歴史学と歴史教育をめぐる議論

2014年12月17日 (水)
遠山茂樹『歴史学から歴史教育へ』

 吉見義明さんの本を読むために再点検した大門正克さんの編の『昭和史論争を読む』に遠山茂樹さんの「歴史叙述と歴史意識」があった。そこで、この論文の載っている、遠山『歴史学から歴史教育へ』をひっぱりだして読んだ。このブログにのせてある「中世史研究と歴史教育ー通史的認識と社会史の課題にふれて」という文章をかいたころ、本当によく読んでいた。なつかしい。

 それを再読して思うこと。遠山さんのころから歴史学と歴史教育をめぐる議論の状況は根本的には変わっていないのではないかという感想。以下のようなことを考えた。


Ⅰ学者と教師、研究者と教育者
  職業としての学者・教師と、職能としての研究者・教育者は重なりつつも、相対的に区別される。教師は、職能としては教育学をふまえた人格としての教育者であるのみでなく、何らかの専門分野における調査・研究経験をもち、そこから問題意識を展開する姿勢をもつべき専門職である。もちろん、教育学は本質的に諸学の総合の担い手という側面をもっており、教師の職能においては、個別分野における調査・研究はそれに包含された副次的な側面となる(しかし、このことは教師が個別分野における専門的研究者であることを排除しない)。
 これに対して諸学の学者は、研究の職能とともに、何らかの分野における教師としての経験をもっているのが当然である。また学際的研究の能力は教育学を背景とする教師の総合力と照合するようなものでなければならない。学者がいわゆる専門馬鹿であることは許されない。


Ⅱ教科書とは何か。教科書執筆とは何か。

(1)教科書は学ぶ者にリーダブルなものでなければならない。
 教科書は子どもと若者にとって最初の「本」であり、「読書」の対象である。教科書は「面白い」というよりも、まず子どもが興味をもって読み通せる一貫性が必要である。それは通読できるということであって、通読によってはじめて体系的な知識が可能になる。歴史教科書の場合は、「通史」をどう考えるかより前に通読できるかどうかが問題となることになる。このためには「書く力(専門性)」と「教える力(専門性)」がまったく違う側面をもつことを確認しておくことが必須である。

(2)教科書は「主たる教材」であることの意味。
 教科書は教師にとって「主たる」教材である。その意味は、子どもに共通にあたえらえる教材であり、「読書」の対象であるということが第一にくる。そして、教師にとっての「主たる教材」であるというのが第二にくる。
 しかし、教科書はあくまでも一つの教材である。「教科書で」授業する安易さを排除することが必要である。教科書は教師の「教え方」を指示するものであってはならない。「教え方」(教育方法)は個々の教師もしくは教師集団の教育の自由を完全に保証しなければならない。「教科書を」多様な教材と教師の発語のなかに相対化して位置づけることが必要である。
 専門職としての教師は、そのような教材の総合的な扱いにもとづく発語と提示に習熟した教育的人格であるが、同時にその教科に関係する学術を学ぶ者、「学徒」でなければならない。そういう立場からして、教科書以外に多様な教材を準備するのは専門職としての教師にとって義務である。

(3)教科書は学者と教師の間での議論、研究と教育の統一を反映していなければならない。
 教科書は社会的費用を使用して作成される公共的教材であり、そうである以上、関係する専門性のあいだでの自立的な議論や調整が必須となるものである。学者のみ、教師のみで教科書を作成することは社会原則に違反する。それは教科書の内容が、専門職の間での相当の普遍性をもつべきことを意味する。
 
(5)教科書執筆者
 教科書の執筆者は、まずその教科についての見識をもつ学徒であるのみでなく、研究者として自己規定しなければならない。
 また教科書執筆に参加する学者と教師は、おのおの研究世界と教育世界を代表するものとして自己を位置づける必要がある。教科書執筆の経験を研究世界と教育世界にフィードバックして代表性の根拠を実証することは義務的な事柄である。


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