折口信夫の焦慮を受け継ぐ――大嘗祭の日に

 折口は、柳田国男を継ぐ位置にある著名な民俗学者であるが、その前に、深い神道信仰をもった宗教者であり、そのような立場から近代日本におけるもっとも有力な宗教学者、神道史家として活動した人物である。しかし、戦争に深く荷担したことは否定できない。私はその事実を折口が正面から率直に語ったとは思えないが、彼は高村光太郎より強い人間で誇り高い人間であったのだろう。そしてともかく反省の上に立って政治と神道は関係を切らねばならないとして鬼気迫る努力をした。それに応えたいと思う。

 彼にとって問題の出発点となったのは、昭和天皇の「人間宣言」であった。それは彼にとって大きなショックであった。次に翌年一九四七年一月に出された折口の代表的な論説「天子非即神論」の中心部分を引用する(『折口信夫全集』二〇巻)。

「『われ 神にあらず』と仰せられた去年の初春の詔旨はまことに晴天より降った霹靂の如く、人々の耳を貫いた。その億兆の心おどろきは、深い御心にもお察しの及ばぬところであったろうかと思う。その後一年たった。夢より更にとりとめられぬ一年であった。当時あれほど驚いた『天子即神論』の詔旨の深い思いを、安らかに諾うことのできる日がきたのである。今私は、心静かに青年達の心に向かって『われ 神にあらず』の詔旨の、正しくして誤られざる古代的な意義を語ることができる心持ちに到達した。『天子即神論』が、太古からの信仰であったように力説せられ出したのは、維新前後の国学者の主張であった。勿論その国学者たちを指導した先輩たちの研究の中にも、そうした考え方を誘うような傾向がないではなかった。だが、江戸時代の国学者から大正・昭和の同じ学統まで、素直に暢やかに成長してきたものではなかった。明治維新の後先に、まるで一つの結び目が出来たように孤立的に大いに飛躍した学説の部分であった」

 この論文の冒頭は、「現実しくも 宣りたまうかな。大御言 かむながら 神といまさず 今は」という折口の和歌で始まっている。しかし、折口は神話と神道の学術的な研究にとってはいわば本居以来の正統を受ける位置にある学者であり、茫然自失の時を経て、新たな神道のあり方を打ち出す責任を担った。そして、この時に折口が主張したのがタカミムスヒ神こそが神道信仰の中心であるべきだという主張だったのである。これは本居宣長と平田篤胤の正統を再確認するものであった。
 つまり、この「天子非即神論」を発表した年の九月に■■■で行った講演「産霊の信仰」はタカミムスヒについて論じたものであった。この講演で、折口は、国家神道に対して従来からもっていた違和感を明らかにし、その下で抑圧され、軽視されていた「民間神道」を中心として宗教としての神道を再興しようと呼びかけた。その中心となるのが 「ムスビ」の神であるというのである。これは「高皇産霊」を万物を産育する至高の霊威であるとした本居宣長の見解に依拠したものだが、折口は、それに付け加えてで、タカミムスビの「ムスビ」とは「結び」を意味し、これは「霊魂を肉体に結びつける」「人間或いは神に霊魂をつけ、其の能力を発揮させる霊的な存在であるとした。この霊魂をたとえば「幣」や「神の着物」「草木」などの様々な物につけて広く分与していく技術が神の技術なのであるという。近世にはやりだした「縁結びの神」も、この流れに属する神として捉えられていることはいうまでもない。
 この「結び」神を強調するのは、年来の折口の主張であったが、この講演で、折口は講演を聴く若い神道者たちに「あなた方は、神道の為に努力して いただくのであるから、こうした信仰を信じなければ意味がない。これは神職として精神的にもっていなければならないことで、決して迷信ではないのだ」と高唱している。そして、重要なのは、この「結び」の神は「宮廷神道に若干の民間神道の加わった」神道とは、「少し特殊なところがある」「天照大神の系統とは系統が違う」信仰であるとしたことである。
 折口は、同じ年の一二月に國學院大學で「神道」というテーマの下に講演し、この「結び」の神を中心とした「民間神道」の線にそって神道を真の宗教神道としていくことを強調したのである(『折口信夫全集』二〇巻)。それは固定してしまった宮廷神道とも違い、実際上は長く仏教に付属するなかで維持されてきた神社神道とも違うもので、とくにこの新しい宗教神道は、神社神道を倫理教・道徳教のようにしてしまった「非常な煩い」であった「(儒教的な)道徳意識」から開放されなければならないと述べている。そして、これまでの国家神道は「(神道には)民俗的なものがある。そうしてこれが、きわめて力強く範囲も広いのを注意しないでいた」とし、「簡単にいってしまえば、神道は、日本古代の民俗である」「民俗学の対象になっているフォクロアがそれと同じ意味になります」と宣言していることも注目すべきであろう。これはいわば民俗学をベースとした宗教改革の宣言とでもよぶべきものである。

折口信夫の「元の神」ー天変地妖の神
 これらの折口の文章を読んでいると、第二次大戦後、日本において宗教神道の再生が可能であったとしたら、それはたしかに折口の示したような「民間神道」をベースとする方向であったのではないかと考えさせられる。折口は、そのために、この国の神話の至高神がタカミムスヒであることを明らかにし、さらにアマテラスを中心に説かれてきた宮廷神道とは自ずから異なる多様な神道の存在を発掘しなおすことを課題としたのであろう。たしかに、私も神道を日本の文化のなかに過不足なく位置づけるためには、それが必要であり、また何よりもそれが日本の民俗・フォクロアに親しむための基礎となるのであろうと思う。
 とはいえ、私は折口のタカミムスヒを「結び」の神であるとする理解にはそのまま従うことはできない。そもそも折口の独特の直感には深い敬意を表するとしても、その仕事自体には思い込みや誤りも多く、歴史学者としてはとても従えないことが多いのである。しかし、ただ、折口信夫が最晩年に鬼気迫るようにして展開したタカミムスヒ論にはやはり天才的な示唆がふくまれている。つまり、折口は上記の一連の講演や論文の執筆を行った二年後、その死の四年ほど前(一九四九年四月)に発表した論文「道徳の発生」(第四節、種族倫理から民俗道徳へ)⑮で、タカミムスヒについて「産霊=結び」説の枠に納まらない重要なことを述べていた。これも念のために引用すると下記のようである。

「この神(高皇産霊などのことーー筆者註)には、生産の根本条件たる霊魂付与――むすびと言う古語に相当する――の力を考えているのであるが、果たして初めから、その所謂産霊の神としての意義を考えていたかどうかが問題だと思う。産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていたばかりであった。それとは別な元の神として、わが国の古代には考えていたのではないか。これが日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、素朴な神観のもっとも近似している点である」

 つまり、高皇産霊(タカミムスヒ)の神などは「産霊の神=結びの神」ではあるが、その本源的性格は「元(はじめ)の神=既存者」であるところにあるというのである。この「既存者」というのはわかりにくい言葉だが、「至上神である所の元の神」とも言い換えられており、「至上神は、比較研究の立場からする時、神のない有様、神以外あるいは神以前の有様とみてもさし支えない」とある。そしてより具体的には「既存者は部落全体に責任を負わせ、それは天変地妖を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う。これは神以前の既存者のなすところである」とあって、ようするに「既存者=元(はじめ)の神=至上神」とはいわゆる自然神のことをいっているのである。それは畏怖すべき自然の暴威、がいわば「神以前」の素朴な観念において捉えられたものだというのである。折口はこの「元(はじめ)の神=至上神」の例として「支那の天帝信仰」と「原始キリスト教的なえほば」を挙げていることも興味深い点で、よく知られているように中国の「天帝」は天災をくだす畏るべき神であり、ユダヤのエホバも畏るべき怒りの神(具体的には雷の神、噴火の神など)であった。「元(はじめ)の神=至上神」とはようするにこういう「天変地妖」の自然神だというのである。折口が、「此(既存者=元(はじめ)の神ー筆者註)は、日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の――素朴な――神観の最近似している点である」としていることも、この神の原像が「素朴」で原始的なものだということを示している。
 しかも、折口は「わが国の神界についての伝承は、其(タカミムスヒなどの元の神のこと――筆者注)から派生した神、其よりも遅れた神を最初に近い時期に遡上させ、神々の教えを整理したために、この神の性格も単純に断片化したものと思われる。だから、創造神でないまでも、至上神であるところの元の神の性質が、完全に伝わっていないのである」という。つまり折口は、『古事記』『日本書紀』を編纂する段階で、神界の教えを整理したということがあり、その時、「元(はじめ)の神」よりも「派生した神=遅れた神」の地位を遡上させたという。ここで折口がいう「派生した神=遅れた神」というのは、ようするにアマテラスのことである。アマテラスを中心に神界の教えを整理したために、「元の神=至上神」の性質についての伝承が喪失したというのである。
 つまり最晩年の折口の構想では、倭国神話の至上神はタカミムスヒなどの神であり、それは畏怖すべき天変地妖を降す自然神であり、アマテラスなどは派生した神であるというのである。残念ながら、折口は、この「天変地妖を降す自然神」の具体的なイメージについて十分に議論を展開する余裕のないまま死去してしまった。そして、この論点は後に引き継がれることなく、ほぼ忘れ去られていったのである。しかし、私は、この折口の議論は、タカミムスヒを論ずる際の「導きの糸」とするだけの意味をもっていると考えている。

 それはいうまでもなく、地震火山列島の現在を考えるために、思想信条を越えて必要なことだと思う。これで人が死んでおり、また政治が人を殺しているのである。

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