拙著『平安王朝』8刷りで直した記述

 拙著『平安王朝』の8刷りがでましたが、そこで110頁五行目に下記のような修正をしました。

修正した記述


「満仲の妹を母にもつ藤原有国」を「満仲の妻(嵯峨源氏の源俊(すぐる)の女)の姉妹を母にもつ藤原有国」に直す。

 「満仲の妹を母にもつ藤原有国」というのは「義理」の関係の妹というところを、初版で詳しく書かないというミスをしたということです。失礼をしました。書店には二〇〇八年の段階で伝えたのですが、私の手許には以前の刷りが残っておらず、7刷りでどうなっているかは分からず、念のためここに記しておきます。旧版をお持ちのかたは点検をいただければ幸いです。

読者への手紙
 なお藤原有国については重要なので、根拠を読者からの質問に答えた二〇〇八年の私の手紙を根拠として引用しておきます。

拝復
 拙著『平安王朝』の有国についての叙述について質問をいただきました。
 私が「満仲の妹を母にもつ藤原有国」と書きましたのは、若干、説明不足でした。正確には「満仲の妻(嵯峨源氏の源俊の女)の姉妹を母にもつ藤原有国」とするべきでした。岩波書店には改版のさいに上記のように直してくれと伝えます。
 さて、ごらんになったと思いますが、藤原有国の母は(大日本史料二編一九三頁)、『尊卑分脈』の定本となった「前田家所蔵訂正本」には「母近江守源守俊女」とありますが、鼇頭に記されていますように、前田本系図には、「守」はありません。そして鼇頭に「似是」とあるように、尊卑分脈の編者は、「源俊女」が有国の母であると考えていたことになります。実際、『尊卑分脈』の索引の源俊の項目には源俊女が有国の母であるとされています(吉川弘文館の『国史大辞典』は有国の母を「近江守済俊女」(『公卿補任』、「近江守源守俊女」としますが、これはケアレスミスです。なお前者の『公卿補任』の「済俊」は源俊の誤記であるということになります)。なお、源俊は『日本紀略』天徳2年一一月二七日条に近江守としてみえますが、「近江守源守俊」「近江守済俊」などはみえません。
 そうすると、満仲の妻で頼光の母として「母近江守源俊女」とあるのと対応することになります。そこで「満仲の妹を母にもつ藤原有国」となるということです。ここからはおっしゃるように、様々な問題が派生してきます。これは源満仲論としても、また日野家論としても重要な問題なのですが、余裕がないまま、論文にしていません。

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