民族と神話について――本居宣長・平田篤胤の「産霊神道」はなぜ大事か。

いま書いてる本の序論の書き出しです。

第一章本居・平田の産霊神学に立ち戻る
①民族と神話について
①「民族=ethnicity」の学術的議論はなぜ大事か
 日本の知識人は「民族」ということを自分自身の問題として考えることが少ない。そもそも現代日本には「民族」を考えること、それ自体を忌避する民族虚無主義ともいうべき状況があり、「民族」を自己の問題としては考えないという知識人のもっている風潮も、その一部であろう。
 しかし、歴史学をふくむ人文社会科学にとって「民族=ethnicity」あるいは「民族主義=ethnicism」を思考の基礎にすえることはどうしても必要なことである。それは「国民=nationality」「国民主義=nationalism」、そして「国家=state」「国家主義=statism」とは違うことである。国家主義は国家機構を自律的な価値とするもので、そこで前提とされるのは現実には国家を占有する人々の利害でしかない。また「国民」は国籍によって決められる法的に構成された概念であって、それはその外側にいる他国籍の人々、あるいは国民としての法的権利を主張する上で不利な立場にいる人々への実質上の排除をともなう。もちろん、「国民」「国家」の利害というものはそれ自体としては大切なものであるが、学術の思考の基礎はより開かれたものに置かれなければならない。
 民族は「国民」や「国家」とは違って、私たちの眼前にある社会関係そのものである。それは歴史的な沿革や文化の共有のなかにある様々な集団や共同体のネットワークとして、一つの歴史的・実在的な関係である(参照、阪東、一九八五)。もちろん、民族の内部には階級・階層の相違などの和解しがたい利害の相違が厳然として存在し、それらをふくめたさまざまな要因によって生まれる戦争や災害などの経験の歴史的相違が存在する。しかし、民族はある範囲内においては共通する公共的な利害をもっているのであって、そのネットワークの内部に公共圏をふくむ。しかもそれは現実の人間のネットワークである以上、「国民=nationality」とは違って、本来は固定的あるいは排他的なものではなく、世界の諸民族の内部に公共圏を繋げ、個々人の間の関係を国境を越えて広げていく関係である。それはそれが安易な自民族中心主義におちいらないようにするための復元力を自己自身の内部にもっている。
 現在は、さまざまな危機の時代だからこそ、自己の属する民族を足元から見なおすことが必要になっている時代であると思う。そのためにはさまざまなことが必要であろうが、私は日本の場合、遠回りのようであるが、神話の実態を見なおすことが一つの出発点になりうると考える。というのは、日本では神話文化は文化全体の脈絡の中で位置づけられておらず、また日本の学者・知識人の中で、正面から日本の神話を大事にすべきだという人はきわめて少ない。人びとも神社に参詣したときには、神社の自然にふれ、その祭神の神話にふれるとしても現実の体系としての神話への理解をふかめるルートはもっていません。このような神話への無関心は、いうまでもなく明治国家以降、アジア大平洋戦争にいたるまで、「国家神道」による神話理解が長期にわたって国家の真理とされたために、誰もがそれをそのままでは維持できないということになったためである。
 その中で人々のもついわば「神話力」というべきものが使い尽くされてしまったようにみえる。これはある種の合理主義からみれば当然のことで「進歩的」なことであるとみえるかもしれないが、しかし神話は、民族の内部と民族の相互間の歴史的経験、そして人々と環境的自然との関係に根ざしたもっとも古い層に属する文化である。それは民族の文化遺産として確実に継受すべきものであることは疑いない。しかも、それのみでなく神話は、しばしば、善かれ悪しかれ、民族の過去を代表する物語として呼び出されきた。それ故に、それがどのようなものであったかを、現在の人文社会諸科学の到達点にそって論議し、少しずつでも共通の理解を作っていくことは「民族」を考える上できわめて重要なのである。
②本居宣長・平田篤胤の「産霊神道」について
 こう考えた場合、歴史学の立場からまず問うべきは本居宣長(1730~1801)に始まり、その後をうけて平田篤胤(1776~1843)が拡充し、さらに民俗学の折口信夫まで引き継がれた神道学説の位置である。この神道は徳川時代の尊皇主義とそれに対応する天照大神への国家的尊崇を前提に生まれたという、当時としては自然な事情もあって、その変遷の中から明治国家の「国家神道」を作りだしていった部分があったことは事実である。この神道が「復古神道」と呼ばれるのも復古的革新といわれる明治維新の性格に関係している。しかし、彼らがその神学の立場から展開した神話研究の中で、『古事記』『日本書紀』に記録された神話は始めて学術的な研究の対象となった。これによって伝統文化としての神話が国民の精神世界に解放されたことの意味は大きく、そしてそれは現在まで西田長男や西宮一民などの神道史学の諸業績につながっている。
 何よりも宮地正人がいうように、この神道が幕末維新期に日本の歴史を前進させ、植民地化の危機を防ぐ上で大きな役割をもった(明治維新変革史)。もとより島崎藤村の『夜明け前』が示すように、それはどこかで初志を歪められたところがあるようにみえるが、しかし、神道史の観点からすると、この神道は豊かな内容をもっており、その中から、幕末における産霊神道の衝撃のもとに、出雲大社教などの伝統神社を基礎とする神道、天理教や大本教などの創唱神道、さまざまな山岳信仰諸派などの教派神道を含む広汎な裾野が形成された。それら全体が新たな民族宗教というべき性格をもったことは疑いない。そしてその根元には徳川時代以来続いてきた、町々村々のさまざまな神社とその文化や芸能の存在があったのである。
 この意味で、本居以来の神学的な神話研究の方法や諸成果を歴史神話学が学び共有していくことはきわめて重要であり、その意味で現在の神話研究は本居宣長と平田篤胤の神道神学と神学的な神話研究の成果と限界の学術的な点検から出発しなければならないだろう。そう考えた場合、従来、「復古神道」と「国家神道」がともすれば同一視されがちであったことを考え直すべき時期がきているのではないか。そして、それは、そもそもこれまで彼らの神道が「復古神道」と呼ばれていたこと自体が彼らの神道の教義を正確に捉えたものではなかったのではないかという疑問に結びついていく。
 つまり、この神道の根本的な主張は①倭国神話に描かれた至上神は高皇産霊(タカミムスヒ)神・神皇産霊(カムミムスヒ)神という二神であり、②この二神は記述された神話で至上神として描かれただけでなく、深く民族の土壌に根付いた至上神であるという点にあった*1。この二点はしばしば混同されるものの明瞭に異なる問題であるが、ここでの問題は、本居の主張の基礎となったのは、この二神の神名の後半部のムスヒの語源についての解釈であったことである。つまり本居の『古事記伝』(巻三、一二丁)は、この二神の神名の語尾、産霊=ムスヒを「産巣(ムス)は生(ムス)なり」、「凡て物の霊異(クシビ)なるを比と云う」と説明している。ムスは生成、ヒは霊威を意味するから、ムスヒとは「生成の霊異」であるというのである。こうして本居はタカミムスヒとカミムスヒは「産霊=ムスヒ」の神であって、そのような神として列島の自然、そして民族の歴史自体を「生成させる霊異」であったと論じたのである。ここにはムスヒ神が神話の至上神であり、同時に民族神としての深い性格をもっていることの両方が含意されている。そしてこのムスヒの語源論については後にふれるように、四〇年ほど前、中村啓信が異論をとなえたほかは、神話学・歴史学における圧倒的な多数説となっている。もちろん、これはすべて宣長の独創ではなかった。徳川時代の神道を代表する垂加神道の創始者、山崎闇斎は「ムスビと云ふは、総別、物を生ずる所の神を云。それで皆産霊と云。タカミムスヒは物を生ずる神」と同じようなことを述べているのである(『神代巻講義』)。
 さて、この「ムスヒ」の語義解釈は、現在にいたるまで通説として生き続けている。通常は注目されないが、「産は正字で、ムスヒは出産の霊威である」というムスヒの語義についての第二説を述べていることなど、本居の議論の含蓄は深く、それが通説となるにふさわしいものであったことも事実である。後に述べるように、私はこの神名解釈を(第二説を含めて)批判する中村啓信の理解に賛成であるが、宗教としての神道の歴史において、これによって本居がタカミムスヒ・カミムスヒの二神を民族の至上神であるとしたことの意味はきわめて大きいものがあった。つまり、別の機会に詳しく述べたいと思うが、日本の神道神学は一二世紀に始まった伊勢神道から、闇斎の垂加神道まで倭国神話の神学的な意味での至高神は究極のところでは天御中主であるという考え方で一貫していた。ムスヒについての解釈を突きつめていた闇斎も、その点では同じだったのである。それに対して、宣長が初めて神話の至高神は高皇産霊・神皇産霊の産霊二神、ムスヒ二神であるといったことは画期的な成果であった。そして、だいたい六世紀から八世紀の大和国家の時代をとれば、倭国神話の至上神はタカミムスヒ・カミムスヒの二神であったという本居の見解自体は圧倒的に正しい。本居の神学を「復古」というのは問題があり、むしろ新しく、かつ学術的に妥当性の高いものだったのである。そこで、私は、その本質的特徴をとって、本居宣長の創始した神学を「産霊神学」、宗教としての神道を「産霊神道」と呼ぶのが適当だと思う。ムスヒの神学、ムスヒの神道である。
 そもそも本居の学問は本居の文学者としてのセンスと上代語の文法と音韻の研究をふまえたものであり、日本の人文諸科学の基礎となったものであっただけに、尊重され続けてきた。それに対して、それを受け継いだ平田篤胤の学問は一般に狂信的なものにすぎないとされることが多い。しかし、まず確認しておく必要があるのは、平田が「産霊の御徳、申すも更なる御事じゃに依て、有が中にも仰ぎ奉るべく」「神国に生まれて神の御末とある、この御国の人のよく弁へて齋き奉らぬと申すはあまりと云へば不正なこと」(『古道大意』⑧三四頁)としていることで、平田神学の基本はあくまでも本居のいうムスヒ神に対する民族的信仰にあったことである。もちろん、平田の代表作『古史伝』は本居の『古事記伝』に対してさまざまな批判を展開している。しかし、たとえば平田は「産は正字で、ムスヒは出産の霊威である」とした本居の第二説を受け継いで、その独自な神と性(セツクス)についての議論を深めるなど、それは『古事記伝』の熟読にもとづいており、その批判は内在的で鋭いもので納得できることも多い。とくに本居は儒教・道教・仏教などの東アジア思想と倭国神話の関係を「漢心」排除という主張にもとづいて無視したが、それに対して、平田は漢籍のみでなく仏典に対しても広い視野をもって言及しており、この点では、現在でも直接に参考となる論点を提出していることは貴重である。
 宮地正人がいうように、平田は幕末の民族的危機の中でロシアの動きを初めとする国際情勢に機敏に反応しつつ、さらに蘭学やキリスト教などにも十分な素養をもつ総合的な知識人であった(宮地『幕末維新変革史』)。私は、とくに晩年の平田が非常に強い老荘思想への傾斜をもち、絶筆となった『赤県太古伝』ではほとんど『老子』各章を哲学的な神話として捉え直して、東アジア神話史というべきものの構想を記していることに注目したい(坂出祥伸「未完に終わった唐土太古伝復元の試み」『江戸期の道教崇拝者たち』二〇一五、汲古書院)。もちろん、それは中国の古代の神々も実は日本の神々が中国にわたったものだという本居の指摘を発展させた奇想天外な主張をふくんでいる。しかし、ここで実際に行われていることが、『老子』の思想を基軸にした東アジア神話史の記述であることは明らかである。徳川時代の心ある思想家はしばしば『老子』を深く読み抜いたが、ここにはそれがよい意味でのアジア主義に推転しつつある様子を知ることができるように思う。

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