タカミムスヒは天変地妖の神――折口信夫


 さて、タカミムスヒの神格を詳しく論ずることは予定される本論にゆずらるが、しかし、本章で、「天孫降臨」神話を扱うためには、この神の神格について一応の結論を述べておくことが便利である。
 タカミムスヒを「すべての物事を生成する霊威」とする宣長の見解は、神話を具体的に理解するにはあまりに抽象的過ぎて役に立たない。宣長の学問が日本がもった本格的な神学であることは先に述べたとおりであるが、その神話の理解は、神学的な抽象性が強すぎる。宣長の仕事には神話の生き生きとしたイメージを復元しようという意思を感じられないのである。
 それではこのタカミムスヒという神はどういう神なのかえば、これまでの諸研究の中でもっとも重要なのは、折口信夫が最晩年に展開した「ムスヒ神」論であろう。いうまでもなく、折口は民俗学者として知られるが、むしろ本居宣長――平田篤胤の正統をひく神道神学者として位置づけるべき研究者である。歴史学からみればその議論には無理が多いが、しかし、戦争を経験した後の最晩年の仕事には鬼気迫るような凄みと鋭さがある。
 下記は、折口が死の四年ほど前(一九四九年四月)に発表した論文「道徳の発生」(第四節、種族倫理から民俗道徳へ)の要点である。
「この神(高皇産霊のことーー筆者註)には、生産の根本条件たる霊魂付与――むすびと言う古語に相当する――の力を考えているのであるが、果たして初めから、その所謂産霊の神としての意義を考えていたかどうかが問題だと思う。産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていたばかりであった。それとは別な元の神として、わが国の古代には考えていたのではないか。これが日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、素朴な神観のもっとも近似している点である」(『折口信夫全集⑮、傍点筆者)
 つまり、高皇産霊(タカミムスヒ)の神の本源的性格は、「産霊の神=結びの神」であるというよりも、「既存者」であるところにあるというのである(なお、折口は産霊をムスビと読んで、その力を「結ぶ」「縁結び」に求めるが、タカミムスヒは万葉仮名では「多賀美武須比」と表記されるが、この「比」は音仮名としては必ず「ヒ」と清音に読むことが明らかになった。そのため産霊を「結びの神」と理解することは不可能となっている。『古事記伝』(『本居宣長全集』第九巻)の大野晋による補注を参照)。
 折口は、この「既存者」という言葉を神という概念が存在する前にすでに存在したものという意味で使っている。それは論文の他の個所では「至上神である所の元(はじめ)の神」と言い換えられている。元始の神であって概念としてはっきり存在するようになった神とは違うのであって、「至上神は、比較研究の立場からする時、神のない有様、神以外あるいは神以前の有様とみてもさし支えない」というのである。問題は、これがさらに具体的には「既存者は部落全体に責任を負わせ、それは天変地妖を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う。これは神以前の既存者のなすところである」とされていることである。ようするに「既存者=元(はじめ)の神=至上神」とは畏怖すべき自然神のことをいっているのである。それは自然の暴威がいわば「神以前」の素朴な観念において捉えられたものともいえよう。
 折口がこの「元(はじめ)の神=至上神」の例として「支那の天帝信仰」と「原始キリスト教的なえほば」を挙げていることも興味深い点で、よく知られているように中国の「天帝」は天災をくだす畏るべき神であり、ユダヤのエホバも畏るべき怒りの神(具体的には雷の神、噴火の神など)であった。「元(はじめ)の神=至上神」とはようするにこういう「天変地妖」の自然神だというのである。
 しかも、折口は次のように述べている。これも重要なところなので引用しておきたい。
 わが国の神界についての伝承は、其(元の神のこと――筆者注)から派生した神、其よりも遅れた神を最初に近い時期に遡上させ、神々の教えを整理したために、この神の性格も単純に断片化したものと思われる。だから、創造神でないまでも、至上神であるところの元の神の性質が、完全に伝わっていないのである。おそらく天上から人間を見膽り、悪に対して罰を降すこともあったのであろうと思う。ところが、天御中主、高皇産霊、神皇産霊の神々には、そうした伝えが欠けている。これはその点が喪失したものとみてよい。(傍点筆者、「道徳の発生」折口⑮三四五頁)
 折口の文章はわかりにくく、一読しただけでは何をいっているかわかりにくいが、これをわかりやすく書き直すと次のようになるだろう。
我が国の神話伝承は、それが整理されるとき、始源神(「元の神」)から派生した新しい神を取り立ててしまったために、始源神自体の性格が単純化し断片化してしまってわかりにくくなってしまった。『古事記』『日本書紀』には、始源神の創造神あるいは至上神としての姿はほとんど伝わっていない。この神は天上から人間を見守り、懲罰を下すような神であったはずであるが、それにあたる天御中主、高皇産霊、神皇産霊の神々などについての『古事記』『日本書紀』の記載には、そういう伝承が欠けている。
 つまり、『古事記』『日本書紀』などの伝える「天御中主、高皇産霊、神皇産霊」などの始源の神には、彼らが「既存者=始源の神」であることを明瞭に示す伝承が欠けている。それは「派生した新しい神」に隠されてしまったというのであるが、この「新しい神」というのは、ようするにアマテラスのことである。アマテラスを中心に神界の教えを整理したために、「元の神=至上神」の性質についての伝承が喪失したというのである。折口はもってまわった言い方をするが、ようするに『古事記』『日本書紀』は本来の始源神についての伝承を伝えず、アマテラスを中心にして物語を作ってしまったといっているのである。
 残念ながら、折口は、この「既存者=始源の神=天変地妖の神」の具体的なイメージについて十分に議論を展開する余裕のないまま死去してしまった。そして、この論点は後に引き継がれることなく、ほぼ忘れ去られていったのである。しかし、私は、この折口の議論は、タカミムスヒを論ずる際の「導きの糸」とするだけの意味をもっていると考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?