『能楽の源流を東アジアに問う――多田富雄「望恨歌」から世阿弥以前へ』(風響社、12月25日、国立能楽堂での「望恨歌」上演の時までに刊行の予定、そこに書きました。

「能」の形成と渡来民の芸能・・・聖徳太子信仰と観阿弥・世阿弥
はじめに
一 都市芸能の原点と百済氏の没落
1百済王氏の没落と民族複合国家の解消
2王朝年中行事の東アジア性と楽舞
3秦氏の渡来意識と楽人化
二 新猿楽と傀儡子の芸能
1後百済の滅亡と志多良神
2村上宮廷と新猿楽の成立
3傀儡子・細男の異民族性と後百済
4傀儡子の地方展開――播磨と東国
三 太子信仰と大和猿楽
1倭寇的状況と芸能民の渡来
2聖徳太子信仰と律宗・禅宗
3大和の仏神事猿楽座の実相――坂戸座・竹田座を中心に
4律宗と結崎座・観阿弥
おわりに

本チラシ

以下、要約です。

「能」の形成と渡来民の芸能・・・聖徳太子信仰と観阿弥・世阿弥
 世阿弥は秦元清といったが、その家系は渡来民、秦氏のうちで芸能を職とする流れに属する。日本芸能史において渡来民の位置は一四世紀までは大きく、七~九世紀は百済王氏、九世紀以降は秦氏がその中心を担った。百済王氏は日本の文化や芸能に大きな影響をあたえたが、百済王氏が国家中枢から外れても東アジア楽舞は王朝文化のパフォーマンスの中枢を占めつづけた。それを象徴するのが仁明天皇・村上天皇の楽舞好きであるが、秦氏は村上の段階で散楽を支えた。この段階で秦氏は『風姿花伝』のいう秦河勝神話、そして聖徳太子伝説をもって渡来芸能民の位置を安定させた。このような秦氏の位置はより自由な芸能活動を行った渡来系の傀儡子集団にとっても大きな支えであったろう。韓半島における後三国の内乱、そして一二世紀には始まったと考えられる東アジアの「倭寇」的状況の中で、韓半島の楊水尺などとよばれる芸能民が、相当数、九州に渡来し、本来渡来的な性格が強かった日本の芸能に、さらに新たな血と技芸を加えていったとも考えられる。
 演劇としての「能」は、それを前提として発生したが、大きかったのは北条時代に律宗が伝統的な仏神事猿楽の中枢である大和猿楽に浸透したことであった。秦氏の河勝信仰と西大寺・法隆寺などの律宗が強調した太子信仰とが響き合い、王家と北条氏・足利氏に衝撃をあたえた。足利尊氏から義満の宗教意識において太子信仰の位置は大きく、それが観阿弥の登場において相当の意味をもったものとしてよい。律宗は武家に近く、かつ「死」を直視した独特な宗派であり、「夢幻能」の雰囲気の一定部分はそこに由来している。従来、「能」と宗教の関係については時宗・禅宗などの位置が強調されてきたが、発生期においてはむしろ律宗の位置をこそ重視すべきであろう。律宗は中国の宋で始まった新たな東アジア仏教の流派であり、この意味でも「能」の形成は東アジア世界の動向に直結するものであったことに注意したい。

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