【補講④】戦後の産業の概観

戦後の産業を第一次産業・第二次産業・第三次産業に区分して整理しましょう。


①第一次産業
 農業部門では、占領期の農地改革とともに、1942年制定の食糧管理法(米・麦など主要食糧を政府が生産者から直接買い上げ、消費者に配給する)が重要で、同法により生産者米価(政府の買い上げ価格)は公定されました。高度成長期に入ると、都市労働者の賃金上昇に対して生産者米価が停滞したため、米価引き上げ要求が農家から出ます。政府はこの声に応えますが、1963年以降、売渡価格(消費者が購入する時の価格)が生産者米価を下回る(=作れば作る程、財政赤字が増大)状態に陥ってしまいました。その結果、1970年から減反政策が始まります。
 ただし、こうした過剰生産は基本的に米に限定され、その他の食料品は1960年代から徐々に自給率を低下させていきました。さらに1991年に牛肉・オレンジの輸入自由化が実施されるなど、農産品の自由貿易化の流れが加速しています。

②第二次産業
 まず、戦前・戦後の労働者の地位において決定的に異なるのは労働組合の有無です。戦後、労働組合の結成が公認されると、労働者は組合を介して使用者と交渉し、特に高度経済成長期には「春闘」(毎年春に産業別労働組合が賃上げ要求を中心としていっせいに展開する闘争)方式で賃金上昇を促しました。これにより戦後日本は戦前の低賃金状況を脱して、巨大な国内市場を持つことができるようになりました(食糧管理制度下における農家の収入保障も参照)。
 次に各時期の特徴について。戦後の超インフレ→(占領政策の転換)→均衡予算によるデフレ不況という混乱の中で破滅寸前だった日本経済を立ち直らせたのは朝鮮戦争(1950-53)による特需景気でした。1952年に独立回復後、日本は西側諸国の一員として国際社会に復帰し、安定した円安(固定為替相場制)と安価な石油を背景に、大規模設備投資による生産の効率化を進めました。これにより年平均約10%の高い経済成長が続きます(高度経済成長)。 
こうした好景気は、石油危機ニクソン・ショック(金ドル交換停止を発表し、貿易黒字国にドル安誘導を要求)により前提条件が崩れ、田中角栄政権の「日本列島改造論」で土地や株式への投資が激しくなっていた当時の日本に激しいインフレをもたらしました。インフレかつ不況という危機的状況を乗り越えるために企業は省エネルギー化を進め、人員削減など減量経営に努めます。石油危機後も日本は他国より高い成長率を維持して、ハイテク産業が輸出を伸ばしますが、これによる貿易摩擦が深刻な国際問題となりました。1980年代になると、アメリカは日本に自動車の輸出規制を求め、同時に牛肉・オレンジの輸入自由化を要求します。これに応じてバブル期(円高期)に日本がとったのが生産拠点の海外移転で、国内産業の空洞化が進みました。
 バブル崩壊後の長い不況の中で、国内の節約志向(=内需の不振)と円高による国際競争力の低下という二重の足枷が国内製造業を苦しめました。労働者の地位もまた不安定になり、非正規雇用の増大と新卒採用の削減が進みます(氷河期世代)。2000年代に入り小泉純一郎政権(2001-06)が規制緩和による経済成長を目指す新自由主義の立場から、製造業での労働者派遣を解禁しました。不安定な立場の非正規労働者が増えることは、内需の冷え込みにつながり、国内景気の回復は遠のきました。

③第三次産業
 1960年代の高度経済成長期に、自家用車が普及して自動車が主な交通手段となりました(モータリゼーション)。それに合わせて全国の高速道路が整備され、鉄道による貨物輸送もトラックによる輸送に取って代わられるようになります。これを背景に、1970年代に入ると大量生産・大量消費の時代に応じて、「大量流通」を担う大規模小売店(ダイエーなどのスーパー)が登場しました(流通革命)。
 さらに1980年代に入ると、男女雇用機会均等法(1985)に代表される女性の社会進出や、長時間労働の常態化(過労死が社会的に注目を集めるのは1980年代後半から)を背景に、コンビニ・量販店や外食産業が発達します。
 1990年代に入り、アジア通貨危機(1997)を教訓に東アジア諸国の金融面での連帯が進みますが、2008年のリーマンショックで再び日本は深刻な不況に陥ります。翌年の衆院選で自民党(麻生太郎首相)は民主党(鳩山由紀夫)に大差で敗れ、政権交代を招きました。


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