【法話?】2歳児の「分別」

仏道を15年も歩んでいると、日常のひとこまから自然と法話を紡ぎ出せるようになってきた。


2歳になって段々しゃべるようになってきた、次女が最近なにかにつけて、「みおちゃんは、にさい、だからさぁ」と言うようになった。「もうお姉さんなんだから」という意味合いだったり、「まだ幼いんだから」という意味合いだったり、状況によって使い分けているのが面白い。褒められるようなときには前者で、叱られるときには後者、というようにだ。

これは自分の中でなにが良くて、なにが悪いかの分別がつくようになってきた、そしてそれを言葉で表現できるようになってきた、とも言える。この「分別」の獲得は、人間社会を生きるうえで大切なことで、「分別がある」は世間一般では良い意味で使われる。

しかし、仏教ではそうではない。この「分別」が煩悩を生むとされ、分別は「戯論」(言葉で虚構の世界をつくり、固執すること)によって生まれるとされる。そして、仏教では、分別は分別のままに、あるものはあるがままに、執着しない、「無分別智」が大切とされる。それは全く分別がなくなるわけではなく、虚構としての分別の本質を理解し、それがあるがままに世界を観ることを妨げない、ということと理解している。

仏道を15年歩んできて思うのは、あらゆるものは相互依存で相対的であり、私自身の存在もあらゆるものに対して「空」ということだ。無分別智にからめていえば、自己と他者で分けて、他者に対して分別に基づく「ジャッジをする(価値判断をする)」態度や、自己(の認識)に対して「執着する」こと、そして先入観を強化することは意味がない。あるがままに、あらゆるものがつながり、「衆縁和合」しているという感覚でいることだ。

かといって、人間社会はこの虚構としての「分別」の価値体系を共有することにより、秩序や調和的なコミュニケーションが可能になることもあるのは、その通りと思う。虚構で生き、虚構で苦悩する人間。そんな人間の「誕生」を2歳児に見出した。と言うと「人間とは?」と悲しくなるが、「悟りと迷いは一体だよ」(道元禅師)と言う人もいる。ときに迷いながら、ときに悟りながら、生活禅の中で生きていくのが人間。

2017年2月、圓融寺阿弥陀堂での仏前式と賜った聖句

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