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毛皮の行方〜『将校は高嶺の華を抱く』おまけSS

こちらは、2023年10月27日発売の『将校は高嶺の華を抱く』のおまけSSです。
本編を読んでからお楽しみください。

   ***

 思い立ったが吉日とはよくいうが、きっと、今日がその日なのだろう。いや、その日にしてやるのだ。
 綾瀬はしかと心を決めると、洋服を収めてある自室の衣装棚を勢いよく開けた。そして奥から、〈あるもの〉を引っ張り出す。
「おきく
 それを両腕に抱え持ち、廊下を歩いて、和室で袷を畳んでいた老女中の菊に声をかける。すでに六月、今は彼女の手を借りて、衣類の衣替えをしていたところなのだ。
「はい、何でしょう? 旦那様」
「これをやろう。仕立て直して着るといい」
 ずいと差し出したのは、黒い毛皮の豪奢な外套。
 羽織れば大人のくるぶしまでを覆う丈なので、抱えているだけでも嵩張る品だ。みっしりと詰まった毛並みは指が埋まるほど厚く、それが艶々と輝いて、黒銀の色彩を放っている。
 お菊は「ひえっ」と、顔の皺が伸びそうなほど驚き、目を白黒させて毛皮とこちらの顔を見比べる。
「だ、旦那様、これは……」
「よい品だろう。季節外れではあるが、受け取ってくれ。お菊には、いつも世話になっているからな」
「そんな。とんでもないことです」
 ぶんぶんと、音でも出そうなくらい相手がかぶりを振る。
「こんな……こんな高価なものを……」
「値段など気にせずともよい。持っていても着る機会がなくてな。だから、お菊に受け取って欲しいのだ」
「ですが……舶来品でしょう? わたくしなどには、恐れ多いことです」
 そのとおり、この毛皮は、ロワイユに駐在武官として滞在していた頃に手に入れた。しかし、自分で購入したのではなく――ジェルマンがある日いきなり「私の気持ちだ」と、贈り物として進呈してくれたものだ。
 ロワイユの冬の寒さは予想以上で、おまけに、街路に敷き詰められた石畳のせいで、歩いているだけでも足許から凍てついてくる。そんな姿を見かねてか、ジェルマンが不敵な笑みを添えて「どうだ、君によく似合いそうではないか?」と目の前でこれを広げて見せてきたのだ。
 無論、最初は断った。こんなに高価で華美なものは受け取れないと。しかし、君の身丈に合わせて仕立てたものなのだからと、ジェルマンの方も譲らなかった。どうやって寸法を知ったのか、それを考えるとまったく気恥ずかしい。
 押し問答したが結局綾瀬が折れ、私的な場所でだけ何度か着用させてもらった。ロワイユを離れる際、彼の地で使っていたものはほとんど処分してきたのだが、これだけは、皇国まで抱えて持ち帰って来た。ジェルマンとの思い出を残したかったわけではなく、あまりに見事な品だったので、無下に捨て去るにはためらわれてしまったのだ。
 しかし、皇国内では、これほど派手派手しいものはまず着る機会がない。だいいち、着て歩くには重すぎるのだ。一度だけ、秘密倶楽部に潜入した際に、場の雰囲気にも合うだろうとこれを引っ張り出したことがあったが、それ以外ではすっかり箪笥の肥やしとなり果てていた。これでは、せっかくの毛並みも色褪せていくばかりだ。
 それに――どうしてもこれを処分してしまいたい、最大の理由がひとつある。
 高城のことを思えば、ジェルマンから貰ったものなど手許に置いていてはいけない。自分なりのけじめとして、高城を大切に想っている証左として、かつての日々を想起させるものは、思い切って手放してしまうべきだ。そうだ、この衣替えを機会として、ぜひとも。
 綾瀬はだから、恐縮したままのお菊に向かって、ずずいと毛皮を差し出す。
「どうか受け取ってくれ。ほら、この大きさなら、子供二人分のコートくらいにはなるのではないか? 今から仕立ててもらえば、冬には充分間に合うはずだ」
 お菊には三歳になる女の子の孫が二人おり、目に入れても痛くないほど可愛がっている。品としては悪くはないのだから、せっかくだ、使い道がありそうなところへ譲ってやった方がいい。
「左様ですか、はあ……旦那様がそこまで仰るのなら……」
 孫のことを持ち出したおかげか、ようやくお菊がうなずいてくれる。おずおずと伸ばした手にすかさず、わさっ、と嵩高い塊を載せてやり、綾瀬はようやく愁眉を開く。
「よかったら、仕立て代もこちらで持とう」
「いいえ! それには及びません。では、ありがたく頂戴いたします。家族の者に、まず見せてやりとうございます」
「ああ。そうしてくれたらこちらも嬉しい」
 何度も頭を下げながら厚い毛皮を畳み込んでいくお菊を見、ほっと息をつく。よかった。これでようやく、心の一部を圧していた事項がなくなったと、気持ちがすっきり軽くなる。

 一週間後。
 玄関のチャイムが聞こえ、居間にいた綾瀬は読んでいた新聞を畳むと、いそいそとそちらへ向かった。ぴったり時間どおりなのが、いかにも彼らしいではないか。
 休日はたいてい高城と過ごしているのだが、彼は今日は、所用を済ませてからこちらに来ることになっていた。一緒に過ごす時間を思い描くだけで、心は正直に弾んでしまう。
 玄関ホールへ行くと、そこには私服姿の高城がいた。応対に出ていたお菊と何やら話をしていたが、こちらの姿を見とめ、目許をぱっと笑ませてくれる。
 お菊は、手土産らしき紙袋を受け取りつつ、相手に向かってしきりに頭を下げる。
「高城様、先日はどうもありがとうございました。おかげで命拾いしましたよ」
「そんな大げさな。礼にはおよびませんよ」
 眉を下げてはにかむ高城に、お菊は重ねて礼を告げる。
「あんなに重いもの、年寄りには持ち運ぶのが難儀で。だから、高城様が通りかかってくれて、本当に助かりました」
「……何だ、どこかで、お菊と行き会ったのか?」
 綾瀬が瞬きすると「ええ、実は先日……」と、高城が説明してくれる。
 繁華街を歩いていた時、大きな風呂敷包みを背負って途方に暮れた様子のお菊を見かけ、声をかけたのだという。ずっしりと重い荷物を引き受け、中身はと見てみると、例の黒銀の毛皮。
 お菊曰く、近所の馴染みの仕立て屋に持ち込んだのだが、これほどの高級品はうちの手に余ると、洋装を専門に取り扱っている他の店を紹介されたそうだ。しかし、徒歩でそちらへ向かう間に毛皮が重すぎて疲れてしまい、そこへたまたま高城が通りかかったのだと。
「……そうか、かえって迷惑をかけたな、お菊」
 お菊に対して肩を竦めつつ、何たる偶然のいたずらかと天を仰ぎたくなる。あくまでも高城の与り知らぬところで、ことを済ませるつもりだったのに。
 お菊が「とんでもございません」とかぶりを振る。
「お陰様で、いいお品に仕立て上がりそうです。余った部分で襟巻きも取れそうだと、仕立て屋も申しておりました」
「ならば、よかった」
 お菊は通いでうちに来てくれている。茶の用意は自分が行うことにして、本日は上がってよいと相手に伝える。
 一礼して下がっていくお菊を見送ったのち、居間に入る。そうするなり、高城が問うてきた。
「お菊さんに譲ってしまったんですか? あの毛皮」
 やはり、と気まずくなる。そういえば高城は、秘密倶楽部に潜入した際にあの毛皮を目にしていたのだった。
「あ、ああ。温かいのはいいが、重すぎて肩が凝るほどだからな。仕立て直せばちょうどよくもなろう」
「そうですか。似合っていたのに……」
 残念顔をする高城の横で、少々、胃の底をそわそわさせる。まさかジェルマンからの贈り物だと見抜かれることはないだろうが、それでも、後ろめたさは否めない。だから――話題を変える。
「それは着替えか? ようやく持って来たのだな」
 高城が小脇に抱えていた風呂敷包みを指すと、彼が「ええ」とうなずく。
 頻繁にうちに泊まりに来る高城なので、部屋で着るものをいくつか置いておいたらいいと伝えてあったのだ。綾瀬の着物を貸そうにも、寸法が合わない。
「お言葉に甘えて持参しました。ただ……」
「ただ……、何だ?」
 相手ははにかみ顔で、軽く鼻の下をこする。
「いえ、何だか、妙に照れ臭くて……」
 そう言いつつも嬉しそうに口許を緩ませる相手を前に、綾瀬も頬を赤らめる。
 今さら遠慮などするな、とは思うが、気持ちは少し分かるような気がする。私物を相手に預けるのは、つまり、それだけ深い仲であるからだ。身につけるものであれば、なおさらそう感ずる。
「これ、どこへしまえばいいでしょうか?」
「ああ。その前に……中を見てもいいか?」
 何となく興味を惹かれて問うと、高城が包みを解いてくれる。出てきたのは着物と兵児帯、肌着が数組。外では洋装でいても、自宅では着物に着替えてくつろぐのが、皇国ではまだまだ一般的だ。
「おや」
 と、一番下から出てきた一着に目が止まった。
 藍や紺の着物が多い中、これだけはごく薄い浅葱色をしていた。裾周りに流水紋が描かれており、早くも夏を思わせる雰囲気だ。
「いい色だな。目に清々しい」
 色もそうだが、好ましい柄に口許が綻ぶ。家でも洋装でいることが多い身だが、着物だってもちろん着る。自分も同じようなものを新調しようか、そんなことを考えながら包みを返そうとすると、高城が「ああ」と手を打った。
「この柄ならば、基己様の方が似合うのではありませんか? ほら、羽織ってみてください」
 いきなりの提案に驚くが、高城はさっそく布地を広げてこちらの背後に回って来る。うろたえる間もなく服の上から総身を包み込まれ、「鏡の前に行きましょうか」と、衣装棚がある部屋へと促される。棚の扉の裏に、姿見があるのだ。
「ほら、すごく似合いますよ」
 途惑ったままでそこに立ち、肩に手を添えられた状態で、鏡を見つめる。
 確かに――と、ぱっと明るくなって映る顔色を、綾瀬は新鮮な気持ちで眺めた。着るものにはさしてこだわりがないが、途端に気分が華やぐ。さすが、恋人に似合うものをよく知っているようだ。
 それを見た高城も、鏡の中で晴れやかにほほ笑む。
「よろしければ、貰ってくれませんか? 俺のお古で悪いですが」
「……いいのか?」
「はい、もちろんです。ほら、もう、最初から基己様のものだったみたいに見えますよ」
 そのとおり、色も柄も誂えたかのように、しっくりと身に馴染んでいた。丈も裄も合っていないのだが、仕立て直せば何とでもなるだろう。これが着物のいいところだ。ならば――甘えてしまおうか。
「ありがとう、高城。大切に着る」
 礼を述べると、高城がにっこりと笑ってくれる。衿元からはごくかすかに、彼の匂いがした。これは思わぬおまけだと、綾瀬はこっそりほほ笑む。寝間着にでもしたら、たまの独り寝も寂しくなくなるかもしれない。
「……高城、何か欲しいものはないか?」
 背後に控えたままの相手を肩越しに見やり、問う。
「貰ってばかりでは何だ。わたしも何か、貴様に贈りたくなった。どこかで買うのでもいいし、手持ちの何かで欲しいものがあれば、遠慮なく言ってくれないか」
「……欲しいもの、ですか」
 彼が思案顔をする。高城のことだ、高価なものは間違ったって口にしないだろうし、人のお古ですら何だかんだと理由をつけて受け取ってくれないかもしれない。
「気兼ねなどするなよ。そうだ、帯はどうだ? 仕立て直さずとも、今日からすぐに使えるだろう。他にも、半衿でも、手拭いでも……」
 あれこれ提案してやるが、高城はしかし、慎ましくかぶりを振ってみせる。綾瀬は眉をしかめた。彼らしい反応ではあるが、ちょっと遠慮が過ぎるのではないかと。
 口を開きかけたその時だった。高城が背後から腕を伸ばしてき、浅葱の着物ごと、こちらをすっぽりと抱き抱えてしまう。
 突然の抱擁に驚いていると、彼がそして、鏡越しにほほ笑みかけてくる。欲しいもの。そんなの決まってるでしょう――そういった顔つきで。
「……ふふ」
 降参するような気持ちで、綾瀬は背後の相手に身を委ねた。さすれば腕に込められた力が、いっそう強くなる。言われずとも、高城にならばすべてを差し出してやってもいい。身体も、心も、全部。
「着せたり脱がせたり……忙しいことだな」
 高城の手はすでに、こちらの衿元に忍び込もうとしていた。綾瀬は不敵に笑う。服を着せるのも脱がせるのも、恋人であればその愉しみは甲乙つけがたいものだ。
 綾瀬は腕の中で身を反転させ、さっそく、高城のシャツの釦に指をかける。ここからあとはいつもの流れだ。身を屈めて口づけてくる相手の唇を受け止めながら、愛おしい気持ちでまぶたを閉じる。

 その年の冬、お菊はわざわざ、孫二人をうちに連れて来てくれ、揃いのコートを着せた姿を披露してくれた。襟と袖口と裾周りに毛皮をたっぷりと縫い付けたそれは見るからに温かそうで、綾瀬の心をも大いにぬくめてくれたのだった。

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本編とともにお楽しみいただければ幸いです。
どうもありがとうございました!

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