オオナムチ(大国主)神話と地震の神社

 以下は以前,兵庫ラジオカレッジで話したものです。二〇一六年一月。Pcの中にあったので上げておきます。


 私は定年になりましたのが、二〇一二年三月でした。つまり、東日本大震災の翌年、震災からちょうど一年後に東京大学を退職したことになります。多忙な時でしたが、その退職直前に岩波新書の『歴史のなかの大地動乱』という本をだすことができました。この本を無理してかきましたのは、いうまでもなく東日本大震災がたいへんにショックだったからです。それまで少しは火山や地震の記録や史料をみていたのですが、これは本気で研究をしなければならないと考えました。そしてそのなかで自分の歴史学の位置や責任を一から考え直すということになりました。
 この本はなにしろ短い間に書いたものということもあって、間違いもあり、不十分なものですが、退職後の五年間、もっぱら地震・火山の研究をしてきました。今日は、そういうなかで気づいた一つの問題をお話したいと思います。それは、西宮市にあります越木岩神社についてです。この神社は、神社の方もいっておられますように、本来は、大国主命を祭るたいへんに由緒ある神社で、『延喜式』という一〇世紀初めの国家の正式の記録にでる大国主西神社という神社であろうということです。
 これは兵庫県の歴史に深く関係することですので、兵庫県の方々に、この話ができるのはありがたいことですが、この越木岩神社がなぜ、地震の話に関係するかといいますと、この神社の祭る大国主命という神様は、今いいました『歴史のなかの大地動乱』という本でくわしく論じましたように、日本の地震の神様だったからです。
 このオオクニヌシという神が日本の国を作った神、国作りの神であったことはいうまでもありません。ただ、この神の名前は若い頃はオホナムチといいましたので、しばらく、そう呼びたいと思いますが、このオオナムチのオオというのは大きいという意味です。そしてオオナムチのナというのは「つち」という意味の古い言葉です。細かい土を「スナ」といいますし、赤土のことを「ヘナ」といいます。ナというのは「つち」という意味なのです。またオオナムチのムチというのは尊いという意味になります。神様の名前のうちで最後にムチがついている神様は尊い神様です。
 ようするにオホナムチという大きな土の神、大地の尊い神様という意味で、『万葉集』には、この神が山を作ったというような和歌が残っています。私は、むかしの人がこの神が山を作ったというのは、この神が地震を起こすような大きな力をもっていたと考えていたのではないかと思うのです。
 ですけれども、それだけではオオナムチが地震の神であったということをはっきり説明することはできません。御納得いただけないだろうと思います。どう説明したらいいか迷うのですが、『播磨国風土記』などによるとオオナムチはいつも琴をもって出歩いていました。それから『出雲国風土記』でもある山の山頂にオオナムチのもっていた琴が石になって存在しているとあります。琴弾岩だとかよく言います。このオオナムチという神の形をした石が能登の国ではまつられていて、この神は石に縁が深いのですが、石の形をしたことがあったというのですね。
 問題はこの琴をオオナムチがどこで手に入れたかということですが、みなさんご存じのように『古事記』によりますと、オオナムチは兄たちに苛められて地下の国、「根の国」といいますが、そこに逃げ込んで、スサノヲノミコトの娘のすせり姫と恋いをするのですね。そして二人で密かに「根の国」を脱出しようとします。その逃げ出すときに、姫の父親のスサノヲが寝ているのを見計らって、スサノヲの宝物の琴をぬすみだします。オオナムチはすせり姫をおんぶして、さらに、肩に琴をかけて駆けだしたといいます。ところが、その琴が庭の木の枝にさわって大きな音がでてスサノヲが起きてしまい、スサノヲはオオナムチをおいかけるという物語です。
 これはジャックと豆の木というイギリスの童話と同じですね。ただジャックが行ったのは地下の国ではなくて空の上、雲の上にある巨人の国であったところが違いますが、巨人のもっとも大事な宝物がハープ、つまり琴だった。そしてジャックが琴を盗み出したときに自然に琴がなりだして巨人が起きてしまいジャックを追っかけたたという、細かなとこぉまで同じです。
 こういう日本とイギリスというまったく違う場所で同じような物語があるのはなぜかというのは神話や物語を研究する学問にとっては最大の問題であるわけですが、日本の神話のスサノヲとオホナムチの話が貴重なのは、この琴がどういう宝物なのかということがわかることです。つまり、ジャックと豆の木の話ではハープがなぜそんなに大事な宝物かはわからないのですが、スサノヲの琴は、『古事記』によりますと、木に触れたときに「地、とよみぬ」とあります。「とよむ」というのは「どよむ」と同じで大きな音がひびくということです。
 つまり琴がなると同時に大地が鳴り動いた。ようするに宝物の琴は地震を起こす道具だということです。『宇津保物語』という物語をご存じでしょうか。『源氏物語』より少し前、『古事記』が書かれた時より300年くらいあとになりますが、比叡山のあたりの山で母と息子が悪い武士に襲われそうになった。そこで宝物の琴をならすと地震がおきて武士を山崩れの中に閉じ込めてやっつけたという話が書いてあります。どうも、琴というのは大地の中の霊のようなもの、大地の霊、地霊ですね。この地霊を呼び出す力をもっているものだったようです。そのころの女の巫子はやはり琴をもっているのです。

 さて話が少しワキにそれましたが、実はスサノヲという神様自身がは地震を起こす神でした。ご存じのようにスサノヲは海の神ですが、父はイザナキ、母はイザナミです。ところが、イザナミが御産のときに死んでしまって、母なし子になってしまいます。そのためスサノヲは父親のイザナキが悪いんだということですねてしまいます。そして母を恋いしたって「哭(な)きいさちる」、つまり泣き叫んで、姉のアマテラスのいる天に昇るといいいだします。アマテラスはいわば母代わりという訳です。スサノヲは海の神だったわけですが、海を守るという役割を抛棄して天に駆け上ります。『古事記』によると、その時、スサノヲは「山川ことごとく動(とよ)み、国土みな震(ゆ)りぬ」という事態を引き起こしました。「山川ことごとく動(とよ)み」、つまり、山川の全体が鳴り動き、そして「国土みな震(ゆ)りぬ」、つまり国土全体がドーンとゆれたというわけです。
 こういう力をもったスサノヲが地震神だというのは明らかです。詳しくは私の本をみてほしいのですが、スサノヲが海の神であると同時に地震の神だというのは、ギリシャ神話のポセイドンと同じです。そういうことですから、スサノヲの宝物で、オホナムチが盗み出した琴というのは、ようするにスサノヲが地震を起こす力を意味しているのです。
 オホナムチがすせり姫と一緒に逃げ出したのを知ったスサノヲは、二人をおっかけますが、オホナムチは地下の国から地上に脱出するのに成功します。そして「根の国」「根の堅州の国」と、この世の間にある坂を一散に駆け下りました。追っかけてきて、やっとその坂の上についたスサノヲは坂の下をかけているオホナムチとスセリ姫をみつけます。そして、オホナムチに対して、「仕方がない。おまえはスセリ姫を妻として、その宝物を使って、地上の国の王となれ。そしてオオクニヌシと名乗れ。こいつめ」と叫んだといいます。いま「こいつめ」といいましたのは『古事記』の原文では「このヤッコや」とありますから、「この野郎」というようなことです。ムスメを取られて聟を「この野郎」とののしっているのですが、ここにはもうあきらめた、娘をよろしく頼むという感じもあります。
 こうしてオオナムチはオオクニヌシと名前を変えたのだというのが『古事記』の語るところです。土の神、大地の神であるだけでなく、国あるいは国家を作り、そのヌシとなった神ということでしょう。ただ、このオオクニヌシというのは『古事記』に独特な名称で、私は『古事記』の作者が作った名前なのではないかと疑っていますが、ともかく、こうしてオオナムチはオオクニヌシとなりました。そして、オオクニヌシは、山の麓に館を建て、スセリ姫と暮らし、宝物をつかって日本の王となったということです。
 ご存じのように、『古事記』では、この館は出雲にあります。ですから、「根の堅州の国」と、この世の境目は出雲国にある坂だというのですね。これは考えてみると奇妙な話ではないでしょうか。つまり、『古事記』は、地下から脱出してきて、この世に来るには長い坂をくだってくるのだというのです。これはどういうことなのでしょうか。地下からこの世に脱出するときに長い坂を上ってくるのなら自然ですけれど、ここには逆に坂を下ってくるとはっきり書いてあるのです。
 私、考えてみまして、地下からでてきて坂を下ってくるというのは、火山の火口をでてきて、その山を下ってくるということ以外に考えられないと思いました。そして「根の国」というのを『古事記』だけが「根の堅州国」といっているのですが、この「堅州」というのは鉄の鍛冶屋さん、鍛冶の「鍛」の字をカタスとよみます。つまり、「根の堅州の国」というのは、地下の鍛冶場の国、火の国という意味であると私は考えています。
 出雲には伯耆大山や三瓶山があって火山地帯ですからぴったり話はあうのです。出雲の国の神話、つまりそれを出雲神話といいますが、この出雲神話はようするに地震と火山の神話であることになります。これが正しいとすると、出雲神話の解釈が大きく変更されることになります。それだけに、これはまだ専門家のうちで一人しか賛成してくれていませんが、ともかく、こうしてスサノヲは地震の神であるだけでなく、火山の神であり、それはオオクニヌシも同じことだろうということになります。最近は火山と地震についての報道も多くなりましたので、ご存じのことと思いますが、火山の噴火の前後には火山性地震といいまして、かならず地震があります。むかしの人にとっては火山の噴火と地震は大事件ですから、噴火と地震の関係は多くの人びとが知っていたに違いないのです。その意味でも、火山の神と地震の神は同じ神だというのは納得いただけるのではないでしょうか。

 以上を前提にして、この地震の神のオオクニヌシが日本でどのように祭られていたかという話に入りたいと思います。史料からわかる限りのことですが、地震の神が祭られた最初は、推古天皇の時代、五九九年(推古七)のことです。つまり『日本書紀』という歴史書によりますと、このとき、たいへん大きな地震がありました。『日本書紀』には大地がゆれて家がことごとく倒れてしまったとあります。「ことごとく」というのはすべてということですから、これは誇張があると思うのですが、ともかく相当に大きな地震であったといってよいのでしょう。この時は推古天皇が即位して七年目ですが、推古天皇のころの『日本書紀』の記述は、すくなくとも年代については信頼してよいのではないかと思います。
 『日本書紀』を読みますと、「地動りて舎屋ことごとくに破たれぬ」、つまり、いま申しましたように大地が揺れて、建物や家がすべて倒れたとあります。問題はそれにつづく部分です。読んでみますと「則ち四方に令して地震の神を祭らしむ」(『日本書紀』)とあるのです。大きな地震だったので、飛鳥からみて四方、東西南北に命令して地震の神、つまりオオクニヌシを祭らせたという訳です。
 私はオオクニヌシは出雲あるいはその近くの播磨国などに本来は縁の深い神であったと思いますが、相当早くから全国で祭られるようになっていると考えています。遅くとも、このときには各地で祭られたのは明らかでしょう。当時の人びとも日本の各地で同じ地震、同じ災害を経験した。そして、同じ神を祭ったということです。そして逆に、この地震によって同じ神が各地で祭られたのではないかということになりますと、相当の災害があったと考えてよいでしょう。
 もちろん、この時にどのようにオオクニヌシが祭られたのかということはよくわかりません。ただ、この時に祭られた地震の神の中にまず入っていたろうと思われるのが、吉野のオオナムチ神です。オオナムチ、つまりオオクニヌシの本来の名前ですが、この神を祭る神社は、吉野渓谷への入口、吉野川右岸の妹山の麓にあります。このイモ山というのは、歌舞伎の「妹背山女庭訓」をご存じでしたら、あそこにでてくる妹背山のうちの妹山にあたります。これは潮の水が湧くなどという伝説がきわめて有名であったためであろう。それでも今ではあまり有名ではないと思いますが、奈良時代から平安時代のはじめにはたいへん有名な神様で、平安時代はじめに日本全国の神様に朝廷から位を授けることになったとき、この神の位が正一位だというのですね。これは伊勢神宮を別とすれば、淡路国の伊佐奈岐命の一品に並ぶという別格の位の高さです。もちろん、ほかに正一位として藤原氏の祖先の神の天児屋根命がいますが、藤原氏の祖先の神の位が高くなったのは奈良時代のことだと思います。ですから、それより前は、この吉野のオオナムチの神が伊勢のアマテラス、淡路にいるイザナキについで全国で三番目の位置にある神社であることになります。いまでは奈良で一番偉い神様だとされているのはおそらく三輪山の大神神社だと思います。三輪山の神様はオオモノヌシといって、この神はオオナムチ、つまりオオクニヌシと同じ神様だといいますが、ただ、この奈良の三輪神社の神様は、従二位でしたから、吉野のオオナムチ神社の方が高いのです。朝廷のまつるオオクニヌシの神、オオナムチの神のご本家は吉野だったわけです。
 ただ、いま、吉野のオオナムチ神社といってしまいましたが、このころイモ山に神社があったということではありません。もちろんあるいは鳥居くらいはあったかもしれませんが、このオオナムチ神社は徳川の時代に神殿ができただけで、それまでは完全にご神体は山そのものだったといいます*1。これは奈良の三輪神社も同じです。しかもどちらもこんもりと丸く盛り上がった山です。こういう山の形をカンナビ型などといいますが、お椀か、お鉢を伏せたような形、あるいは富士山のような形です。同じような山として有名なのが比叡山の日吉神社の神の山です。牛尾山といいますが、ここにもスサノヲとオオクニヌシの縁の深い神が宿るということです。
 どうも、よくいわれますように、昔の人びとはこういう形の山に神が宿るとみたらしいのです。突飛なことをいうようですが、私は、これはこの形が火山の噴丘の形ににているためだと考えています。阿蘇火山の中には、円錐形のきれいな噴丘がありますが、ああいう山の形に昔の人は山の神の神秘をみていたのではないでしょうか。ああいう形は火山の噴火で岩や火山灰がふきでるとああいう形になる訳ですが、地震で地面から砂が吹き出た場合も、ああいう形の小山ができます。こういうことを昔の人は不思議だと思い、そこに土地、大地の神様の力をみたのではないかと思うのです。人びとが、そこに神がいるということをどのように認識したのか、神様を感じたのかということを考えると、こういうことになるのではないでしょうか。こういう火山の神、地震の神がオオクニヌシであったという訳です。

 そろそろ結論に近づいておりますので、もう少しおつきあいください。さて、最初に申し上げましたように、平安時代の初め頃の国家の記録に、摂津の菟原郡にある神社として「大国主西神社」という神社がみえます。これが西宮市の越木岩神社にあたるだろうと私は思うのです。つまり、大国主「西」というのが問題で、西があれば東があるわけですが、この「東」は吉野のオオナムチ神でしょう。つまり吉野のオオナムチの神と「大国主西神社」は東西一対の神なのではないかということです。これまで大国主西神社は三輪神社と一対のものだという意見もありましたが、三輪神社はむしろ都のそばで真ん中ですから、「東」ではなく、東西一対というのはいいにくいと思います。
 ともあれ、こうして「大国主西神社」は、やはり、吉野のオオナムチの神の山や三輪山の神の山の様子と似たものだろうということになる訳です。そしてそうだとすると、越木岩神社は、いかにもオオクニヌシを祭っているという風景をもっているのです。つまり、越木岩神社には大きな磐座、岩のまとまりがあります。越木岩神社という名前が、そもそも、甑、つまり米を蒸すセイロの形をした巨岩があることによるのですが、それのみでなく、北へ斜面をのぼる途中により大きな磐座があり、この線を北に延ばしたところにある北山の頂上にも磐座らしきものがあるといいます。そして何よりも重要なのは、その北北東に甲山という、まさに先ほど申し上げたような神のこもる山、見事なカンナビ型の山があることです。お椀かお鉢を伏せたような形、あるいは富士山のような形といいましたが、この山は火山の一部がそのまま地上に残って、こういう形になった山として地質学の研究者の間では大変に有名な山です*2。もちろん、火山として噴火したもは1200万年前といいますから、いわゆる死火山あるいはすでに死火山でもない火山のあとといってよいのかもしれませあんが、安山岩からなる岩山なわけです。奈良・京都などの都にもっとも近い火山地帯は出雲な訳ですが、この甲山は火山ではないとしても、都の人びとはオオナムチの雰囲気を感じていたでしょう。なにしろ、もう少し西へ行けば有馬温泉なのですから。出雲も伯耆大山と玉造温泉のセットがありますから。
 人びとは昔の人も、なぜここにだけ、六甲山の山の連なりからぴょこんと離れて、見事な円錐形のあんな形をした山があるのだろうというのを不思議に思っていたに違いありません。四〇年ほど前に甲山からはお祭り用の銅戈(どうか)が出土し、西宮市立郷土資料館に西宮市の指定重要文化財として所蔵されているといいます。古墳時代から(?)甲山は信仰の対象であったのでしょう。それは越木岩神社も同じであったに違いありません。越木岩神社から甲山のあたりは一体として一種の聖地であったのであろうと思います。

 私は五九九年の推古天皇の時代の地震ののちに吉野のオオナムチが地震の神として祭られたろうと申しましたが、以上に申し上げたようなことからいって、そのときほぼ同時に大国主西の神、つまり越木岩神社の神も祭られたに相違ないと思います。ただ、大国主「西」という名前は、もう一〇〇年ほど後にできた可能性が高いと思います。つまり、オオクニヌシという神の名前は、先ほど申し上げたように『古事記』に独特な呼び名で古事記の作者が作ったものです。神社の名前としてもこの大国主西神社を除いてはすべてオオナムチ神社となります。古事記ができたのは七世紀の後半以降ですから、ようするに一〇〇年後です。
 そしてその時代は天皇家はしばしば吉野に行った時代で、吉野は大きな聖地になりました。それと同時に対になる大国主西神社も崇拝されたのではないかというのが私の推定です。しかも、このとき、天武天皇の時代、六八四年にきわめて大きな地震がありました。つまり南海トラフ地震です。ご存じと思いますが、南海トラフ地震は、日本の太平洋岸を西から駿河湾の沖まで走っている海溝、プレートとプレートがぶつかっているところで起こります。この大きな地震は天武天皇に大きな衝撃をあたえましたが、しばらく後の天武の死去も、当時の人々は、そのためと考えた可能性すらあります。この地震のときも兵庫県は大きく揺れたにちがいありません。越木岩の神にもお参りする人が多かったでしょう。私は、そういう中で、この時に使われるようになった大国主という神の名前が、この神社に着けられることになったのではないかと考える訳です。人々は安全の祈願をしたのでしょう。昔も今も、この地震火山列島に住む人間の考えることにはそう大きな相違はないのではないかと思います。

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