を全部一緒に燃やしてしまいたい。
知人にLINEすると、『後始末が大変やで』と。
そうだね、確かに。
でもさ、それなら終わりがあるじゃない。


私の人生ってなんなんでしょう。
被虐待児として生まれ育ち、親の負債を抱えて生きて、母が亡くなる頃には私はすっかりお婆さんになっているのかな。
それでも生活保護を受けて、人様の納めたお金を食い潰すよりずっといいのかな。

お母さんに早く死んでほしいと願うなんて鬼畜の所業だとわかってる。
私だってお母さんを真っ直ぐ、淀みなく、愛したかったよ。
神様はどうして私に中途半端な感性だけを授けたの。
痛みを感じない心がほしい、こんな小さい心臓は誰かにあげる。

でも最後、愚かな母の代わりに世間様にはどうか言わせてください、生まれてすみません、と。

▼母と私の近況報告は、下記に。
 週報_2019_05_18




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