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老子と『老子』について

老子は実在したか、『老子』は老子の書いたものか

 老子は、中国の春秋時代、孔子(前五五二、五五一~四七九)とほぼ同時代の人物とされてきた。司馬遷の『史記』には、老子が孔子に礼を教えたとか、老子が中国の衰えたのを見限って西の関所を出るとき、関守の尹喜に頼まれて、一挙に五千字の『老子』を書き下ろしたなどともある。しかし、最近では、『史記』の記載のほどんどが伝説にすぎないとされている。また最近の学界では、そもそも老子はよく似た立場の「道家」と呼ばれる系列の思想家たちが作り出した虚構の人物であるという意見も多い。そうでないとしても、書籍としての『老子』には多数の道家の人々の手が入っているという意見が圧倒的である。
 しかし、『老子』を虚心に読んでいると、それが全体として緊密にまとまった思想的な統一性、一体性をもっていることを、誰しも感じるのではないだろうか。私は『荘子』は明らかに長い時間をかけて集団的に書き継がれたものであるが、『老子』はやはり一人の人物が執筆したと考える方が素直だと思う。『老子』を読んでいると、ここには、一人の詩人がいるという感想をおさえることはできない。正確に言えば、『老子』は哲学詩として読むべきものであって、ここには一人の詩人哲学者がいるのである。
 現在の学界にはそういう意見は存在しないが、一九六八年に刊行された小川環樹による注釈はそういう立場をとっている。次にそれを引用しておく。
「私はその大部分をある一人の著者が書いたであろうと考える。その理由の一つは、文体の斉一性である。この所に韻文でつづられた部分が大半を占めることも一人の著者が書いたためであろうと考えられる。この著者は韻文の句と句のあいだの形のうえの類似と音のひびきあいが、その内容の論理的飛躍を補い、調和をもたらすことをおそらく意識していた。もう一つの技巧は対偶である。それは一種の繰り返しであるとはいえ、二様のいい方をつづけることで、互いに強めあい、文章の平板さを救う力がある。『老子』の文体は、練りに練ったすえにできあがったようである。短いながら、いや短くすることははじめから意図されていたことであるらしいが、屈折に富み、全体として、散文よりは詩に近い。この著者は深く思索した人であったろう。だが、その深さは、詩的表現と切り離せない。このような文体の摸倣は可能であっても、原著者以外の人が、摸倣した文を挿入したところで、決してうまくはいかないであろう」。

『老子』の初稿は紀元前二八〇年頃?

 以下、この小川の意見にそって『老子』という本の成り立ちについて説明していくが、まずは確実な所から行くと、『老子』の成立が、中国の南、揚子江流域の「楚国」に深い関係があることは一般に認められている。これは『史記』でもそうなっているが、確定的となったのは、一九九三年に中国湖北省荊門市の郭店という町の古墓から竹簡本の「楚簡」と呼ばれる『老子』が出土したためである。この『老子』のほとんど最初の形であるとされる竹簡が、楚簡といわれるように楚国の字体によって書かれており、その出土した湖北省荊門市の郭店が広い意味での楚国に属することは、『老子』の成立が楚国と深く関わっていることを示したのである。
 「楚簡老子」と呼ばれるこの竹簡本は、郭店の古墓に埋葬されていた王族または貴族の所持品で、そのために墓に納められたものであろう。この竹簡本は甲・乙・丙の三本が出土しており、甲本は三九枚、乙本は一八枚、丙本は一四枚の竹簡からなる。甲・乙・丙三本あわせても総字数は二〇四六字ほどにすぎず、これは現在の完本『老子』の五分の二ほどに過ぎないが、それでもここに『老子』の基本部分が発見されたことは画期的なことであった。
 興味深いのは、この三本が別個に執筆されたものでありながら、しかし、その執筆者がおのおの違うとは考えにくいということである。このことは、この時代、『老子』が執筆されるとほぼ同時に、この墓に埋葬された人物がその写を順次に作成した、あるいは入手したということになる。池田知久は、これをとって、「楚簡老子」は最初に老子本人が書いたものとほぼ等しい『老子』であるとしている。
 重要なのは、ここから、本としての『老子』の成立年代が推定できることである。この墓は中国の考古学者の見解では紀元前三〇〇年から二七〇年頃の造営としているが、池田は墓の造営がもう少し遅れる可能性を指摘しているので、たとえばこの墓の造営を紀元前二五五年とし、また埋葬された人物が五〇歳で死去したとし、その二〇年前くらいから順次に竹簡を作成したと仮定してみよう。そうすると、この竹簡は紀元前二七五年頃に作成されたことになる。そして、老子という一人の人物が実在したという立場に立つと、老子は、その少し前、たとえば紀元前二八〇年に「楚簡老子」の本になる最初の原稿を書いたことになる。

『老子』の生存年代は紀元前三二〇年頃から二三〇年頃?

 さらに仮定を続けると、もし楚簡の本になる原稿を書いたのが四〇歳であるとすると、老子の生まれたのは紀元前三二〇年頃ということになる。そして、老子という名前が、彼が実際に長寿であったことを反映していたとし、たとえば九〇歳まで生きたとすると、その死没は紀元前二三〇年ということになるだろう。この年代観を取ると、老子の活動期は、孟子(前三七二?~二八九?)の生存時代の最後に重なるということになる。本書でもふれるように、『老子』の中には明らかに孟子に対する批判を意図した文章があるので、これはうまく話があうように思う。また、池田は『老子』のなかに荀子に対する批判が入っているとするが、荀子の生存年代は(前三一三~二三八以降)なので、荀子より少し年上であったということになり、これもちょうど良い。
 なお、全体で約五〇〇〇字からなるという現在の『老子』の形が確認できるのは、さらに遅れる。それは一九七三年に、湖南省長沙市の馬王堆の墳墓から発見された『老子』であった(長沙市も楚国に属する)。この史料は「帛」(絹)に書かれていることから、『帛書老子』と呼ばれており、甲本と乙本の二本があるが、成立の早い甲本は、漢帝国の建設者、高祖劉邦の子の恵帝か、恵帝の死去後に執権した、劉邦の妻、恵帝の母呂太后の執権期のものとされる。つまり早くて紀元前一九四年、遅くて紀元前一八〇年となる。想定した老子の没年の四〇・五〇年後である。しかし、「帛書老子」は、おそらく老子自身が晩年に筆をおいた段階の『老子』と大きくは違わないものであったように思う。
 ともかく、先に引用した小川環樹の指摘を前提とすると、現状の『老子』は楚簡に反映した最初の草稿に老子が老年まで手を加え続けたものであるという結論は必然である。本書の何箇所かで述べたように、「楚簡老子」は哲学や人生訓を中心としたやや素樸な内容であるのに対して、帛書に反映した加筆された『老子』は政治と社会についての洞察や華麗な比喩が付け加えられて複雑な構成となっている。これも同一人が統一的な思想の下に行ったと考える方が素直のように思う。

老子と孔子、『老子』と『論語』

 さて、ドイツの有名な実存主義の哲学者カール・ヤスパースは、紀元前五〇〇年から三百年ほどの間に、ユーラシア世界の東西において、人類史上はじめて哲学といえるような普遍的な思想が生まれたとし、それを「横軸の時代」と名づけた。そして、ブッダ、ソクラテスとなどと並んで、「シナでは孔子と老子が生まれ、シナ哲学のあらゆる方向が発生し、墨子や荘子や列子や、そのほか無数の人々が思索した」(『歴史の起源と目標』)と述べている。ここには始めに述べたような孔子と老子は相並んで中国の哲学を作り出したほぼ同時代の人物であるという司馬遷の『史記』の図式の影響がある。
 しかし、老子が孔子より二五〇年も後の人であるということになると、二人の関係は根本的に考え直さなければならなくなる。つまり孔子は中国が神話の時代から文明の時代に入るころに活動した人物である。白川静『孔子伝』によれば孔子は神祭・葬祭などを行う神職者の家柄の出身であった。そもそも「儒学」の「儒」の字根である「需」は、「雨」と「而」からなるが、「雨」は「雨乞い」、そして「而」は髷をつけることのできない男巫の平らな頭頂部の形を描いたものであるという。もちろん、孔子はそういう呪祷身分から出自しながら、特権と因習を嫌い、諸侯と呼ばれた諸国の王、さらにその家宰職ともいうべき卿太夫の家柄の下にいた「士=士大夫」の立場を代表して、国家の文明化を推進しようとした。その哲学は、その波乱に富む生涯の事績と一体のもので、文字知識ではなく、むしろ詩・楽・礼などの身体的な「知」を教授する経験の中から生まれたものであったということができる。
 しかし、孔子の死後、その学説は儒学=儒教としてなかば中国の戦国時代国家の公定哲学となって形骸化していた(下に移動)。本論で詳しくみるように『老子』の各章は、『論語』に対する批判にみちているが、現在の段階からみてみると、老子のいうことの基本は、それが身体的な「知」を強調する点で、意外と孔子の言説に似たところがある。孔子のいう「礼」と老子のいう「徳」には趣旨として相似するところがあるのは否定できないと思う。ここ老子と孔子の間にはいわば歴史を隔てた行き違いのようなものがあったのであるが、これは孔子の所説が形式的な知識として国家哲学となっていた以上、やむをえないものであった。『老子』の内容からみると、老子が『論語』を詳しく読んでいたことは確実であるが、その『論語』批判に、以上のようなバイアスがあることは十分に踏まえておくべきことのように思われる(なお、現状の『論語』の成立は漢代にまで下るといわれるが、原『論語』というべき孔子の言行録が存在したことは認められている)。
 ともあれ、老子の段階においては国家的・文明的な知識体系がすでに形成されており、それを批判するなかから東洋における初めての本格的な哲学が立ち上がってきたのである。それはエジプト・メソポタミアの文明中枢からみると辺境に位置したギリシャにおいて、最初から多言語翻訳と口語論理の中で立ち上がってきたギリシャ哲学とは違って、中国文明の中枢部で発生した関係で、伝統的な記述形式、つまり「詩」の形式で立ち上がってきた。しかし、現在の私たちにとって、その形式が含む豊かな内容を実感することはかけがえのない意味をもつように思う。

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