紀国造と出雲信仰圏との深い関わり――イサナキ・イサナミの神話圏


 紀伊・出雲の間に深い関係があるというのは本居以来の一致した見解である。『古事記伝』の該当部分を下記に引用する。

 出雲と木国((紀伊))と同じく通へること多し。まづ(『古事記』に)伊邪那美命をば(出雲と)伯耆の堺なる比婆山に葬奉るとあると、紀伊国熊野の有馬村に葬奉ると同事。又熊野てふ地名も二国にあり。又意宇郡速玉神社、牟婁郡熊野速玉神社、又意宇郡韓国伊達神社、名草郡伊達神社、大原郡加多神社、名草郡加太神社、これらみな同名なり。此皆右の三神の、出雲より遷り渡り坐しし時の由縁なるべし」(『古事記伝』一〇巻二九葉)

 本居は出雲と紀伊には共通することが多いとし、どちらの国にもイサナミを葬ったという神話伝承があるという。『古事記』ではイサナミは出雲に葬られ、『書紀』(五段異書五)では熊野有馬村に葬られたというが、いずれにせよ出雲・紀伊がイサナミの葬地であるのは共通する。出雲と紀伊がイサナ神の神話圏にあるのではないかということであるが、これについては最近の坂江渉「倭王権形成期の海人の地域間交流――信仰と神話を素材にして」がいうように、イサナ神神話は伊射奈伎神社、淡路(阿波遅)神社などの神社、イサナキの子神伝説、椅立伝説、池築造伝説などを南から北に辿っていくと、その分布は紀伊・阿波・淡路・摂津・播磨から出雲に至る。
 坂江の仕事は、岡田精司の古典的論文「国生神話について」の見通しにもとづいて、淡路の海人に代表されるような神話を伝播する海民に広く注目したものである。ただ、坂江は、岡田が無視あるいは見逃していたイサナキの子神、都久豆美命が嶋根郡千酌駅家にいる、あるいはイサナキの時に神門郡古志郷に川をせき止めて池を作ったという『出雲国風土記』の記事、さらに熊野大神がイザナキの真子(まなご)(愛子)にあたるという史料をあげて、イサナ神の神話圏が出雲に到達していることを明言した。そして、この神話圏は出雲から丹後・若狭などにまで広がっているという。
 またそれと同時に神話圏をつなぐ海民のネットワークが紀淡海峡、瀬戸内海から日本海側にまで広がっているとし、明石を本拠とする倭直氏がそこで大きな役割を果たしたともした。その際、倭国造の倭直氏は出雲国造と良好な関係をもっていたであろうという。倭直氏の祖神はイワレヒコ(神武)の東征において海亀に乗って登場して海路を案内したという椎津根彦であるが、彼らは近隣の淡路の海人に対する統括を梃子にして瀬戸内海から出雲・丹後・若狭に及ぶ海人のネットワークを組織して、その中でイサナ神神話を養っていったというのである。これは倭直氏やその部民・若倭部の分布などの具体的な史料による論証であるだけに否定しがたい。また倭直氏が倭国造として大和北西で山越えではあるが、河内古代湖の水運につらなる添下郡に伊射奈岐神社(式内社、大)を拠点として大和南部磯城の伊射奈岐神社や倭直氏の奉ずる大国魂神社に勢力を伸ばしていたとしたのもの重要である。倭直氏は大和でのイサナ神神話の担い手であったことになる。
 紀伊はこのような神話圏の南端にあたる。坂江も引用する薗田香融の論文「古代海上交通と紀伊の水軍」によれば、紀伊国造はやはり淡路海人を統御して韓半島諸国との外交を含む広域的な活動をしている。また図■(イ)(ロ)(ハ)は黛弘道の作成した紀伊・播磨・吉備・出雲の間での類似した地名の一覧表であるが、黛は紀伊と出雲の関係は間に吉備国造が入っていたのではないかという。つまり、(イ)は紀伊と出雲に共通する地名・神社名であり、(ロ)は紀伊と吉備に共通する地名であり、(ハ)は紀伊と播磨に共通する地名であるが、実はこれは播磨の加古川以西に属するもので、加古川以西は本来は吉備に所属していた可能性が高い。しかも紀伊在田郡(旧、安諦郡)に「吉備郷」が存在し、平城宮出土木簡に(安諦郡吉備郷)「吉備里海部赤麻呂」(『平城宮発掘調査出土木簡概報七』五頁)とあって吉備の海人がいたことも分かる。出雲と吉備の関係が深かったことからすると、紀伊と出雲の間の関係が吉備の国造とその配下の海人によって媒介されていたのではないかという(図黛『海人の伝統』二二九頁~二三一頁)。これは坂江が摘出したイサナ神神話圏の中に吉備も入っていたことを想定させる。
 出雲国造・吉備国造・倭国造・紀国造がイサナ神神話圏に属していることの意味は大きい。イサナミが出雲・紀伊に葬られたという『古事記』と『書紀』の記事は、イサナ神話圏の北と南を象徴するものといってよい。紀伊と出雲は、イサナ神神話圏の南北への広がりの両端にあたるのである。

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