公開著書『中世の国土高権と天皇・武家』第二章「平安鎌倉時代における山野河海の領有と支配」

山野河海の領有と支配
      はじめに
 平安時代の後期、一一二一年(保安二)の八月二五日、現在の三重県、伊賀と伊勢の一帯を大きな台風が吹きぬけた。伊賀国黒田荘では名張川の流路が西に移って本庄内の土地が崩れ失われ、伊勢国大国荘では井堰が流失し収穫した稲が倉の中で朽損し、特に、伊勢では「山岳頽落して平地のごとく、田畠作物は流失して河底となり、人馬舎宅は多く以て流失」したことが伝えられている(『平』一九二三、一九五〇、二〇〇七)。そして、この「保安二年の伊勢湾台風」ともいうべき台風は、右の二つの荘園の歴史に大きな影響を与え、大国荘では隣村の領主荒木田延明との相論が起こり、黒田荘では、川の東の国衙領への出作相論が発生した。これらは庄園史家にはよく知られた事件であるが、実はその起点は、この台風にあったのである。
 平安時代の荘園史料には、この他にも荘園の歴史に大きな影響をあたえた洪水の史料が多い。それは、おそらく史料上の偶然ではない。それは、この時代がロットネスト海進期と呼ばれる気候史上の画期にあたり、夏は寡雨・高温だが、秋には霖雨・洪水が多く、通年的には比較的多雨な時期であることと関係しているのであろう*1。これが、この時代の農業・林業・漁業などの多様な生業にどのような影響を与えたかについては、まだわからないことが多い。しかし、多雨かつ温暖な気候が、本稿で問題とする山野河海の自然・生態系に活発な影響を与えたこと、そして大開発時代と呼ばれるこの時代における山野河海の開発に、それが促進的な条件となっていたことは確実である。
 もちろん、右のような洪水の多発がすべて自然史的な要因によって起こったわけではない。それは、律令制期からの山野河海の開発が、縄文時代以来比較的安定していた山と河の水系を流動化させたことにもよっている。それは、律令時代の諸国の国司によっても認識されており、彼らは、「河水暴流して、則ち堰堤淪没し、材を遠処に採りて、還りて灌漑を失う」という事態を避けるために、川辺の山地における材木伐採を禁制した(『類聚三代格』巻一六、大同元年閏六月八日官符)。律令制期から平安時代にかけて、たしかに山野河海の開発は活発であった。非農業的分業の重要性をもっとも早い時期に指摘したものとして有名な戸田芳実の論文「山野の貴族的領有と中世初期の村落」によれば、山野河海は律令制的土地所有体系にとって一つの盲点をなしており、広く山野河海を囲い込んだ荘園・御厨・杣・御薗が各地に成立し、山野河海は新たな社会的分業の場として大きく変化していったという*2。戸田は、そこが権門貴族寺社などの家産的・荘園制的な経済体系を支える拠点となっていたという見通しを述べたが、後に近江国の杣を素材として、断片的な史料から都市京都への材木供給・販売の問題をふくめて、朽木庄の杣人などの活動を見事に復元し、すでに平安時代において、それらの山村の間に山手や津料の納付をふくむ複合・従属の関係が展開していたことを明らかにした*3。
 まず確認しておきたいのは、これらの大規模な山野河海の開発の最前線に、村と村の堺、国と国の堺に広がる自然のなかに新たな生業と生活のテリトリーを広げる民衆の営為があったことである。あまりにも有名な事例であるが、たとえば、奈良盆地の東、山城・大和・伊賀の国堺地帯には、東大寺・元興寺・興福寺などの寺院の杣が広がっていた。そこに住んでいたのは、「水草を逐い、河に瀕い、山を披き、雑処に群居し」、無人の山野に家を構えた人々であったという(『類聚三代格』巻一六、寛平八年四月二日官符)。そして、このような無人の山野河海は、荘園公領の周縁地帯に長く残っていたのであって、たとえば、若狭国の漁村として有名な多烏浦は、鎌倉時代の始め、守護稲葉時定の「田烏という浦ハ切あけているべき」という指示によって秦成重兄弟が立て始めた浦であるという。また、これは鎌倉時代も後半のことであるが、貞真という人物の進止していた奈良の山林の中に彼の下人が「樹明」と荏胡麻(えごま)油の山畠耕作のために差し置かれていたという(『春日神社文書』③七〇四)。
 ところで、この「切明」とか「樹明」という言葉は、近世的にいえば「草分」であろうが、「切明」が『日葡辞書』において「叢林、あるいは草を切り払って、道を開く」と説明されているように、そこには、耕作・漁撈・杣作自体というのではなくて、そのための道作りという語感がある。そしてこのように孤立的な伐採地を繋ぐ踏分道から、より大規模な交通路開発に至るまで、さまざまな交通路開発を、平安時代からの山野河海の開発の重要な一環として想定しなければならないのである*4。たとえば、山地の交通については、東大寺の良弁上人が、奈良時代、伊賀国黒田杣の開発にあたって木津川の激流をさえぎる「笠置の盤石」を破砕して筏流しのルートを開いた(『平』三七三二、三八三四)といわれ、また同じく東大寺領の伊賀国玉滝杣の開発にあたっては、平安初期、「峻巌を削平して材木を挽くの大路を作り、曲谷を掘り通して桴筏を流すの巨川となす」(『平』二七二)工事が行われたとされている例をあげることができようか。
 また、海路においては、たとえば、『今昔物語』の一説話(巻二六-九)によれば、加賀国熊田宮の神人漁民は熊田宮の「別れ」の神であるはるか沖の猫島の神の吹かせた風にさそわれて、猫島に漂着し、本土との間を行き来しつつ、猫島を開発したしたという。ここには遠島の漁場開発の一環としての航路開発の伝承の反映を見てとることができよう*5。平安時代は日本における近海漁場開発の一つのピークをなした時代なのだが、そこでは、たとえば廻船人としての活動が知られる広田社神人(弘長三年四月三〇日神祇官下文「狩野亨吉蒐集文書」)が、往反の船に「桙榊」をさして風祭をし「幤料」をとっていることからわかるように(「散木奇歌集」)、風神・海洋神の導きという形態の下に、このような航路開発が無数に行われたに相違ない。
 つまり、山野河海は、一方で村落と村落、荘園と荘園、国と国の堺であるとともに、同時にそれらの間をつなぐ交通・輸送の場所でもあったのであり、山野河海の開発は、堺の自然の開発であるとともに、堺の交通の開発でもあったのである。
 さて、まえおきが長くなったが、本稿では、まず第一節で、右に触れた台風のような自然の運動さえも自己のイデオロギー的支配の下に置こうとする高権の国土領有イデオロギーを検討し、第二・第三節では、村と村、荘園と荘園の堺としての山野河海の問題、交通路としての山野河海の問題をおのおの検討していくことにしたい。そして第四節において、山野河海の自然に直面して生活する民衆の生活に視点を置いて村落と山野河海の関係について論じることとしよう。
Ⅰ王土思想と山林修験ーーイデオロギーと自然
 「九州の地は一人の有なり、王命の外、何ぞ私威を施さん」(『平信範日記』保元元年閏九月一八日条)。これは、保元の乱の直後、一一五六年(保元一)に発布された保元の新制の冒頭の一句であり、王土思想を典型的に表現したものといわれている。
 このような王土思想とその発布形式としての新制は密接に関係していた。ここには、新制の及ぶ地域こそが王土であり、その及ばぬところは異域であるという観念が存在したのである。たとえば、保元の乱から始まる平安時代末期の内乱を総括する位置をもった文治の奥州合戦の後、源頼朝は現地に対して「出羽・陸奥は夷の地たるによって度々の新制にも除かれ畢んぬ」という指示を下している(『吾妻鏡』文治五年一〇月二四日条)。また、最近の五味文彦の見解によると*6、保元の新制は鎌倉以降の「徳政」に連続する性格を有していたという。そして、「徳政の号は、皇化を施さる古来の通称なり、意見を諸人に召され、切嗟せしめ、その中新制を定めらるることなり」(『万里小路時房記』嘉吉元年九月一四日条)という文章もあるように、徳政と新制、「皇化」拡張の思想と王土思想は、本来的に深い関係にあったのである。
1天と北野
 この新制・徳政の法的内容については次節以下で検討することとして、まず問題としたいのは、王土思想自体のイデオロギー的内容、特に山野河海との関わりにおける王土思想の表現形態にある。王土思想は、耕地田畠のみでなく「山野河海」を含む自然の運動と秩序の全体に対する高権的・イデオロギー的領有を内在していた。そして、それはまず「天」との関係において捉える必要がある。
 周知のように、起請文という誓約文書は本来は「天判祭文」として天を祭るものであったが、平安時代以降、天神の序列のトップクラスには菅公、菅原道実の御霊と考えられた北野天神が加わっていた。特に京都においては、法的な意味を有する起請は必ず北野社に参籠して行うべきである(検非違使庁例における参籠起請や幕府法における神官・神人の裁判など)という法慣習があったのは重要である*7。喜田貞吉がいうように、九世紀の八三六年(承和三)二月に北野で天神地祇が祭られ(『続日本後紀』)、元慶年中に藤原基経が北野に「雷公」を祭ったと伝えられており(『西宮記』巻七裏書)、北野に菅原道真が祭られたのは、京都の在地神祇の伝統をうけてのことであった*8。つまり、北野天神は、王城の地における「雷神」「疫神」であり、「天罰」を与えるのに最もふさわしい神格だったのである。
 そして、天皇にとって特に重要なのは、この北野の地が、その踐祚大嘗祭の祭地でもあったことである。大林太良は、大嘗祭において天の神霊が下る場所が北野の斎場の「標山」であることに注目し、この標山は単なる招代ではなく、「天から王権が地上に到達した地点たる神話的な<聖なる山>の儀礼的表現」*9であると論じている。天皇の即位儀礼において「高千穂の峰」と意識されていたという「高御座」の問題や、その座における天皇の密教的な「四海領掌印」の問題*10と合わせ考えると、ここには「山」に座して垂直的に国土を支配する天皇の高権、つまり至高なる領有権が象徴的に表現されているといえよう。
 そして、王城の神祇においてその北野の地が配流された道真の霊の座す土地であったことは、古代の「天」の観念に大きな変化が起きていたことを示している。古代の天の神話的観念を前提とした「高殿」からの「国見」が山野河海の領有と支配において基軸的な意義を有していたことについては、吉村武彦の近業*11があるが、そこに律令制的な国家的土地所有にともなうイデオロギーとしての「率土兆民、王をもって主となす」(「十七ヶ条憲法」)という王土思想が表現されていたことはいうまでもない。しかし、平安期以降の王土思想は、それ以前のそれを否定するところから出発した。それを最もよく示すのが、この北野の問題、つまり、北野天神の神格が天皇をも圧服しうるに至ったという問題であろう。金峰山の笙の岩屋に籠もった日藏上人が、道実を流した罪によって醍醐天皇が鉄窟地獄の苦を受けている様子を見知したという『北野天神縁起絵巻』の一場面は、それをまさに視覚的に表現している*12。
2飛行の聖・黒山の先達
 このような否定的媒介によって古代の王土思想が平安時代以降に継受されたことを忘れてはならない。もちろん、石井進のいうように王土思想がより純粋な形で新制や徳政などの国制理念との関係で浮上するのは、たしかに保元新制を画期としているが*13、問題はそこに至る歴史過程である。そして、戸田芳実が述べたように、各地の山林に籠もって活発な活動を示した右の日藏上人のような修験者の活動の中に、もはや王土思想に第一義的な意味を認めない動向を発見してよいのではないだろうか。それを明確に示すのが、戸田が注目した摂津国勝尾寺に伝えられた説話である*14。それによれば、清和天皇の「玉体」不豫に際して、護持の祈祷のために呼び出された勝尾寺の聖、行巡上人は、「普天の下、王土に非ざるはなし」と追求する勅使に対して、空中に遊飛して勅命に抗し、上洛を肯じなかったという。そして、その類話として、逆に「王地にをりながらいかでか宣旨を背くことあらむ」と述べて勅命に応じながら、実際には王よりも乞食の治療を優先した修験者の説話(『今昔物語』巻一二ー三五])、また『信貴山縁起絵巻』に伝えられる飛行能力を持つ聖、行者命蓮の王命への抵抗の説話を上げることができよう。
 宣旨をもった官使を請けず、国司から「夷狄」と攻撃される百姓の行動が発生している以上(『平』二〇〇〇)、民衆も彼らを受け入れる条件を有していたことは明らかであるが、さらに私は、彼ら修験の聖の活動は、一面で、一種の探検踏査者として山野河海の開発に向かう人々をリードする役割を有していたと考えている。たとえば、近世においても修験寺院として著名な豊後国六郷満山には、既に平安時代の後期、山内の所々にあった岩屋ごとに住僧と先達の組織が置かれ(なお本山の場合は大先達、末の岩屋の場合は普通の先達という階層性があった)、地域の民衆を山の世界に案内していた。そして、彼らの住んだ岩屋は「本は大魔所にして大小の樹林繁くして人跡を絶つ所なり」といわれるタブーに覆われた老樹林、いわゆる「黒山」であり*15、彼らは「始めて件の岩屋に罷り籠もるの間、時々微力を励まして、所在の樹木を切り掃い、石・木根を崛却して、田畠を開発」したのである(『平』四七〇二)。彼らは開発の最前線において無所有の自然に入り込み、山野を抜渉する力を示している。彼らの験力と知識こそ、山野河海に対する人々の意識を規定していったのではないだろうか。
3岩屋と蛇・龍
 「岩屋に聖こそおわす」(『梁塵秘抄』)、「樹下に宝崛を占め」(『平』二七六二)などの史料を引くまでもなく、彼らの栖は「黒山」の中の岩屋であった。そして、そこでの「心神不例」をもたらす荒行の中での「祈念」に「感応」する夢(『平』三六七五)のなかで、人々の自然観は最も典型的な姿をとる。たとえば、沙門雲浄は熊野参詣の途次、志摩国の海岸の「岩洞」で毒蛇を済度し、蛇は龍に化して「暴雨を降らし、雷電日の光のごとくに曜きて、山水忽ちに満ち石を流し山を浸」して去ったという(『大日本国法華経験記』巻上二四)。北野天神が龍となり雷となることを思うまでもなく、山伏は雨乞いの祈祷において、このような験力を期待されていたのである。
 そもそも、この時代、「世間ニ鳴渡ル雷ヲコソ龍王ト知リテ侍ル。去共、夏天ノ暑ニ雲ヲ起シ雨ヲ降シテ、五穀ヲ養フ事ハ目出事ゾヤ」(『源平盛衰記』一八)といわれたような、天と海の神、水神としての「龍」、特に台風の表象としての「龍」の観念が存在していた。そして、人々が、水や川を一つの人格あるいは神格として捉えた場合、それは蛇の姿を取った。これについては別稿*16でも触れたが、たとえば、『吾妻鏡』の一二三八年(嘉禎四)六月二五日条に、「丑刻、大風・霹靂・洪水、人屋多く破損す、栂尾・清滝の河辺に蛇出づと云々」とあり、また、『春日社記録』の一二八〇年(弘安三)五月一六日条に、「チシャ原辺ヨリ虵出テ、長谷川ヲクタリニ行、仍ち大水出」と記録されているように、大水・大雨を契機とする移動の活発化という蛇の自然的生態が、洪水の予兆として認識されていたのである。
 この合理的認識が「蛇の祖」としての「龍」の観念(『今昔物語』巻一六ー一五)に展開する。蛇は、「夜刀神」、つまり谷の神といわれたように山に棲むものとされており、岩屋に籠もった山伏は蛇の生態をよく知っており、彼らは、大蛇の姿に天に昇る龍を印象し、それによってさらに天と地の交流に介入する自己の能力一般を表象していた。先にふれたように、彼らに備わっていると考えられた飛行能力の問題も、この関係で検討すべきであるし、また、「僧正其由を聞て法服を着し香炉を捧げて庭中に立ちて深く観念の時、香炉の煙たかくのぼりて、大雨即ち降る」(『古今著聞集』巻二ー九)とあるような、千々和到が指摘した天に祈祷の意思を届ける作法としての「煙」*17、雨乞いの煙の問題も、それに関係している。つまり、ここでは、自然的な水蒸気と水の運動のサイクルが「龍」と「蛇」と「煙」によって、認識されていた訳である。
 以上のようにして、山林修験者たちは、古代の王土思想と山野河海観を換骨脱胎していったのであるが、もちろん王の国土高権がそれによって全て代位されたわけではない。それは天皇が修験を召してしばしば雨乞いや「玉体」護持の祈祷を命じていること自体に明らかであり、宗教的装置を左右する権威は、王権に握られていたのである。
 たとえば、かぐや姫からの手紙と不死の仙薬を受け取った天皇が、それを富士山の頂上にまで運ばせて煙にしたという千々和が注目した『竹取物語』も、凡百の貴族と相違して、天女と交歓し、山を媒介として天と交通しうる存在であった天皇の姿を示すのである。その点からいえば、たとえば、平安時代末期の一一四九年(久安五)に末代上人という修験の僧が、富士の山頂に一切経を納めたことや(『本朝世紀』久安五年四月一六日条)、その他、高山の開山伝承や発掘調査などによって山岳宗教史研究*18が明らかにしている修験の探検的登山も、王権のイデオロギーを支える機能をもたざるをえなかった。
 また、徳政・新制との関係で重要なのは、鎌倉時代の徳政の思想家として著名な徳大寺実基の逸話である。彼は人々が亀山殿の地主神であるかと恐れた大蛇を「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何のたたりをかなすべき」と堀り捨てさせたという(『徒然草』二〇七段)。これは古く『常陸国風土記』が伝える説話において、壬生連麻呂が開発を妨害する「夜刀の神」(蛇の姿の地主神)に対して「何の神、誰の祇ぞも、風化に従はざる」といって「目に見ゆる雑の物、魚・虫の類は、憚り懼るるところなく、随尽に打ち殺せ」と命じたのとまさに同じ論理である。ここに、様々な歴史的変化はあるものの、王土思想が単に宗教や神話に解消できないような権力的な開化主義の性格をもち、それが根強く受け継がれている様子を確認することができるのである。
Ⅱ堺の山野河海相論と地頭ーー新制論Ⅰ
1荘園整理と殺生禁断
 保元の新制の主要な内容が荘園整理令にあり、荘園整理令が、新立荘園を整理しつつも特定の条件を満たす荘園を既成事実として承認し、さらに荘園の加納・出作の禁止を通じて、公領と荘園の堺を分離・管理する役割を果たしていったことはよく知られている。
 しかし、ここで注目したいのは、堺を越えた加納・出作を展開した荘司・寄人の行為は、単に経済的な問題としてではなく、「狼戻の基」「濫行」と捉えられており、棚橋光男が、保元の乱における「庄々軍兵」の活動との関係で荘司・寄人の濫行に対する規制の意味に着目しているように*19、そこには治安対策としての意味があったことである。それについては次節でさらに触れるが、保元の新制は保元の乱の直後に発布されたものであり、先にみたようなその高圧的な王土思想の宣言は、勝利した後白河天皇方にとっての権力的な「王土の平和・静謐」の希求を表現しているのである。整理令=新制は、その理念の下で権力的に堺の管理システムを作りだし、支配層にとっての「堺の静謐」を目指すものであったというべきであろう。
 これに関連してもう一つ重視したいのが殺生禁断の問題である。その条項は右の保元元年新制には現れないが、翌年の一一五七年(保元二)新制には存在したといわれている*20。それが新制的法令の一環として発令された最初の例はおそらく花山天皇の寛和新制であるといってよいであろう。これは琵琶湖南部という平安京至近の地での広域的な殺生禁断令として巨大な意味をもったものと思われる。そしてそれをうけて、後三条天皇の延久の新制(一〇六九年)においても、荘園整理のみでなく、同時に「諸国御厨子并((所?))の贄、後院等の贄」の貢納を停止し、古来の御厨を停廃して、「御厨子所領の御厨」に「精進の御菜」を調進させた事実がある(『扶桑略記』延久元年七月一八日条、同二年二月一四日条)。殺生禁断はこれを先駆として院政期においてしばしば喧伝された。その主な内容は漁撈および狩猟に対する規制にあったが、右の延久の諸国贄と御厨の停止令は一〇世紀以来の贄貢進体制に画期的な変化をもたらしたといわれている*21。これにより、第一に国衙ルートでの贄の貢進体制でなく、荘園化した御厨と供御人により供御物を貢進する体制が進み、第二に、「神領御供を除くの外、永く所々の網を停」めるという方針(『百錬抄』大治元年六月二一日条)によって、逆に神人的漁民の漁業・「殺生」特権が公認・強化される結果が生じたのである*22。
 もちろん、この殺生禁断はそれ自体としては仏教的な「殺生戒」の興行であり、それについては別稿「酒と徳政」*23でも律宗の叡尊の宇治網代の破却などの行為にもふれた論じた通りである。しかし、さらに注目したいのは、小山靖憲が伐木が殺生禁断に抵触するものであったことを示しているように*24、それは動物のみでなく、広く動植物全体に対する「殺生」を禁止するものであったことである。堺の土地の開発が常に伐木を伴ったことはいうまでもないから、殺生禁断は、「堺の静謐令」とあいまって、堺の自然に対する禁忌を組織する役割を有していたのではないだろうか。
 このようにして、保元の荘園整理令は殺生禁断令による中世的な漁業の組織化を含みこみ、また殺生禁断令の自然に対する汎神論的禁忌の側面を媒介として、山野河海の堺の管理と静謐を推進したのである。そして、こう考えると、殺生禁断令は、山野河海に生息する動植物にも恩恵を施す国王の領土高権の宗教的宣言であったのではないか。
2犯土と勅定
 しかし、どのような場合でも「殺生」が禁止されたのではない。耕作・土堀りにともなって「蠢々之類、自然に命を失う」ことまで「殺生の罪科」と観念されている中では(『禅定寺文書』三六)、それは所詮無理なことであった。逆に殺生禁断の下で供御人・神人の漁業特権が体制化されたことや、先に触れた徳大寺実基や壬生連麻呂の言動に明らかなように、王の恩恵の下で生きる生物が王の権威の下において殺害されることは当然のことだったのである。徳大寺実基の「ふるくよりこの地を占めたる」「所の神」であった蛇の住む「塚」を崩す行為は殺生の土堀りであり、陰陽道でいえば「犯土」(土掘りによって大地を傷つけ、地霊を呼び出すこと)にあたるが、上の事実は、王の命令は犯土をも憚らないということを意味している。
 そして、重要なのは荘園の立券=堺の確定には、この犯土が逆に必須のものとされていたことである。陰陽道においては、特に土の中に土公神が宿っていると観念された土用中には、堺の「利見(立券)傍示」は(ある場合は検注や耕作自身も)犯土として憚られていた*25。具体的な事例をあげれば、たとえば、大和国長瀬荘と伊賀国黒田荘の間の荘堺は、同時に両国の国堺であり、そこにあった橋の架橋は伊賀国、斎王路の道作りは大和国と分担がきめられ、「両国合力して犯土・造作の功をな」していたという。両荘の堺相論において、この犯土の事実の記憶が、そこが堺であることの証明となったのである(『黒田荘史料集二』四三三)。
 立券に際しては、堺の山野に牓示の杭を建てたり堀を掘ったり、あるいは目印の木を植えたり炭を土中に埋めたりして大地を傷つけることが一般的だった。このうち特に興味深いのは、埋炭の慣習であり(『平』二五五七、『鎌』五二二)、堺相論の現場検証において最も確実な証拠は、(山中から)「往古より埋め置く炭」を堀だすことであったという(『醍醐寺文書』④七三九)。それは近世の農書『地方凡例録』(巻一上)のいうように「炭は地中に在て万代不朽のものゆへ、境の地に炭を埋めて後来の証とする」からであり、滋賀県のある村では、戦前まで「二月の彼岸に入る日、国境や邑境に牓示さしということを行ったという。境の地へ杭を打ち、炭あるいは竹を埋めた」のである(『総合民俗語彙』「ボウジサシ」の項)。
 ここで国堺の炭埋めが現れることが興味深い。中世の国堺は、「国境は公家の御沙汰」(『鎌』一二三六七)、そして右の大和国長瀬荘と伊賀国黒田荘の事例においても「国堺は勅定限りあり」(鎌一〇七三)、あるいは「民部省図を開き落居せしむべし」(鎌一〇七五)などといわれるのが一般である。つまり、そこでは境界設定は「勅定」あるいは太政官の決定に支えられていたのであるが、王土思想の観点から見れば、荘園の堺の決定・立券も、同じように王権の下で決定されるべきものであったのではないだろうか。
 もとよりこの時期、王土思想と犯土の禁忌では問題は落着せず、太政官を中心とするより国家的・機構的な堺の管理も進展していった。その中で徐々に堺の文書が蓄積され、右の大和・伊賀の場合のように「国域の堺、荘園の限りは、各の本図帳、上に在り、彼を指南とすべきなり」(『鎌』一〇七四)といわれるようにもなり、実際にどの程度実施されていたかは別として、四至・堺を記載した荘園の立券状は、太政官の官庫・官文殿に保存されるべきものとされていたのである*26。
 おそらくそれは、太政官・記録所が荘園整理の実務を積極的に担うようになった延久の整理令の頃からの慣習であろうが、さらに延久の整理令の場合には書面の調査にとどまらず、堺の牓示を打つ太政官の官使が発遣されている。たとえば美濃国茜部荘では「後三条院の御宇、庄園を記録せらるの刻、重ねて旧貫を守り、官牒を賜り、四至を注載し官使を遣わし、牓示を打たれ了」(『平』一八八一)、筑前国把岐荘でも「後三条院の御宇、……事を新制に蒙らしめ、官・府・国の使等を入勘せしめ、検注せしむるにより、荒野山沢をもって、本田の員に填入」(『平』二一一〇)といわれている。そして、この官使は、院政期には「院使」となる場合もあったが、ほぼ延久新制の頃、一一世紀半ばから一般的になり、出作田を追求する官使への抵抗が「夷狄に異ならず」と非難されていることでわかるように(『平』二〇〇〇)、王の高権を全土に貫徹する役割をもっていたのである*27。
3地頭の行列
 さて、在地における荘園の立券や検注の主体となったのは、まずは、右の筑前国把岐荘の場合に「院御使竝びに府・国の使等、相共に地頭に臨み、実検し既に畢んぬ」(『平』二二〇七)などとあるように、本所使と荘司および院使・官使・国使などであった。また、そこには荘園の住人も使の接待供給の雑事などのために参加し(『平』二四九八、二五四〇など参照)、そのうちでもさらに、把岐荘での隣荘との相論において「院使」が下った時に、「古老人」の「神裁」が行われたように、特に「古老」の住人は証言者としての役割があったのである(『平』一二七七、二六一二など参照)。
 彼らは「地頭」に集合した。この地頭の語義は既に室町時代成立の『壒嚢抄』(巻一、三二段)に「心得がたき名なり」とされており、様々な議論もあるが、私は古く石井良助が「当寺の頭(ほとり)、自ずから義仲の首を獲る」(『吾妻鏡』元暦元年一一月二三日条)というような「頭」という言葉の用例を提示して「地のほとり」のこととした*28のに賛成である。つまりそれは実検を加えるべき堺相論の特定地点ということなのであって、四至関係史料にみえる谷頭・田頭などの語とも共通したニュアンスをもつのである*29。そして、そのような地頭あるいは「頭」の語の用法は、平安時代の史料にも事例は多い(たとえば『延喜式』巻二八、兵部省、走馬、『兵範記』仁平三年六月一三日条、『勘仲記』建治二年一二月一九日条など)。
 この地頭に集合した人々は、そこで行列を編成し、堺の山野河海を踏破して順次に牓示を打っていくことになるが、彼らがどこをどう通行するかは、立券において決定的な事柄であった。たとえば、一二五〇年(建長二)の頃、紀伊国丹生屋村は河を挟んで東隣に接する名手荘との堺相論において、「正暦の官使の道、東岸にあり」と主張している(『鎌』七二五五)。つまり、丹生屋村は、二五〇年ほど以前の立券の際の行列ルートが河の向岸だったから、河はこちらのものだと主張しているのである*30。また、その行列は予定通り進む訳ではない。使に勢威がない場合は、官使が「(美濃源氏・源国房の)武威を怖れ、且つは相語らわれて、(牓示を打つべき)実の高椋の堺に到着せず」(『平』二四六九)という美濃国茜部荘のような結果になり、逆に院使のように、使の威勢が強い場合は、筑前国の平野社領の立券のようにを隣の宇佐神宮の御薗を「踏籠」めようとする。このような場合には、どの道を通るべきかが、行列参加者の間で問題になるのであり、後者の筑前国平野社領の場合は、院使の引きつれる府使・国使および郡司・図師(古老人ともいわれている)の抵抗によって行列は分解し、「他領を踏まんと擬すにより、沙汰を遂げず」ということになったのである(『平』二六五七)。
 さて、私は、地頭を踏み通る行列の在地側代表者として、さまざまな矛盾を含む使の供給雑事や行列の編成を処置した地頭の沙汰人というのが、人または職としての地頭の本来的な意味であったと考える。彼らは、その過程で本所・領家のみでなく、国土高権を代表する太政官や院・王家と関係を結び、国土高権の働く場所としての地頭・堺を沙汰したのである。
 その姿を最もよく示すのが、右の把岐荘から筑後川を隔ててすぐ南に広がる鳥羽天皇の皇后宮(美福門院)領の筑後国生葉郡薦野荘が、一一四四年(康治三)正月に立券された際の「院使・地頭人等」の例であろう*31。観世音寺領筑前国把岐荘は「本願天皇御遊の荒野」という伝説をもつ二万八〇〇〇代の広大な原野、把岐野に存在する荘園であり、すぐ南の同寺領筑後国大石・山北封とは、把岐荘が筑後川の利用をめぐって肥前国宇野御厨に所縁をもつ「大府贄人」松永法師などと相論を行っていることからわかるように(『平』四九五四、一二七五)、筑前・筑後の国境の筑後川を隔てて一体をなしていた。新たに立券された薦野荘はこの大石・山北封の四至の内の大野・袋野を含んでいたのである。立券を在地側で組織したのは、薦野郷の領主薦野大夫資綱であり、彼は肥前国の前任国司(「肥前前司」)として同国松浦荘を私領としていた鳥羽院院司大江国通をかつぎ、さらに、筑後国一帯の有力領主であり、同時に太宰府の大監などの官人である「大将軍」に率いられた「五百余人の軍兵」を組織して、隣の観世音寺領大石・山北御封の「狩場」で狩猟をし、その中心を「踏取」ったのである(『平』二五二三、補三一九)。
 いうまでもなく大江国通の所領の肥前国松浦荘は「海の武士」松浦党の拠点であり、右に触れた大宰府贄人が所縁を求めた宇野御厨の隣荘であるから、薦野資綱の行動の背景としては、北九州沿岸に広がる御厨を支配する王権や院司、そしてそれに連なる太宰府の官人の勢力があったと考えられるのであるが、この公権に直結する大部隊が立券にさいして隣荘との境界=地頭を踏みめぐり、その中心メンバーである薦野資綱などが「地頭人」と呼ばれたのである。そして彼らは単に行列を組んだのみでなく、狩場において正月の狩猟を楽しんだ。この狩猟が院使などの珍客を歓待し、同時に山野の神を祭る「大狩」「巻狩」の饗宴であったことは明らかであろう*32。石井進は平安時代の「国司の大狩」、鎌倉時代の「守護御狩」が武士身分を相互に確認する場として機能したことを明らかにしているが*33、それが同時に地頭立券の意味をになったのである。
 そして、このような山野の神の祝祭との関係で興味深いのは、ここで「踏籠・踏入・踏取」などという表現が使用されていることである。その他、「踏通」「踏込」などの「踏」という言葉が、立券牓示や堺相論の関係ではしばしば現れるが、おそらくそこでは、多人数で土地を踏む行為自体に、陰陽道の地神の呪術、「反閉」の踏み足と同じ意味をもたせていたのではないか。それは堺の占定を神に報告し、在地に披露する一種のパレードであったのだろう。それはあたかも古代の土地領有行為における「国見」に対応するものであったのであり、そのようなものとして長く現地の記憶に残ったのである。
Ⅲ堺の交通と山野河海の静謐――新制論Ⅱ
1市の河原と津料
 さて、「堺の静謐」という場合、問題はさらに広がっていく。まず取り上げたいのは、新制・徳政の有した「市の平和令」というべき側面との関係である。詳しくは別に論じたいが*34、福島正樹がいうように*35、新制には「荘公確定機能と済例確定機能」があり、前者は前節で述べた荘園公領の「堺」の管理の問題であり、また、後者の済例(貢納物の換算率)の管理は、延久新制以来明瞭なように、「沽価法(物価公定法)」に連動するものであった。そして、福島によれば、保元新制も済例の確定、それ故に沽価法の操作を含んでいたという。この沽価法は公権の重要な基盤をなした「市」の管理の問題なのである。
 この市の平和の政策は平安期から存在していたが*36、それが最もはっきりと確認できるのは、鎌倉時代の徳政、特に弘安徳政における「市の平和令」である。それは一二八四年(弘安七)六月三日の関東御教書によって公示されたもので、「一、河手事、一、津泊市津料事、一、沽酒事、一、押買事」の四か条を禁制したものである。第一条の河手とは河関の通関料、第二条の「津泊の市津料」は津泊の通関料=津料とそこに存在した市庭の市場税、第三条の「沽酒」は市庭の狼藉の原因となる売り酒、第四条の「押買」は市庭における強制的な買得・買い叩きのことであり、これが全体として市や関における静謐を命令したものであることは明らかである。なお別稿「酒と徳政」*37で分析したように、「沽酒」が殺生禁断令の一部として実施されることがあったことは、殺生禁断が「堺の静謐令」としての性格において市庭まで拡大する様子を示しているということができる。
 ここで注目すべきなのは、この法令が、特に交通路としての河海における交易の静謐にかかわることである。そもそも、市庭は、網野善彦のいうように*38、津泊・宿などの町場と山野河海との堺、あるいは荘園の堺などの「荒野」や「河原」に立った。たとえば、高野山領紀伊国名手荘と粉河寺領丹生屋村との堺に、栃の木が標示として立ち、榊によって斎き鎮められており、そこでは市津料が徴取され、牛神祭が行われたいう例を挙げて、網野は「宣旨がこれを堺の一般的な在り方として述べている点に注目すべきであり、市はまさしく堺に立ったのである」としている。市の主な交易品目は、一般的な交易物としての「絹布」の外は、山の木の実と海の贄であったのであり*39、その意味でも市が山や海の境界領域に属するものであることは当然であろう。このような意味で、市庭の静謐は「堺の静謐」に連なるものだったのである。
 もとより、このような市庭の静謐は単に権力の要請であるのではない。それは第一に、地域社会の要請に根を置くものであった。たとえば、網野は、村外れで発生した殺人事件に関係して、村人が「かくの如きの闘諍、市町・浦浜・野山・道路などにおいて、俄に当座諍論の事、その座の仁に非ざれば、咎を懸けられるや否や(─懸けられない)」という法があると主張したことに注目し、山野河海と市町が縁座制の適用から離れた場所であるという点で共通した法的性格を有していたとしている*40)。つまり、地域社会の法はそのような堺の場における闘諍を一過的なものに局限しようとしていたのである。そして第二にそれを要求したのは、社会的な分業を家産制的に組織していた権門寺社に所属して、山野を跋渉し、河海を航海し、市において交易をする人々、つまり、様々な寄人・神人であった。
 彼らが「諸国七道往反経廻の間、市津関渡の津料例物の煩いを免除し」などという、市津・路次・関渡などでの煩、津料賦課を免れる法的な自由通行権を要求したことはよく知られている。先に山野河海の開発の尖兵であるとも述べた山伏は「北陸道の習い、山臥の峰を通るの時、便宜により宿に定めしむるは先例なり」といわれるような宿泊の特権的自由をもっていたが(『鎌』八七七五)、そのような要求は諸権門寺社の神人・寄人などと呼ばれた人々自身の要求でもあったのである。たとえば、鎌倉時代の初め、下人の男女が逃げ込んだと追求された春日社領和束杣の沙汰人は、「件の折節、外土よりの旅人移住の事なし、但し権門より去り来るは人多し、その交名を注進せらるといえども、実体を知り難し、就中、往古、御杣の習い、来たり入るの者、沙汰の出づる事なし」(『鎌』二〇二六)と主張している*41。杣の中に他国の浪人が流れこんでいたことを示す史料は多いが*42、それは、杣がこのような交通上のアジールとしての性格を有していたことに支えられていたのであり、そして、市津料免除の交通特権の要求は、このような境界領域における様々な交通の自由の要求の一部として存在していたのである。
2山賊・海賊・黒山の道
 このようにして市の静謐と交通の自由の要求に対応した王権は、それをテコとして実力的に山野河海の静謐を保証する権力として登場しようとする。ここに堺の静謐を追求する新制の治安対策的な側面が現れることになるのである。
 五味文彦は、鎌倉将軍家に「海陸盗賊」などに対する軍事警察権の執行を命じた、有名な一一九一年(建久二)の新制の原型を、平安時代末期の一一六七年(仁安二)宣旨において公卿平重盛が山賊海賊の追討使に任命されたことに置いている*43。そして、五味は平氏軍制の出発点をなした仁安宣旨も新制としての性格をもっているとするのである。たしかに山賊・海賊の追捕令は新制に本来的なものであり、新制はこのようにして王権の平和の下に武家を包摂する国家的形式でもあったのである。そうだとすれば、さらに私は、その条文の殆どが散逸している一一五七年(保元二)の新制の中にも、山賊海賊の禁制が含まれていたのではないかと考える。もしそうでないとしても、同じく五味が発掘した、同年正月の頃、平清盛が「鎮西凶悪輩を召し進めしむべし」という(おそらく海賊追討の)「宣旨」を受けている事実からすると*44、同じような動向があったことは確実である。その論理必然的な結果が約一〇年後の仁安宣旨をもたらしたのではないだろうか。
 いうまでもなく、このような新制の下における山賊・海賊の追捕は、鎌倉時代に入っても続いた。たとえば、先に触れた弘安徳政の時代も、(山賊・海賊を含む)悪党に対する治安対策が強化された時期であった。そして、重要なのは拙稿で述べたように*45、弘安の市の平和令自体も悪党に対して向けられていたことである。このことは、新制における山賊・海賊の禁制は、市の平和令とセットになって交通や交易を促進する開明主義的な側面を有していたことを意味する。そして山賊・海賊の追捕と市の静謐が、どちらも堺の山野河海にかかわるものであったことは繰り返すまでもない。
 ところで、このような開明主義的政策は、同時に山や海の交通におけるさまざまなタブーに対する攻撃を含んでいたはずである。もとより、このようなタブーは、たとえば、「魔所」に踏み入った山伏に導かれた民衆自身の営為によって、あるいは「はじめに」で東大寺領の伊賀国の杣の開発にともなう山地交通の開発について触れたような山野河海の広域開発によって、それ自体としては徐々に消滅の道を歩んでいた。しかも、その傾向が、山賊・海賊に対する検断それ自体によっても促進されたのである。たとえば、同じ東大寺の重源上人が、平安時代末期に「伊賀国所々山々」の「賊難」の多い山路を切り払って「顕路」とした(「南無阿弥陀仏作善集」)という事跡が伝えられている。実際、樹木のうっそうと茂った山はしばしば山賊の出没する場所であった。たとえば、一二〇二年(建仁二)の頃、盗人たちが、奈良の佐保田山に逃げ込んだ事件があったが、その山は「根本の悪所として、なお権威を憚り未だ手を懸けるに及ばず」といわれている。「悪所」とは一般には「けわしい山道や坂」などの意味であるが、さらに『塵袋』(二)によれば「鬼神などの住む」場所のことであり、そこには未開のタブーの存在が感じられていた。
 重源上人は、そのような場所を「顕路」となし、タブーを取り払うことによって「賊難」をなくすことに努めたのである。そして、右の建仁の事件より以前、その近辺にあった東大寺領の山の間を通る大路で山立(山賊)事件が発生した時、現場に繁る樹木を切り払い、「山立の難」を防ごうとしたように、当時、盗犯があると賊のこもる山道の繁茂した樹木を広範囲にわたって切り払うことは、広く行われた社会的慣行であった*46(『福智院家古文書』一四)。平安時代、『更級日記』が足柄山の道を「空のけしき、はかばかしくも見えず」「暗がりわた」ると表現しているような樹冠の閉じた「黒山」の道は、当時の山路では何処でも見られた景色であるが、そのようなタブーにおおわれた山道も徐々に開けていったのである。
 以上は山賊についてであるが、新制において山賊とならんで討伐の対象となった海賊も、ほぼ同様の海のタブーを根拠として交通を妨害したのではないだろうか。たとえば、海難にあった船舶を「寄物」・「入海」であると号して掠奪する慣習があったが(『鎌』四七六一)、広く知られている「寄木・寄船」は神からの贈り物として拾われる民俗を勘案すると、海賊の行動原理の中にこのタブーへの依拠があった可能性は高いのではないだろうか*47。
3堺の警護と追却
 さて、前節で国土高権の下でその地位を認証されるものとして検討した地頭・地頭人は、平安時代末期からしばしば武家権門の下に家人として組織された存在であった。義江彰夫は、たとえば、本来は簗瀬村の刀禰の一族から出身したという有名な伊賀国の領主源俊方が、平安時代末期に「堺の百姓」を組織して国使とともに黒田荘で濫行に及んだ時、地頭と呼ばれていたことを明らかにし、地頭人の属性を「紛争が頻発するところで、それを武力と検断で解決する在地領主」である点に求め、その武力が公認されていたことを強調している*48。俊方が刀禰の一族に出身したことの意味は次節で触れるが、その武家権門との関係は明らかでない。しかし、私は、彼らの武力の公認のいわば新制的な形態が地頭であった以上、彼らが武家権門に組織されるのは当然のなりゆきであったと思う。
 そして、堺の土地の静謐を武力をもって守ることが地頭の本来的職務の一つであったことも、以上の行論から明らかであろう。たとえば、一二一〇年(承元四)に起きた駿河国宇都山の強盗事件によって「旅人警固」を命令されたのは地頭御家人であったに違いないし(『吾妻鏡』同年六月一二・一三日条)、時代は若干下るが、一二五八年(正嘉二)、「夜討、強盗、山賊、海賊」の警固が淡路国守護を通じて地頭に下達されており、また一二九六年(永仁四)、悪党追捕のため「方々の大道の末を警固せしめ」ることが、豊後国守護から地頭に命令されていることなど(『鎌』八二八一、一九〇七三)その例は多い。特に山賊との関係で興味深いのは、近江国甲賀郡の領主山中氏が鈴鹿山を守護し、「往還の諸人の安穏」のために「路次近辺の滋木を伐り払い、甲乙の浪人等を招き寄せ、山内に居住せしめ、盗賊の難を鎮むべし」と命令されていることであろう*49。それを伝える一一九四年(建久五)の文書は偽文書とされてはいるが(『鎌』七一一)、先に触れた黒山のタブーの打破が、地頭自身によって行われたことを伝えているのである。
 しかし、以上のような警固役は基本的には裸の暴力によって実現されるものであり、それは大きな矛盾を引き起こすことになる。堺の人気のない山野河海は、本質的に裸の暴力が可能になる空間であり、それ故に逆に地頭自身が海賊・山賊になり、あるいは警固役や路次の管理を口実として新たな津料・関手を取ることが必然的に発生したのである。この矛盾は、より強大で公的な暴力の体系の構築によって先送りされるほかないが、地頭の暴力がその領主支配の不可欠の一環であり、人間のもつ動物的・暴力的側面の組織化であった以上、決して解決されることはなかった。
 よく知られているように、鎌倉時代、守護不入荘園において犯罪が発生した場合、犯人の引渡しと糾明・尋問は、その荘園の堺の「野中・山中」で行われた(「貞永式目」三二条、『鎌』四五五〇)。つまり、そのような場所は裁判・尋問にふさわしい中立的空間であるとともに、領主の検断行為にふさわしい場所だったのであって、それは博打が「野山中」で行われた時のみ、武士が現行犯逮捕する権利を有していたとされていることに対応している*50(『鎌』五四一三、『中世法制史料集』Ⅰ鎌倉幕府法、追加一〇〇)。荘園領主の法においては、犯罪者は、「追却」という堺を追い越す罪科のみを蒙ったとされているが*51、しかし、たとえば古く『今昔物語』(巻一七─四)には、備中国のある領主がその機嫌をそこねた従者を堺の「津の坂」に連行して斬らせようとしたように、「追却」は実際には堺における死に対応している場合も多かったのである。
 中世に、人間を「野中」に連行して殺害するという史料が多いのは、このことと関係しているのであり、要するに中世の山野河海の場は人間の虐待と死の空間でもあったのである。平安時代から鎌倉時代にかけて、しばしば領主による放牧の牛馬の「野取」が悪行として糾弾されているが(『平』三三九、四九七、『鎌』一〇八三九、一一九二一、一五九九八、一七六八七など参照)、彼らにとっては所詮、人間も山野領有権の発動対象として牛馬と同じものであったのである。
Ⅳ古老と堺相論の作法――諸村落の法
 さて、最後に以上のような王権から在地の地頭に至るまでの山野河海の領有と支配の対極にある世界から、つまり村落の場から、山野河海を眺めてみることにしよう。そこにあるのは、「堺」をめぐる諸村落の法の世界である。
1刀禰と古老
 多くの指摘があるように、平安時代前期に在地の側で山野河海の堺を管掌していた者は、刀禰であったが*52、この刀禰は、また国衙の行政ルートの下で郡司とともに「検田検畠」の図師として動員される存在であって(『平』二五四一)、直接に村落的な存在とすることはできない。これに対して、特に院政期以降、旧来の国衙の機能が低下してくるとともに、村落間相論において古老の活動が目立ってくる。勿論、刀禰の「刀」が「刀自」の「刀」と通じ、また「散位」(位のみを持つ退役の官人)をトネと読むところから(『令義解』官位令訓点)、刀禰は一般には老人で在地の事情に通暁している存在であったと思われ、実態的には古老と重なる存在であったであろう。しかし、古老が刀禰よりも直接に村法の世界に近い存在であることは疑いない。たとえば、戸田芳実は近江国葛川の邑老(=古老)が杣造・杣出などの山野用益の村落的規制を担う存在であったことを明らかにしている*53(『平』二七四八)。これに阿波国竹原野荘の湊において船がしばしば入海・沈没するのを、邑老が「神として若しくは怒りありて、この不祥来るか」(『平』三二六八)と託宣した例もあわせると、彼らは山野のみでなく、河海の用益をも規制しており、しかもその根拠は彼らの神の声を代弁する立場にあったと結論することができる。これは、先に見たように、荘園の立券の際においても、在地の古老人が地頭の行列に参加し、その場の神裁において地神の声を聞く立場にいたことに関係している。『倭名抄』(巻二、人倫部)によれば、古老の倭訓は「オキナヒト」であり、中世の「翁」は、たしかに神に近い神聖な存在であったのである*54。
 前節で伊賀国の地頭領主、源俊方の一族が刀禰から出身したことを述べたが、それは、平安前期における刀禰の有力なものの中から、地頭がその職掌を継受しつつ形成されたことを意味しているのではないだろうか。そしてその一方では、より村落的な古老が刀禰の中から純化してきたのであり、その一般的独自化を経て、堺の山野河海相論における「実検使を遣し下し、地頭に臨み、在地の古老人などに問い、事を決せらるべきか」(『平』一二七七、また『同』二二三三も参照)とか、「堺相論の法、古老人に御尋ねあるの条、傍例なり」(『鎌』二二四四三)などという中世を通ずる慣習*55が成立してきたのである。このことは、古老の権能が単に領主的な支配を媒介するものであったのではなく、領主的支配の対極における、より自生的な性格を有していたことを示している。だから、地頭・堺に臨む古老住人の集会は、荘園の立券などの領主との関係においてのみでなく、自身の問題としての村落間相論においても実施されていたはずなのである。
2野寄合と起請
 それは、平安時代の史料には現れないものの、鎌倉時代の史料には、明瞭に現れてくる。たとえば、一二六二年(弘長二)の秋、近江国の大石荘と龍門荘の相論は、両荘住民が和与起請文に連署し、「正文は神水を以て両荘民などおのおの呑み了」ということで決着したが、それは、山城国田原荘の住民の「口入」によって召集された堺の「寄合」の場でのことであった。『禪定寺文書』によれば、この勢多川の流下する近江・山城の国堺の山地では、村落と村落の間で大変に入り組んだ堺相論が展開しており、そこでは一一九六年(建久七)の田原荘と禪定寺の間の「郷人召合」を始めとして、しばしばこのような寄合が開催されている。実は、この大石荘と龍門荘の相論も、大石荘と大炊寮領山城国奥山田荘供御人の間で展開した鳴谷山などの堺・国堺相論に関係して発生したものなのだが、ここで興味深いのは、田原荘の住民が田原の御堂の棟上げの秋祭を終えた後に仲裁に出掛けると龍門荘に連絡し、少なくとも一〇日以上にわたって、両荘の説得工作を行って、この和与を取りまとめていることである。このような田原荘住民の行動は、時代はやや下るが、同じ『禪定寺文書』にみえる一三一七年(文保元)の近江国曽束荘と山城国禪定寺の相論史料に現れる「仲人」という表現にふさわしいものである。詳細は省略するが、もちろん、中世後期の村落間紛争解決方式としての「中人制」*56と同様、この和与は領主の動向と関係しつつ展開した。しかし、ここでも、実際に事態を展開させたのは、荘園と荘園、村と村の住民の利害関係であり、地域の中から中人を生みだす彼ら自身の行動であったのである(『禪定寺文書』五、二三、二四、四六、四八、四九、六二などを参照)。
 そして、このような堺の集会は、右の相論が、単に山野の堺相論でなく、大石荘と龍門荘の炭薪運搬路の相論、大石荘と奥山田供御人の「(山口)率分」(通行料)をめぐる相論を含んでいたように、堺の交通や交易をめぐっても行われた。たとえば、他地域の事例を上げると、一二三七年(嘉禎三)一一月、周防国石国荘と安芸御領関所の間での材木の「船出の浮口」(津料)の相論の決着が、関浜の堺で石国荘沙汰人、関所沙汰人、および仲介の山代荘関沙汰人などの関係者を集めて「証人して、堺て一決を遂ぐべきものなり」(『鎌』五一九五)とされたという。ここでも百姓が起請文を書いていることからして、近江国と同じ紛争解決方式が取られていたことは明らかである。そして、津料をめぐるこのような争いを捌く村落住人の集会が、少なくとも平安時代末期に遡ることは、伊勢国益田荘の西堺の川辺に立った星川市庭における津料をめぐる刃傷沙汰の証言を「市庭集会の有司刀禰」が行ったという事実によって知ることができるのである(『平』四七〇一)。
3懸札と立野
 中世の村落間相論が、しばしば「堺」での問注あるいは集会によって決着したことは、在地の側からいえば、「堺」が単に村落と村落の地理的境界であるのみでなく、村落と村落の間における法的な中立空間として自立化していたことを示している。この観点からいえば、今まで検討してきた新制的な国土領有高権は、そのような特殊な場所に対して「堺の静謐」を令ずる点に根拠を置いていたということもできよう。そこでは領主諸権力は中人制のさらに上に立つ存在として登場したのであるが、ここでさらに問題としたいのは、堺を決定する法理それ自体である。
 私は、このような形で堺が決定されるのは、この時代においては村落の堺自体が広範囲に流動的なもだったからだと思う。堺は、いまだに無所有あるいは未開の山野河海の領域に拡大する多様な生産行為と、そこに内在する生業ごとに異なる特徴をもったテリトリー的な領有の交差の中に存在した。そこでは「鹿付ノ山ヲバ猟師知リ、鳥付ノ原ハ鷹師知リ、魚付浦ヲバ網人知リ」(『源平盛衰記』三六)といわれたように、知ることと領ることが一体であったような先占主義的な関係が一般的であったのである。だからこそ、堺の実態は経験ある古老住人が証言すべきものであったのではないか。そして、先占主義的な関係の下に現れる共同体間の自然は、伊賀国玉滝杣の領域について「杣を以て所業となし、更に四至を堺せず、牓示を打たざるの所なり」(『平』二九一九)といわれたように生業とその技術的な必要にそくして慣習的に展開していたに相違ない。
 その実態はまず「懸札」の作法の中に見ることができる。たとえば、前に触れた大和国長瀬荘と伊賀国黒田荘の堺相論において、約束の「地頭検知の日」に黒田荘側が出会わなかったために、牓示を打つことができなかった長瀬荘側は、堺の札を懸け、それをこのような場合の「世間の常習」であると主張した(「龍穴寺所司陳状」正治元年九月日、『黒田荘史料集二』四三三)。このことは「懸札」の行為は、牓示打ちの一歩手前の堺領有方式だったことを示している。堺相論は、一般にこうした小ぜりあいから始まったのであって、だから、尾張国掘尾荘の場合などでは、隣荘の長岡荘の庄官・百姓が「境の懸札」と号して荒野葦原の十余ヶ所に懸けることが四回に及んだという。これに対して掘尾荘側は毎回札を取り捨て、同時に「毎度一所に定まらず、四箇度ながら(札懸の)所を替えるの条、自由の謀計なり」と抗議している(『鎌』二〇一九)。ここには山野河海の同一の場所に懸札を懸けること自体は、まだしも合法的な行為であったことが表現されており、それに反対する場合は、掘尾荘側のしたように、札を取り捨て、さらに正式の堺相論の手続きに入ることになる。もちろん、実際には、この経過的な懸札が放置されて領有が実質化してしまうことも多かったに違いないが、吉野山領紀伊国十津川郷住人が高野山領大滝村のなかに入り込んで牓示の札を懸け、吉野山領であることを住民に宣言したように、この懸札自体は境界設定の告知手続きであった(『鎌』二三六一、二四三九)。
 そして、右の黒田荘・長瀬荘の相論でもまず「標」が立てられたように(「藤原助重申状」正治元年八月八日、『黒田荘史料集二』四二七)、懸札のさらに前の段階の「標」や「草印」だけで(「摂津阿理野荘百姓申状」永仁四年八月、『中世政治社会思想 下』二九七頁所引)、あるいはその土地に立ったことがある、その土地を知っているということだけでも、先占主義的な領有の根拠たりえたのである。たとえば、近江国の木戸荘と葛川の間を流れる深山の谷川の川辺の「大椙」には牓示の「籠石」が打たれていたが、それは両荘の境界相論の実検に際し、最初に到着した木戸荘側が打ったものであるという。従来からそこまで「立来」ってきた木戸荘側は、「先規を存じて」、谷川の西山の峰まではやってきた葛川側の集団の到着を待ったが、葛川側が峰から下りて来ることができなかったので、「此河を以て境と定むべきの由」を(おそらく大声で)通告して、「大椙の木に籠石を打ち、四至を境し」たのである(『鎌』一八七〇六)。ここで、杉の木が山神の宿るような大木であり、「懸札」とは違ってそれに石を打ち込んで傷つけることによって堺が定められたのであろうことはいうまでもないが、問題は双方の立ち会いの下に堺を決定するという「先規」が存在し、逆に立会いの場まで到達できなければ権利の放棄とみなされても当然であるという、あたかも到達した地点までの土地を囲い込んでよいというロシアの民話を髣髴させるような慣習が存在したことであろう*57。
 この時代における山野の囲い込みは、このような「立来る」という事実そのものをめぐる慣習によって成立していたのであって、私は独占的な山野利用権を意味する「立野・立山」などの言葉の本来的な意味もここにあったのだろうと考える。
     おわりに
 本稿では主に法的・イデオロギー的なレヴェルにおける山野河海の現象形態、特に「堺」の問題を中心に論じたために、「はじめに」で触れた山野河海の開発の経済的・技術的過程に触れることが少なく、特にそれが村落社会にもたらした変動を論じることは全くできなかった。実はそこには人間によって大きく作りかえられたサトの自然に抱え込まれた二次的な山野河海の世界が登場しており*58、中世社会の歴史的特性は、未開の山野河海を開発しつつ、このような生業世界をさらに初期的な産業社会ともいえるよう方向に稠密化していったことにこそ求められるのである*59。それを通じて、日本の各地方における居住と生業の様式が作りだされたのであり、列島の自然と文化の現在はこの過程なしに考えることはできない。
 そして誤解のないように確認しておきたいのは、それを実現したのは、決して新制という法形式ではなかったことである。本稿は新制論を中心に組み立てられているが、私は、万一にも、ただの言葉に引かれて、新しいことはよいことだというような誤解が生じることを恐れるのであり、それが「堺の静謐」を管理・統制するものでしかなかったことを確認しておきたいのである。荘公確定と済例確定の法をもって「堺」と「沽価法・市庭」の場に実現される新制法は、ヨーロッパの王権の王令・禁令に対比されるべき、村落社会の法の対極に位置する国家法であると考えることができるが、その特徴は格式法の系譜を受け、律令に連なるものとして開明主義・開化主義の色彩が強いところにある。そして、その開化主義が「皇化主義」であることは問わないとしても、笠松宏至によれば、それは「時を量りて制を立つ」(「弘仁格式序」)、つまり「法は時代時代の現実に即応して定立さるべきもの」という便宜主義的な法観念に貫かれたものであった*60。
 さて、中世から近世にかけての長い歴史的経過の中から形成された、この列島の国土は、現在、あたかも「所の神」の住む「塚」を躊躇せずに崩し尽くした徳大寺実基のような考え方によって、大きく様がわりさせられようとしている。私は、歴史学徒の一人として、学会をあげての保存運動にもかかわらず昨年破壊された横浜市金沢区の上行寺東遺跡や*61、現在破壊の危機の中で保存運動が展開している静岡県磐田市の一の谷中世墳墓群*62のような中世の「所の神」の宿る聖地であった墳墓遺跡が、その中で大きな危機に瀕している時代に生きていることの意味を深刻に受けとめざるをえない。私たちが想起すべきことは、中世民衆の抵抗運動が、しばしば「地主神の怒り」という形式をとって噴出したという、戸田が明らかにした歴史的事実になるのであろうか*63。
 一の谷中世墳墓群を、この本が発行される一一月まで残すことができるかどうか。もし、そこまで残すことができれば、あるいは保存の道を開くことが可能になるかも知れないが、この一の谷中世墳墓群は、中世の遠江国府が存在した見付(現磐田市)の「堺」の丘に、塚状墳墓七〇基、集石墓二〇〇〇基、土壙墓一五〇〇基ほどがびっしりと分布する稀有な遺跡であり、しかも「四つ塚」という見付の聖地としての塚地名を今に残しているのである。私は、一の谷中世墳墓群の保存問題に関わりつつ本稿を執筆する中で、徳大寺実基による「塚」の破壊がもつ意味を発見した時、本当に驚いた。そして、歴史学・考古学・民俗学の各学会から保存を要望され、しかも当初は文化庁自身が国の史跡に指定しようとしたこの墳墓群が、上行寺東遺跡に引き続いてもしも破壊されるようなことになるとすれば、それは笠松がいうように、目先の新しさや利益を優先する新制の理念が、現在の日本人の国民性の中に伝統として生き続けていることを示すものでなくて何であろうか。
 一の谷中世墳墓群の丘から見ると、磐田原台地の緑と太平洋は、スプロール化した市街地の中にすでに殆ど呑みこまれようとしている。歴史の研究者の第一の役割が、過去から伝えられた文化的遺産を、研究によって豊かにしつつも、基本的にそのままの形で未来に伝えることにあるのはいうまでもない。そのような職業的義務をも果たすことのできない我々は、日本の文化と伝統の全てを動員し、地神の声を聞け、山野河海の声を聞けと叫ぶことから出発する以外、何ができようか。
*1山本武夫『気候の語る日本の歴史』そしえて、一九七六年。なお平安時代については、勝山清次「平安時代における鴨川の洪水と治水」(三重大学人文学部文化研究科紀要『人文論叢』四号、一九八七年)、また中世全般については戸田芳実・峰岸純夫「中世とはどういう時代か」(『世界陶磁全集3 日本中世』小学館、一九七七年)を参照。この戸田・峰岸の論文はお戸田については「、峰岸については「中世後期の二つの歴史像――飢饉と農業の発展」と解題して『中世災害・戦乱の社会史』(吉川弘文館、二〇〇一年)に所収。【追記】ただし、これらの研究が依拠した山本の著書にまとめられたような研究は、自然科学的な気候史研究の深化によって現在では過去のものとなっている。その事情については西谷地晴美『日本中世の気候変動と土地所有』(校倉書房、二〇一二年)を参照されたい。
*2戸田芳実「山野の貴族的領有と中世初期の村落」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店、一九六七年)。
*3戸田「摂関家領の杣山について」(『初期中世社会史の研究』)。【追記】戸田の仕事に付け加えるべきことは少ないが、戸田がおもに扱った『知信記』の天承二年巻紙背文書は、『平安遺文』(二二八一号文書)においては「明法博士中原明兼勘注」という文書名をあたえられている。しかし、この文書名がふさわしいのは、「河内漆薗」という行の左に存在する紙継目以降の後半部分のみであって、戸田の解読を生かせば「朽木庄・治幡庄相論文書注文(前後欠)」とでもすべき文書である。なお、東京大学史料編纂所架蔵写真帳による観察では、この文書第一紙の端は軸を巻いて存在しており、そこには「葛川・治幡 近都久太・遠都久太」という一行が残っている。文書の列挙が年代順で行われているのことからすると、これは康平七年以前の文書の写しの一部であると考えることができ、これらの地名の初見史料となる。戸田が朽木庄杣人の動きの背景に「院関係者」もいたのではないかとしているのも重要である。戸田は、この文書に、朽木庄側に立って近江守を経験した父子、藤原隆宗―宗兼(池禪尼父)が登場し、さらに宗兼の妹、隆子の岳父にあたる藤原顕季という大物が登場していることに注目したのであろうから、その推測はきわめて確度が高い。朽木杣はおそらく院領の杣であったのであろう。なお、高島郡郡司が国司の後見として名前をみせていることも興味深く、これは顕季などを通じて郡司層が院との関係をもっていたのではないかと考えられる。なお、この点ではほぼ同じ時期に「高嶋住人等質券田公験案五巻」が大津の日吉神人にわたって、神物の借用をめぐる訴訟となっていたことも注目されることである(『平』二三五〇)。この訴訟で他にも院関係者が多いことからすると、高嶋郡は院の関係がきわめて強く、この「高嶋住人等」の実態も、あるいは杣を兼業するような有力住人であったかもしれない。戸田は借券が「五巻」もあったことに注目し、その大規模さに注目している(「王朝都市と荘園体制」『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、一九九一年)。
*4網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店、一九八四年、二九頁。保立道久「中世民衆経済の展開」(『講座日本歴史、中世一』東京大学出版会、一九八四年)。
*5保立道久「中世前期の漁業と荘園制」(『歴史評論』三七六、一九八一年)。
*6五味文彦『院政期社会の研究』山川出版社、一九八四年、二八五ー三一〇頁。
*7石井良助『中世武家不動産訴訟法の研究』、弘文堂書房、一九三八年、三〇三頁。なお、この問題については起請文にしばしば現れる「梵天帝釈」と北野天神が同一神格とされていたこととの関係で問題を捉える長沼賢海「天満天神の信仰の変遷」や、寃罪をはらす神としての北野天神の神格について触れた伊地知鐵男「北野信仰と連歌」などの論文を含む民衆宗教史叢書第四巻『天神信仰』(雄山閣出版、一九八四年)を参照のこと。
*8喜田貞吉「北野神社鎮座の由来管見」(注六所引『天神信仰』所収)。
*9大林太良「山の生態学とシンボリズム」(『日本の古代一〇 山人の生業』中央公論社、一九八七年)。なお『古事類苑』神祇部、大嘗祭二、在京斎場の項を参照。
*10岡田精司「大王就任儀礼の原形とその展開」(『日本史研究』二四五)一八頁、上川通夫「中世の即位儀礼と仏教」(『日本史研究』三〇〇)
*11吉村武彦「仕奉と貢納」(『日本の社会史』第四巻負担と贈与)岩波書店、三一~三六頁。
*12河音能平、シンポジウム「天皇祭祀と即位儀礼について」(『日本史研究』三〇〇号)二三頁での発言を参照。なお、桜井好朗「天神信仰の表現構造」(注六所引天神信仰』所収)は、「雷神といえどもしたがわねばならない」「律令体制下の政治支配」との対比において御霊信仰や天神信仰を扱っている。
*13石井進「院政時代」(『講座日本史 2』東京大学出版会、一九七〇年)。石井のこの論文は中世王権の「超越的高権」についての先駆的な試論であり、そこではその物質的基礎としての院領荘園集積の問題が重視されているが、本稿ではこの側面についてはふれることができなかった。なお、私なりの国土高権論としては、網野善彦前掲注3著書の見解を検討した「網野善彦氏の「非農業民と天皇」論について」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房、初出一九八三年)を参照されたい。
*14「勝尾寺縁起、子3」(東京大学史料編纂所架蔵写真帳『勝尾寺文書一』)。戸田芳実「中世箕面の形成」(『箕面市史』第一巻、一九六四年)一二〇ー一二三頁参照。
*15黒田日出男『日本中世開発史の研究』校倉書房、一九八四年、二八二ー三一七頁
*16保立道久「『彦火々出見尊絵巻』と御厨的世界」(『古代国家の支配と構造』東京堂出版、一九八六年)。
*17千々和到「『誓約の場』の再発見」(『日本歴史』四二二号、一九八三年)。
*18高瀬重雄『古代山岳信仰の史的考察』角川書店、一九六九年、など。なお、富士信仰との関係では、既に古く九世紀に都良香「富士山記」(『本朝文粋』)が富士山頂に「白衣の美女」二人が舞い遊ぶとしているのが興味深い。
*19棚橋光男「中世国家の成立」(『講座日本歴史、中世1』東京大学出版会、一九八四年)。
*20水戸部正男『公家新制の研究』創文社、一九六一年、一〇五頁。
*21網野善彦「荘園公領制の形成と構造」(体系日本史叢書六『土地制度史Ⅰ』山川出版社、一九七三年)。
*22小山靖憲「初期中世村落の構造と役割」(前掲注12『講座日本史 2』)。
*23保立道久「酒と徳政─中世の禁欲主義」(『月刊百科』三〇〇号、一九八七年)。【追記】宇治網代の破却を象徴するものとして、現在も宇治川の中島にのこる十三重石塔の樹立が有名であるが、綾村宏が紹介した仁和寺所蔵の「伝聞抄」紙背文書(第一一紙)にも「殺生禁断」の手段として「入不等於網曳場」(「不等」とは「浮屠=塔」のこと)という行為がみえる(綾村「仁和寺所蔵「伝聞抄」および「大疏要勘抄」の紙背文書」『奈良文化財研究所年報』一九七九年)。これも石塔の川中への樹立であろうか。どこの地域かは不明であるが、あるいは文書中にでる長保寺は近江高島郡の長法寺であろうか。叡尊の行動は一種の範型として機能したのではないかと思われる。叡尊の殺生禁断令は後にふれる「市の平和令」との関係でも重要なので、特記しておきたい。
*24小山靖憲「荘園制的領域支配をめぐる権力と村落」(『日本史研究』一三九・一四〇合併号、一九七四年)。
*25『吾妻鏡』元仁元年一二月二日条。この史料については、山本隆志「中世検注の意義」(『地方史研究』一七〇号、一九八一年)を参照。なお氏はこの『吾妻鏡』の「利見」という語については特に述べていないが、私は「立券」の語の充字と想定した。土用中の検注が忌避された史料を、氏が提示している以上、同じような作業の行われた立券が犯土であることは自明であるし、また土用中の傍示打ち(=立券)を憚った具体的な事例もあるからである(『鎌』一四八一)。なお『曾我物語』(巻一)に「利券文書」という言葉が二箇所に登場するのは「立」が「利」と書かれることがあったことを示している。
*26飯倉晴武「壬生家文書の特異な一面」(『鎌倉遺文月報』二七、一九八四年)。堺相論と太政官については、近藤成一「中世王権の構造」(『歴史学研究』五七三号、一九八七年)も参照。なお本文中にあげた「各の本図帳」には、公領の「本図帳(=大田文)」が含まれていることはいうまでもなく、それは、公家側により大田文掌握も行われていたことを物語っている。
*27網野善彦は「十一世紀の半ば」以降、「後三条の国制改革の時の太政官の役割の変化」とも関係して「官使を下すという形で、天皇が国土に対する支配を貫徹させようとする」と発言している(阿部謹也・網野善彦・石井進・樺山紘一『中世の風景』上、中央公論社、一九八一年、二四四頁)。なお重要なのは、史料を点検してみると、この「使」の派遣が、平安時代においては東国を含む全国に及んでいることである。これは、佐藤進一が注目した鎌倉期における「西国堺相論は聖断」という著名な裁判管轄原則(『鎌倉幕府訴訟制度の研究』畝傍書房、一九四三年、一〇頁)に対比すると、平安時代の太政官が全国的な相論・立券処理を実施していたことを意味する。その過程における諸矛盾の展開の中から上記の原則が結果する経過については今後の検討課題である(【追記】本書第七章で検討したので参照されたい)。
*28石井良助『中世武家不動産訴訟法の研究』(前掲注6)二〇頁。なお、地頭という語の意味については、安田元久に代表される現地説(『地頭および地頭領主制の研究』山川出版社、一九六一年)が一般である。これに対して、上横手雅敬は、「地頭に臨んで……する」などの慣用句は「公務の代理人が公務を遂行したというのが基本線である」とし、そこに地頭の「律令制的・国衙領的性格」を見てとる(『日本中世政治史研究』塙書房、一九七〇年)。また、義江彰夫は、地頭という語は「主に領域確定をめぐって生じた紛争等のあるような場」を指すのであり、「現地」「土地」一般のような無規定な語ではないとしている(『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』、東京大学出版会、一九七八年、二七〇頁)。もとより、結論は相違するが、このような議論の方向性は、高権の働く「堺」の場=地頭という本稿の立論を支えるものと考える。
*29たとえば、『鎌』二四二八、八三六四、八四七〇、九一四八、一八七七五など。これらの立券作業にともなって作成された牓示記録というべき史料によって、立券の実態を復元することは、これからの課題である。
*30伊藤和彦「西を限る西岸」(『鎌倉遺文月報』一九号、一九八〇年)。
*31この事件の背景については保立道久「荘園制支配と都市・農村関係」(『歴史学研究』一九七八年度大会報告別冊)を参照。【追記】なお、この事件については戸田芳実「在地領主制の形成過程」(同『日本領主制成立史の研究』)があって、康治三年正月十一日の「筑前国観世音寺領大石山北封并把岐荘司等解案」(『東大寺文書』1/24/598)にもとづいて、薦野資綱が「四至内」と称して「大野」という山野に乱入したことに注目し、これは領主による四至内を敷地として領有する行為にあたると論じている。ただ、戸田は、これを論ずるにあたって『平安遺文』(二五二三号文書)を利用しているが、原本調査によると、『平安遺文』の翻刻には問題が多く、とくに戸田が「何況恣□之先祖薦野入道之時、以件大野竊雖令狩猟、不取□地利、又不仕在家人」と引用した部分は、「何況資綱之先』祖薦野入道之時、以件大野竊雖令狩猟、不取』□□地利、又不仕在家人」(』は改行符号)と訂正できる。これによって、資綱の先祖(戸田はこれを「肥前前司」の祖先と解釈した)という相当以前から、この山野で狩猟が行われたことが確認できる。また「□□地利」の部分は、「□地地利」と読めるようであり、「□地」は「野地・下地・敷地」などと推定できる。「□地」の「□」は行頭にあたるため欠字となっていて判読できないが、もし、「敷地」であったとすると、領主が四至内を「敷地」として領有していたという戸田の領主制的土地所有論を支える史料とすることができる(「下地」であったとしても、本書第三部の論文「土地範疇と地頭領主権」でみたように、「下地」の語は「敷地」と通ずるので、同じことである)。地頭論にとってはきわめて重大な史料なので追記した。
*32なお、行列論については千々和到「中世民衆世界の秩序と抵抗」(『講座日本歴史、中世2』東京大学出版会、一九八五年)を参照。氏は、そこで堺相論における行列の意味を論じている。また、本文のような狩猟儀礼の武家社会における意味については、千葉徳爾『狩猟伝承研究』(風間書房、一九六九年)、石井進『中世武士団』(小学館、一九七四年、六七頁)、入間田宣夫「守護・地頭と領主制」(『講座日本歴史、中世1』東京大学出版会、一九八四年)を参照。
*33「中世成立期の軍制」(『石井進著作集』第五巻、初出一九六九年)
*34【追記】保立「中世前期の新制と沽価法」(『歴史学研究』六八七号、一九九六年で論じた。
*35福島正樹「中世成立期の国家と勘会制」(『歴史学研究』一九八六年度大会報告別冊)。
*36【追記】保立「町の中世的展開と支配」(『日本都市史入門Ⅱ 町』東京大学出版会、一九九〇年)で論じた。
*37保立道久前掲「酒と徳政─中世の禁欲主義」
*38網野善彦「中世「芸能」の場とその特質」(『日本民俗文化大系七 演者と観客』小学館、一九八四年)。
*39保立道久、前掲注3論文。
*40『鎌』二〇二一八。網野善彦『無縁・公界・楽』(平凡社、一九七八年)一六八頁。
*41この史料については黒田日出男の教示をうけた。
*42保立道久「荘園制的身分配置と社会史研究の課題」(『歴史評論』三八〇号、一九八一年)二五頁。
*43五味文彦「平氏軍制の諸段階」(『史学雑誌』八八編八号、一九七七年)。
*44五味文彦「信西政権の構造」(『日本古代の政治と文化』吉川弘文館、一九八七年)。
*45保立道久、前掲注32論文。
*46保立道久、前掲注3論文。
*47寄船については、新城常三「中世の海難ー寄船考再論」(森克巳博士古稀記念会編『史学論集 対外関係と政治文化 第二』吉川弘文館、一九七四年)を参照。なお、「神之告」によって海辺の「寄木」を神社が領有した古い例としては杵築社のそれがある(『平』二五一〇)。
*48義江彰夫、前掲注26著書。
*49高橋昌明『湖の国の中世史』平凡社、一九八七年。
*50日本思想体系第二一巻『中世政治社会思想 上』(岩波書店、一九七二年)の六八頁頭注(笠松宏至執筆)を参照。
*51勝俣鎮夫「家を焼く」(『中世の罪と罰』東京大学出版会、一九八三年)。
*52木村茂光「刀禰の機能と消滅」(『日本史研究』一三九・一四〇合併号、一九七四年)をあげるにとどめる。
*53戸田芳実、前掲注2論文。
*54黒田日出男「「童」と「翁」」(『境界の中世 象徴の中世』東京大学出版会、一九八六年)。
*55これについては、石井良助、前掲注6著書、三一〇頁を参照。
*56勝俣鎮夫「戦国法」(『戦国法成立史論』東京大学出版会、一九七九年)参照。
*57【追記】これはヨーロッパにおける「占有取得ないし境界表示の方式としての周駆Umrittないし周回Umgang」の法慣習と酷似しており、重要な議論となる(Karl Kroeschell (2005) recht unde unrecht der sassen. Rechtsgeschichte Niedersachsens. Göttingen: Vandenhoeck und Ruprecht。ほぼ同様の記述がカール・クレッシェル「暴力か法か――中世中期のドイツにおける法理解と紛争解決」(『日本学士院紀要』(63)3)にある。またグリム兄弟の『ドイツ語辞書』のGrenzbegehungの項目も参照。これについては、デトレフ・タランチェフスキから教示をうけた。記して感謝したい。なお、赤坂憲雄から、この部分にふれて、柳田国男『日本の伝説』のいう「行逢裁面」型の境界画定伝承(『定本柳田国男集』二六巻)を参照すべきであるという指摘をうけた(赤坂『境界の発生』講談社学術文庫、原著発表一九八九年)。
*58これについては、「里山」「林」の世界を明らかにした田村憲美「畿内中世村落の領域と百姓」(『歴史学研究』五四七号、一九八五年)を参照。また、沿岸・「地付」の海の用益については、当面、保立道久、前掲注4論文参照。
*59【追記】このような見通しについては、最近クリフォード・ギアーツのいうInvolutionという用語に示唆をうけて説明することを試みてみた(「インヴォリューションと近世化」岩波講座日本歴史』■■、月報)。御教示をいただいた春田直紀、橋本道範の両氏に御礼を申し上げる。なおすでに春田直紀「中・近世山村像の再構築」(『民衆史研究』七〇号、二〇〇五年)もほぼ同じ立論を展開している。
*60笠松宏至『法と言葉の中世史』平凡社、一九八四年、一九九─二〇七頁。
*61この遺跡については、「神奈川六浦と上行寺東遺跡」(『歴史手帖』一四─三号特集、一九八六年)、および千々和到「仕草と作法」(日本の社会史第八巻『生活感覚と社会』岩波書店、一九八七年)を参照。
*62この遺跡については「シンポジウム中世墳墓を考える」(『歴史手帖』一四─一一号特集、一九八六年)を参照。なお私も、『遠江見付の中世と一の谷墳墓群』(一九八七年九月発行)という保存運動パンフレットに発表した「一の谷中世墳墓群と中世遺跡」で、本文中の論述にもかかわる問題を執筆した。【追記】なお『中世都市見付と一の谷中世墳墓群』名著出版一九九七年も参照されたい。
*63戸田芳実、前掲注2論文。
                                                               

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