「人種」という言葉は使うべきでない。――アメリカと国民・民族・「人種」の定義

 アメリカは多民族国家であるが、その実態を知るためには、国民・民族・「人種」の三つの言葉の区別を正確にとらえておかなければ話が混乱する。まず第一の国民とは「ナショナルNatinal」であって、日本国憲法一〇条に「日本国民Japanese Nationalたる要件は法律でこれを定める」とあるように法律的な関係ということができる。具体的にいえば、同二二条に「国籍nationalityを離脱する自由」とあるように、国家の国籍、市民権であり、それによって法律の上で国家に所属するということである。だからそれは離脱可能な関係であるが、その意味ではそれは「幻想的共同体」、ベネディクト・アンダーソンの言い方を採用すれば「想像の共同体」であるということができる。

 社会には、この「想像=幻想」は、一種、神聖なものなのであって、人々がそこから離脱することは許されないという考え方がある。アメリカで典型的なのは、第四〇代元首レーガンが、アメリカ市民権は「わが国民のもっとも神聖な所有物」であると称したことであろうか。市民権とは「物」であって、しかも「神聖な所有物」であるという訳である。ここでは、紙に書かれていることは「約束」に過ぎず、物ではないという常識は通用しない。国籍とは法的な約束ではなく、執着したり、他人に誇ることができるような「物」であるというわけであって、こういう狭い執着心のことを「国家主義」という。

 もちろん、国家は現実の存在であり、そうである以上、国家の利益=国益というものは現実に存在する。それを別の国家が頭から決定することは許されないというのが、いわゆる自決の原則である。この自決権とは、本来は、第一次大戦の中でレーニンが「平和に関する布告」で述べた民族独立、植民地解放の要求であり、それがウィルソンの「十四か条の平和原則」の提唱に影響し、ヴェルサイユ条約での原則となり、さらに第二次大戦後に国連に引きつがれたものである。ただ現在では自決権というものは、国民国家を形成する権利を意味するだけではなく、同時にその国民国家が自己決定する権利であると理解されている。

 国連憲章(第1条2)に「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」とあるように、それは国際社会=国家間社会における民主主義の原則なのである。それらの国家の利害は異なっており、そこには正当なものも不当なものも存在するだろう。しかし、それを他の国家が判定することは許されない、国家間関係においては、相互に国益を認め、自決権を認めることこそが無用な衝突や戦争をさけるために必要であるという考え方である。

 この自決権の原語は、The Right of Nations to Self-Determinationであるが、日本では、普通、これは民族自決権と翻訳される。しかし、これは国民的自決権あるいは国民国家の自決権と翻訳した方がよい。ネーションという英語はたしかに民族というニュアンスももっているが、基本的には国家というニュアンスが強い。ようするに、それは国籍をもって法的に国家に所属する人々、つまり「国民」が他の「国民」からは自立して国家の意思を形成する権利(あるいはそれを要求する権利)意味するのである。

 次ぎに第二の「民族」について論ずる、

 もっとも古典的なものはジョン・スチュアート・ミル『代議制統治論』の定義で、ミルは、人種と血統、言語と宗教、さらに地理的境界などの共通性などを条件として歴史的な沿革によって生まれる協働と共感に結ばれた集団のことをいうと述べている。これはかってオーストリアの学者政治家オットー・バウアによりつつ述べた定義とほぼ同じものであって(阪東宏『歴史の方法と民族』1985)、基本的に依拠できるものであるが、もう少し述べれば、これは社会が様々な集団と共同体によって組織されていることを前提に生まれる。つまり、それらの集団や共同体は、必ず相互のネットワークのなかに自然的な共通性やそれにもとずく分業をもっている。そのまとまりが、ミルのいうように、激しい争闘、抑圧、迫害、戦争などの重たい歴史的経験の共通性と運命によって、協同意識をもち、その内部に公共圏や歴史文化を作り出した場合、それについて民族性が生まれたというのである。

 これは国民=ナショナリティとは違って想像上のもの(法的なもの)ではなく、きわめてアドホックな多様で状況的なものであるとはいえ、それなりの共同的利害をもった実在的な関係なのである。もちろん、その民族性がどの程度の広さと正統性をもつか、どの程度の強さや持続性をもつのか、現実は極度に多様であって、決して固定的なものではない。しかし、それはやはり一つの大きな共同体、共同組織なのであって、その意味では人類学のいう「エスニシティ」のことであるといってよい。

 なお、この民族の定義については、ソビエト連邦を全体主義化してヒトラーとともにポーランド分割を強行して第二次世界大戦を引き起こしたスターリンの定義なるものが有名である。スターリンの定義は右のオットー・バウアの仕事を利用して「民族とは言語、地域、経済生活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体である」と述べたもので(スターリン『マルクス主義と民族問題』)、その特徴は、この四つがないと「民族」とはいわないという点にある。しかし、ミルやオットー・バウアもいうように、これらの標識は固定的なものではなく、どれか一つの標識だけでは民族は成立しないが、逆にある標識が欠けても民族として存在することはありうるというのが実態である。言語学の田中克彦が言語の近接性は民族の必然条件ではないとしていることも注意したい(『言語からみた民族と国家』)。

 スターリンの図式は、近年にいたっても、学術的に何か意味があるような扱いをうけているが、それは「堅固な共同体=民族」にのみ自治と国家的自律の権利を与えることに眼目がある。つまり、スターリンは、この「民族の定義」をソビエト連邦内部において、その異民族・少数民族を「民族」として承認するかどうかの基準として提出しているのである。実際、スターリンの右のパンフレットは、たとえばラトヴィア人は民族ではないなどの恣意的な断定をしている。またユダヤ人についても、ロシア・グルジア・カフカーズ高地の異なる地域に住み、異なる言語を使っているから、単一の民族を構成しないと判定している。ユダヤ人はその広域的な地域間・共同体間のネットワークは否定され、その各居住地に同化させるほかないという訳である。これがスターリンによるユダヤ人に対する迫害と虐殺の原因となり、ひいてはイスラエル建国にあたって、多くのユダヤ民族がソビエト連邦から離れたこと、あるいはソビエト連邦が進んでユダヤ民族をイスラエルにを追い出す結果を導びいたことはいうまでもない。

 ようするにスターリンの定義は、いわば民族の行政的定義であって、そのエスニックな側面を無視することによって成り立っている。それは民族=エスニシティと国民=ナショナリティを区別しないのである。スターリンの論理でとくに問題なのは、「民族とは人びとの人種的な共同体ではない」として「ユダヤ人」を含む「ゲルマン人、エトルリア人、ゴール人」などの「ーー人」と表記した集団を例示していることである。つまり、スターリンは人類の生物学的な分類を民族の定義においてまったく無視するのが特徴である。ユダヤ人が、普通、「人種」といわれることは決して学術的に正確ではないとはいえ、ここにスターリンがユダヤ人を民族から排除したことの重要な伏線があったことは明らかである。

 多民族国家アメリカを考える上で、第三に定義をしておかなければならない問題は、いうまでもなく、「人種」(レースrace)をどう考えるかであるが、 この言葉はきわめて問題の多い言葉である。

 ユネスコは一九六七年にだした声明『人種および人種偏見についての声明』で「人類を『人種』raceに区分することは、因習的で恣意的なもので、それを何らかの段階秩序に結びつけることは許されない」と述べた。「人種race」という言葉の使用自体が人種主義racismへの感染を意味しているというのである。生物学の分類用語としての「種」は相互に融和・通婚できないという意味をもっているから、とくに「ヒトの種」を意味する漢語の「人種」という言葉を使うこと自体が、現在では、いわば無知の証明であろう。

 また「人種」と翻訳される英語のレースraceという言葉はスペイン語のrazaやイタリア語のrazzaにさかのぼるものであるが、本来は植物や動物をグループ化する用語であった。これが一七・八世紀にベルニエやリンネによって人間の集団に転用されたのであるが、問題は、彼らが「人種」というとき、もっぱら肌の色や顔かたちなどの人びとの見かけの相違が地球上にどう分布しているかを論じたことである。「白色人種・黒色人種・黄色人種」などという見かけを優先した分類が、そのなかから生まれたのであるが、しかし、これは現在のDNA解析を駆使した研究成果からいうと、科学的に無意味な分類、ナンセンスである。『老子』に「色に囚われれば何も見えなくなる」(一二章)とあるが、こういう囚われは、まさに因習的・恣意的なものでしかない。

 最近の分子人類学は、現生人類はアフリカに起原をもち、人類の地球全域への移動にともない、異なる地域環境への適応を遂げたことが明らかにした。肌の色や顔かたちなどは移動していった各地の自然条件におうじて遺伝子に生じた末梢的な相違にすぎない。哺乳類サル目ヒト科ヒト亜科ヒト属に属する現生人類(ホモサピエンス)は生物として完全に一体であって、むしろ人類の類的特徴はきわめて移動性が高く、環境に適応する能力をもっていながら生物的な一体性(相互理解と性的紐帯の強さ)を維持する点にこそある。分子生物学の尾本恵一(『分子人類学と日本人の起原』)はこれらの点をふまえて「人種」という用語は学術的にも破綻しており、使用すべきではないと述べている。

 そもそもリンネやブルーメンバッハなどの生物分類学者の仕事は、ヨーロッパが世界に進出し、世界各地の民族を「文明」の名において支配し、さらにはしばしば虐殺したり、奴隷化したりするのと同じプロセスで進んだ。ヨーロッパの博物学的な生物分類学は、それに対応する人種主義偏見を作り出したのである。人類の高い移動性・適応性は、本来は先述の「民族=エスニシティ」の相違、文化的・習俗的な相違を柔軟に受け入れる素地であったはずであるが、それが「身体の相違」であり、「生き物」としての相違であるとするところに他民族嫌悪(ゼノフォビア)・人種主義が発生するのである。

 こういうことからすると、結局、人類の分子生物学的分類をする場合にも「人種」という用語は一切使用せず、たとえばDNA系グループというような学術的に正確な用語を使うほかないだろう。これは人文社会科学にとっても深刻な問題であって、たとえば、マルクスも『資本論』で「労働の生産性は人種などのような人間そのものの自然と人間を取り巻く自然に還元される」「(世界には)すでに調査が行われた地域だけでもなお四〇〇万人の人食い人種が住んでいる」などと述べている(Ⅰ535)。もちろん、マルクスはダーウィンの見解にふれて、人類の間での性的な交流は差異を作り出すのではなく、むしろ種の典型的な単一性を作り出していく。差異を作り出すのは地質などの環境的自然であり、そのような自然的基礎の上に民族性も存在しているという趣旨のことを述べており、「人種」が環境の産物であることを認めている。しかし、上記のような記述が人種主義な偏見に満ちたものであることは明らかであり、この点でマルクスもヨーロッパ的な偏見のなかにいたのである(全集(31)248)。

 なお、以上からみると、先に見たスターリンの論理は、最悪の人種主義であることがわかる。前述のようにスターリンは「民族=エスニックグループ」を「国民となる資格をもつ民族」と、その可能性がない「人種的な共同体」に区別する。スターリンは、「ギリシャ人、エトルリア人、ゲルマン人、ゴール人、アラビア人」などから「ユダヤ人、ラトヴィア人」以下のロシア帝国内の「ーー人」と表記した集団を「人種的な共同体」とした上で、その中から「民族=国民」の資格あるものを選別するというやり方をする。ようするに特定のエスニック・グループを「人種あるいは種族」にすぎないという形で差別するのである。

 とくにユダヤ人の問題は大きかった。ユダヤ人は、DNA系グループとして独自なグループをなす訳ではなく、あくまでもエスニック・グループである。スターリンは、ユダヤ人について、ロシア帝国内でいえばロシア・グルジア・カフカーズ高地などの異なる地域に住み、異なる言語を使っているから、単一の民族を構成しない「人種」であるとした。ユダヤの人々の広域的な都市間・地域間のネットワークは否定され、その各居住地に同化させるほかないという訳である。この論理が直接に、後のスターリンによるユダヤ人に対する迫害と虐殺につながったことはいうまでもない。

 ソビエト連邦が旧ロシア帝国内から東欧に広がる多様なエスニックグループの自治と自決の権利をどのように保障し、民主主義的な地域間、国際間の関係を作り上げていくかは、現在までも尾を引く大問題である。一九世紀に大国化したロシアとアメリカは同じ問題をもっていたことになるだろう。

 よく知られているように、死去直前のレーニンはスターリンを「粗暴な大ロシア人主義者」と激しく批判し、石にかじりついても糺すと述べたというが、しかし、結局、スターリンの民族理論と人種主義は徹底的に批判されることなく過ぎたのである。

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