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東京都北区

夜明けの澄んだ光があちらから押し寄せて、あたりを漂っている。住宅街の音のない八月のまだあたらしい熱気のなかを、サラリーマンがひとり歩く。でこぼことした継ぎ足しの塗装、コンクリートの細い道を頼りない足取りでタクシーが通り抜けて、力尽きたように止まり、朝帰りの若い女が降りて、細い道へ入っていった。古ぼけた造りのアパートのベランダに行儀よく並んだ室外機がぶうんと音を立ててて、それ以外は散らかった街並みの、夜の続きみたいな顔をした朝の静けさ。

よれよれの干しっぱなしの洗濯物の間で女が二人、煙草を吸っていた。細長い500mlのコーラの缶を灰皿にして、夜の端っこに立っている二人は話し始めた。

「なあ、さっきのなんやったんやろか」
コーラの缶に煙草をいれながら道子はソヨンに聞いた。
「わかんない。でも、見たよね?」
「見た。見た。たしかにこの目で見たわあ」
道子は大阪出身で、ソヨンは韓国からの留学生だった。二人は共に北村の友人だった。

自分の身体の背中の全貌を生まれてから一度も見ないまま死ぬのはおかしいと、北村は常々思っている。北村がこのことを道子に話すと、「背中の全貌って言葉、はじめて聞いた」と道子は言った。浴室で身体を洗っていると、自分の腹と背中が繋がっていることを北村は身を以て知る。背中は尻に繋がっているし、尻は太ももに繋がっていて、それは北村をとても不思議な気持ちにさせる。ばらばらだと思っていたそれぞれは繋がっていて、境目はいつも曖昧だ。

道子とソヨンが話すベランダの向こう側の六畳間には、北村がいた。麦茶の入ったグラスを片手に持った北村は地べたに座り、部屋は散らかっていて食べ残しの皿や飲み残しのグラスがいくつもそのままになっていたけれど、北村はそれを片付けるでもなくときおりふくらはぎを掻いたり、意味もなく壁のしみを見たりしている。

夜は背中だ。北村はそう思った。やがて尻や太ももへつたうのだと知っていても、そこにいるとき、いつまで歩いても端へは決してたどり着かない宇宙にいるような気持ちになる。

道子とソヨンと北村は、同じ大学に通う学生だった。道子はストレートで入った大学をもう二年も留年していたし、ソヨンは韓国の大学を卒業してから日本へ来ていた。北村は高校を卒業し地元で数年働いてから大学に入り直した。三人ともまわりの学生よりすこし年上で、だからというわけでもなかったが、大学の大半の学生からすこしはみ出した彼女たちは自然とつるむようになっていった。この日はまだ明るいうちから北村のアパートに集まって三人で時間を潰していたが、こんなことは夏休みの間にもう何度となく行われていて、いつものことだから今更話すこともあまりなく、三人が特にこれといって会話を交わすでもなく淡々とジェンガをやり続けた夜更けに、北村が急に口を開いた。

「うちの近く、夏の夜にだけ流れる川があるらしい」
「なんやそれ、石神井川やなくて?」と道子が聞くと、ソヨンが「石神井川?」と口を挟み、「ほら、流れてるやろ。王子駅の近く流れてるほっそい川や」と道子はソヨンに説明した。
「石神井川とは別の川らしい。見たことある人は結構いるんだって」と北村は言った。
「夏の夜にだけ流れる川かあ。情緒あるなあ。でも北区ってちょっとおかしいとこあるもんなあ。住宅街にいきなり吊り橋あるし。夜中しかやってへんケーキ屋あるの知ってる? 北区おかしいねん。夏の夜にだけ流れる川があってもおかしないで。それにしてもあすこのケーキ屋どないして採算とってるんやろなあ。夜中の2時にケーキ屋入るやつおらんやろ」と道子は言って、「なあなあ今から行ってみいひん? その夏の夜にだけ流れる川」と続けた。道子はいつまでたっても関西の訛りがちっとも抜けなかった。

三人は散らかり放題の部屋をそのままに、真夜中の散歩に繰り出した。途中で道子が言っていた夜中にだけ営業しているケーキ屋の前を通り、ショーケースの中に何種類かのケーキが並んでるのを見た。ショートケーキ、チョコレートケーキ、くまのチョコケーキ、モンブラン、アップルパイ。三人は店の前で笑うだけで中には入らなかった。店は年老いた女が切り盛りしているようだったが客はいなかった。「ほんまに謎だわあ。あんなばあさんが夜中に、けったいやわあ。やっぱり北区はおかしい街なんや」と道子が言った。「大阪も変な街って聞くけど」とまだ関西へは行ったことのないソヨンが言った。
夏の夜の生暖かい空気はピンとはりつめたようなところがすこしもなく、ときどき遠くの大通りを流れる車の音が聞こえて、その音は近づいてはまた遠ざかっていった。手を出したら触れてしまいそうなほどに、そこらじゅうに夏の気配がした八月の盆の前の夜だった。

夏の夜にだけ流れる川は、地図にはもちろん載っていなかった。後日ソヨンが日の出ている間にその場所へ行っても、細長い道がくねくねと続いているだけで、気ままに伸びた道路の左右にはただ家が並んでいた。むかしはここに川があったらしいと、道子がどこかから仕入れてきた情報を二人に話して、北村が区民図書館の古い地図を見てみると、たしかに三人が行った場所に一本の細い川があった。今は暗渠となっているらしいその川を見たのは、三人ともその日が最初で最後だった。

北村のアパートから南へと歩いて、石神井川を渡ってしばらくしたところに、その川は流れていた。
川幅数メートルのその川の左右は細い遊歩道になっていて、その外側は住宅が立ち並んでいた。最近建てられたばかりのまだ新しいマンションや、古い造りの瓦屋根の一軒家、木造の年季の入った外観のアパートなどが川沿いに続いて、遊歩道には木が植えられ、等間隔に街灯が立っていた。
あとになって考えると不思議なことだが、もう夜の十二時を過ぎていたというのに川沿いの家の明かりの大半は点いていて、それぞれの部屋の光や街灯の光はぽろぽろとそこから溢れ落ちて、川面に映って揺れていた。生まれたてのつるつるの、産毛の生えたピンク色のような柔らかい光だった。いくつかの光は川の水に溶け出して、すこし滲んでいた。夏の夜にだけ流れる川の底に沈殿したものたちはまっすぐにわすれられ、上澄みだけが掬われた。三人は川に目を落として、しばらくの間しずかに驚いていた。北村は自分の住むアパートの近くの街並みを知り尽くしていたから、その川が今この瞬間にだけ存在するとくべつな川だということを、誰よりもよくわかっていた。

いち、に、さん、しー、と、道子が川面に映った光を数えた。ソヨンが試しにポケットから取り出したスマホの明かりを川に照らしてみた。長方形の弱い光はたしかに川面に映って、表面でただしく揺れていた。こんなにとくべつな真夜中は、三人ともこれがはじめてだった。

三人が次に「あっ」と思ったときには、もう流れていた。何が? 光が。川面に反射した大小それぞれの街の光が、水といっしょに川下へと下っていった。街のほうはもちろん流れていなかった。川面に映し出された光だけが、ゆるやかに、ゆるやかに、水とともに下降していった。

三人は黙って見ていたが、不意にぽつりと、「あの光、どこへいくんやろか」と道子が言った。
すこしの沈黙のあと、「海へ?」とソヨンが言ったときには、西のほうから流れてきたのだろうたくさんの光が、目の前を通り過ぎた。街は西の地区のほうが栄えていたから、光はしだいに増えていった。縦横に等間隔に並んだたくさんの光、これはきっとあのマンションの光だ。しばらくして三人は川面に映されたものが光だけではないことに気づいた。光に混じりながら、さまざまな景色や、景色以外のもの、街そのものが、流れていった。虫の音や動物の鳴き声、人の声もあった。そのうちに見たことのない景色や聞いたことのない、でも見たことのあるような、聞いたことのあるような音も川底から浮かんだり響いたりした。道子が、「なあこれ、時間も遡ってへん?」と言った。北村とソヨンは黙って頷いた。
「あ、あれ」と北村がはるか西の川上に小さく光る三色の光を指差した。「あれ、なんやろ」と言う道子に、「セブンイレブン?」とソヨンが答えた。「ほんまや、あれ、セブンイレブンや。あっちにセブンイレブンなんかあったんやなあ」感心するように道子が呟いた。

川の流れはしだいに早くなり、光は流れ星のように川面に弧を描いていった。三人は走って追いかけたけれど途中でとうとう力尽きて、鍵のかかっていない見知らぬ人の自転車を生まれてはじめて盗んだ。道子が漕いで、ソヨンが後ろに乗って立ち漕ぎで流れる光を追いかけていった。中高と陸上部だった北村は「あんたは走りいや」と道子に言われて、息を弾ませながら二人の後を、そして光の跡を追った。

この夜の出来事をたとえば誰かに話したとして、信じてもらえるだろうか。あるはずのない川に映った景色たちが、海へ流れていくなんて。手のひらで掬えるだろうか。あの光を、手のひらで掬えるのだろうか。北村は息のあがった身体を走らせながら、そんなことを考えていた。
流れの速いところで光や景色はたがいにぶつかって、混ざり合い、溶け合って、もととはちがう光や景色になっていた。音や時代も混ざったり溶けたりして、今となってはなにか判別のつかない新しいものになった。

川はもう海の近くまできていた。東京臨海公園と書かれた看板が入り口のところにある大きな公園の真ん中を、その川はゆるやかに曲がりなから流れていく。こんな公園が以前からあったかどうか、三人はもうわからなくなっていた。
公園の中央では風力発電の風車がしずかにまわっていた。公園の周りは聞いたことのない名前の工場ばかりで、巨大な機械が動き、大きな音をたてていた。四車線の広い道路は真夜中でもトラックがびゅんびゅんと流れていた。三人とも、こんなところへ来たのははじめてだった。工場の機械や道路を走るトラックには、なぜかどこにも人の姿は見当たらなかった。自分たちのほかには世界に誰もいないような夜だった。

海へ近づくに連れて川幅は広がり、流れはしだいにゆるやかになっていった。川上から流れてきたたくさんの街の光は、ゆっくりと流れる水の上ですこし停滞し、川幅に合わせて広がり、ぷかりぷかりと浮かんだり沈んだりまた浮かんだりして揺蕩っていた。流れの速いところで溶け合った光たちは薄く伸びながら、しだいに明るくなっていく景色のなかでしずかに海へ海へと流れていった。
北村は急に、川沿いの街のことが心配になった。こんなにたくさんの光が流されて、街は今、真っ暗ではないだろうか? 北村の心配は無用で、夏の夜にだけ流れる川沿いの住宅の明かりは今はもうすっかり消えてしまっていたが、それはそこに暮らす人々がもうすっかり寝静まっていただけのことだった。
海はもうすぐそこにあった。二隻の船が水平線の遠くに見えた。

川と海の境目で、集められたすべての街の光は東京湾へこぼれ落ち、それからきらきらと乱反射しながらゆっくりと時間をかけて海底へと沈んでいった。

向こう岸にあるディズニーランドが、もうすぐ登ってくるのだろう太陽のかすかな光に照らされていた。

さっきまでのことについてはなにも話さずに、三人は北村のアパートに戻った。道子は車の免許がなかなか取れないことをぼやき、ソヨンはこの前はじめていったクラブのことを話した。北村は、アルバイト先の塾で中学生に数学を教えることのむずかしさについて話した。

アパートに戻ると道子とソヨンは煙草を吸うためにベランダへ出て、北村は電気の点いていない薄暗い部屋の朝の静けさの中にいた。夏の日差しが窓から入り込んで、夜はもうおわるところだった。ベランダからは蝉の声と、道子とソヨンの話し声が聞こえた。

「ソヨンはさあ、信条ってある?」と道子が聞いた。
「信条?」
「うちなあ、いろんなこと、ぜんぶ意味ないと思うねん。ただあるだけやねん。なんのメタファーでもないねん。だからきっとそういうことだと思う」と道子が言った。
「私はそう思わない」とソヨンは答えた。

北村は急に、「すべての海のきらきらは北区の夏の夜にだけ流れる川沿いの街の光だ」と思った。そして今年の夏はとてもいい夏になると思った。
それから絵本の中に出てくるようなヤシの木の生えたザ・南の島のことを考えて、ソファーに寝そべり、いつのまにか寝ていて、起きる頃にはもう夕暮れ、東京都北区の家々にも明かりが灯って、街には光が点在していた。


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