その答えは、直接的にジェンダーをテーマにしているわけじゃない本に載っていた。
人類学者、松村圭一郎の『はみだしの人類学』を読み進めていたら、「選びとられるカテゴリー」という項目があった。そこの言葉に、おお!なるほど!と、手を叩いた。
なんというか、うん。
本当にただそれだけの話なんだろうなって思った。
血液型の性格診断についても、長年ほんと謎だな〜と思っていたんだけど、ある種の遊びみたいなつもりなのかな。ABO式血液型、遺伝の仕組みとか、遺伝子とは何かもきっと知らないで話しているんだろうなって思う。
たださ、「ほんとにA型なの?(大雑把だよね)」って、心底失礼な言葉だと思うんだ。どうして血液型の性格診断と一致しない人間が「おかしい」みたいな認識なんだろう? 遊びにしてもタチ悪いし、やめてほしいんだけどな。
でも、そう言う意見は、往々にして聞き入れられないんだよね。
血液型に限らず、無邪気に、「やっぱり〇〇〜」って言う文化が根付いているんだなっていつも思わされる。そうした場面にあうたび、ゆっくりと息を吐いてやり過ごす。
そうゆうのって、明らか因果関係ないやつでも、昔は差別の対象になっていたんだよね。例えば、丙午生まれの女性は結婚が避けられていた、とかさ。そんなの、まじないがほんとに信じられていた古の時代ならまだしも、ぶっちゃけ勘弁してほしいと思う。
うん。だけどそうなのか。
これは、とてもとても根深い脳みその癖がなせる技なのかもしれない。
とにかくこうゆうことは、あくまでも自認として使ってほしいなって思う。「典型的な〇〇です(笑)」。そういう風に自己表現するのは各々の自由だろうから。
ただ、そうではない姿勢を身につけることだってできるんだってこと、動物行動学者でもある日高俊隆の言葉で気づいたんだ。世界をそのまま素直に、そのまんまとらえたっていいんだって。
なんだかんだいっても、きっとぼくたちは、周りの世界認識に影響されながら、世界を「こうだ」と認識しているんだと思う。
それでも、「世界を、こんなふうに見てごらん」と、ゆるやかにながめられるようになれたらいいなって思うんだ