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「ラポールを醸成する」ことの大切さ

普段、「金属のスクラップくずが原料だのなんだの」とか、「スクラップは、コモディティだ!」などと、よくわからないことをつぶやいています。

今回は、よりによって、《 #ラポール 》について考えてみたいと思います。自己啓発本や心理学の教科書なんかで登場する、パワーワードです。

オンラインweblioの定義によりますと、下記のような意味となるようです。

(一致・調和を特徴とした)関係

オンライン英英辞書の定義によりますと、下記のような意味です。

a friendly, harmonious relationship
especially : a relationship characterized by agreement, mutual understanding, or empathy that makes communication possible or easy

個人的には、いわゆる《ハーモニー》とか、感情を通した《共通理解》であると理解しています。

とあるバーバー・ショップでの一コマ

なぜに、こんなことを言い出すのかというと、筆者が通う床屋さんの接客術に感心させられたからです。

客「きのう、娘の前髪を自分で切ってみたんですよ!」
美容師娘さんの前髪、切ったんですね!
客「そうなんです。なんで、子どもの“ぱっつん前髪”って、あんなにかわいいんですかね!」
美容師いやあ、ホント。子どもの“ぱっつん前髪”って、かわいいですよね!

もう、このやり取りにニンマリしてしまったわけです。

客としては、「自分の頭に刃物を突き付けることを許すぐらい信頼している」他人と日常の断片を共有したいわけです。

美容師さんが、このハナシをどのように受け止めているのか、そんなことは知る由もありません。ただ、ひとつ間違いないのは、“その場”に《調和》を生むために最善の努力をしている人間がいるということです。

言い換えると、美容師は、ひたすら客の発した言葉を反復し、会話を往復させることで、「空飛ぶ #ラポール の城にレンガを、少しずつ積み上げていく」のです。

そして、客が「髪が伸びたな。切りに行こうかな」と思い立った時に、いつもの“美容師さん”は眼前にやってくるのです。そのあと、客は「ああ、今月は自分で切ってみようかな」とか、「もう少し伸ばしてみようかな」とは思っても、なかなか「今回は、違うところへ」とは思い至らないわけです。特別な理由がない限り

それは、「近くに、もっと安いところを見つけた」のかもしれませんし、「凄腕の美容師さん、理容師さんの噂を聞きつけた」のかもしれません。つまり、前者は「金銭的な理由」であり、後者は「技術的な理由」なわけです。もう一度言うと、「“安さ”なり“うまさ”の期待値が上がった」ということであります。

しかしながら、実際には、「髪を切る(己のビジュアルをつくってもらう)」という行為において、客側が常に「もっと良い店があるはずだ」と思いながら、新規開拓を続けるということは、なかなか一般的ではないと思います。骨の折れる作業です。

なぜなら、「安さには限界がある」し、「技術の善し悪しを推し量ることは、とても難しいから」です。そんなことを考え悩むよりは、「落ち着くいつものあの場所、いつものあの人にお願いする」方が得策だと考える方が、“ラク”なわけです。

遠くから矢で射抜こうとすることの浅はかさ

このエピソードから筆者が学んだのは、「先の尖った矢で、お客さんのハートを射抜こうとするのは、もうやめにしよう」ということです。先鋭的なアイデア、劇的な改善策は、ギラギラな自分の頭の中でこそ、「これだけのインパクトがあれば、絶対に、“刺さる”はずだ」と思わせてくれますが、往々にして刺さりません。結局、「もっと研ぎ澄ませば、次こそは刺さるはずだ」といった無限の負のループに陥ります。

“刺さらない”理由は、挙げたらキリがありません。小手先のテクニカルな問題かもしれませんし、そこまでのニーズがないのに、変に先回りしてしまって、顧客の求める情報から大きく乖離しているのかもしれません。言い訳は、いくらでもつぎ足すことができます

ただ、少し違ったベクトルでこの体験を俯瞰したときに、「そもそも、距離感掴めてなくね?」と自覚したのです。今まで、筆者自身が生み出してきた失敗や、他者に対する勝手な期待を、もう一度深く反芻し、反省したときに、この“距離感”というコトバが脳裏をよぎりました。

何事にも気張って、無理をすることは時代錯誤か

商売において、相場の良いとき、カネが回っているときに、重箱の隅を楊枝でほじくる人はいません。反対に、なにかが悪い方へ進んでいくと、皆、こぞって粗捜しを始めます。際限がありません

今、うまくいっていないのは、アイツのせいに違いない。あそこの業者、最近、なんか手を抜いていないか。もっと、他に安く買えるところがあるはずだ。この前、飛び込みで営業に来たヤツ、あいつをダシに使って、いつもの業者から、もっと良い条件を引き出してみよう。

うまく言葉にできるか不安ですが、おそらく、このような不確実性の高い状況下において、同じ土俵で「少しでも良い条件を…」だとか、「お客様のために、この案件は、絶対に死守しますので!」と気張る行為が、後々の成功の足を引っ張てしまうような気がしてならないのです。(商圏を維持することの重要性は理解しつつも、守るために死を賭ける行為に対して、疑念を抱く。)

どんな業態、業種にせよ、やはり、価格競争において、肉薄すればするほど、競合に対して、ある一瞬の優位性は確保できます。ただ、それを続けることが大変だし、無理がたたって、己を傷つける羽目に陥る可能性だって十二分に考えられます。

ユルフワでいこう

今後、ふわっと、ゆるーい間柄、個人の感性を前提とした信頼関係が、もっともっと必要とされてゆくのではないでしょうか。今となっては、「殺伐とした競争が、社会を豊かにしたのか」と問われれば、誰しもが答えに思い悩んでしまうはずです。

セールストークの上手い業者が繰り出す、“断片的な安さ”とか、“局所的な品質の良さ”に惹かれ、一喜一憂し、手に入れてみたものの、結局活用できず。処分をする際にも、右往左往するわけです。それは、酷い言い方かもしれませんが、モノだけに限らず、ヒトにも言えましょう。

最終的に、冒頭のハナシに、再度繋がるわけですが、個人のゆるい繋がり、人の《機微》を前提とした付き合いは、金銭的なわずかな高い安い、機能的なわずかな違いでは揺るがないわけです。《ラポール》がそこにあるからです。

ピンと張り詰めた冷酷な空気ではなく、自分の居心地の良さ、正しさが漂う雰囲気で満たされているからです。絵空事のように聞こえるかもしれないし、「甘っちょろいユートピア的な考え方だ」と揶揄されるかもしれません。

ただ、恐ろしい現実として、特にコモディティ(誰もが扱える商材)であればあるほど、遅かれ早かれ、それを扱うことの価値自体が陳腐化します。つまり、横並びの価格に相場がこなれてしまう(=どこにいっても、同じような単価)わけです。そうなったときに、「お客さんを繋ぎ止めておく方法」は、自ずと限られてしまうのです。

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