『かぐや姫と王権神話』の最初の一部

今は昔、竹取の翁と云ふものありけり。野山に交(まじ)りて、竹を取りつゝ、万(よろづ)の事に使ひけり。名をば讃岐造(さぬきのみやつこ)となん云ひける。その竹の中に、本光る竹一筋(ひとすぢ)ありけり。

 『竹取物語』は、このように始まる。昔、竹取翁という人がいて、野山で竹をとって色々なものを作る仕事をしていた。名前は讃岐造といったが、ある時、根本が光る一筋の竹をみつけたという訳である。
 それにしても、この「本光る竹」のイメージは、具体的であると同時に幻想的で、たいへんユニークである。「はじめに」でもふれた益田勝美は、独特の感性をもった文学史家であるが、彼は、この「本光る竹」というイメージの基礎には、竹に寄生するスズメタケが発光するという事実があったのではないかという(益田一九九三)。スズメタケは一つ一つは小さな何ミリというキノコだが、竹の幹に密生して微光を発する。「私は竹に寄生したキノコが発光することならありうるのを、作者が知っていたのではないか、と考えたい人間なんです」というのが益田の言い方だが、私も同じように思う。
 益田の指摘はさらに面白い。「根本の部分だけが光っているというのは昼間のこととは思えない。いくら竹藪の中とはいっても、それは夜あるいは夕方も遅くのことだったのではないか。なぜ、竹取翁は夜に竹林に入る必要があったのか」というのである。さすがの益田もこれは答えを出してはいないが、吉野の杣では良材を取るためには「新月の闇切り」(新月の夜に樹木を切る)ということをいうから、あるいはこれが良い竹細工の材料を伐る伝統的なやり方であったのだろうか。
 益田が優れているのは、ここから「『竹取物語』は、全部<夜の物語>なんじゃないか。夜の世界を舞台にした空想からえられたものなんじゃないか」。『竹取物語』は夜の竹林という時空から始まり、カグヤ姫の月世界への帰還も夜のこと、その他もほとんどが夜の物語ではないか、と一挙にイメージをふくらませるところである。つまり、神話の幻想はすべて「時間としては夜に属するもの」であって、祭庭の月明とかがり火の中に幻視される自然の風景は、昼間の風景とまったく異なる心理的な意味をもっているというのである(益田一九六八a)。そこで、本章では、益田の発想に学んで、まづ『竹取物語』の中に「夜の神話」の問題を追跡することにしたいと思う。

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