柳田国男と折口信夫の雷神論――日本神話の至上神タカミムスヒにふれて

 この文章は研究史に属することで、また折口の雷神論については『物語の中世』(講談社学術文庫)でふれたことがありますので、草稿ですが、公開します。


 タカミムスヒが雷神であるという学説は拙著『歴史のなかの大地動乱』をのぞいてこれまで存在しない。唯一の例外は柳田国男と折口信夫の見解である。もちろん、二人の見解はタカミムスヒが雷神であると正面から述べたものではなく、断片的で曖昧なものである。しかし、二人の意見は日本民俗学の豊かな視野を示すものであり、また「はじめに」でもふれたように、柳田・折口は本居・平田に始まった産霊神道の神学を受けついだ神道学者であるから、その見解は最大限重視しておきたい。
 まず、柳田は一九二七年に発表した論文「雷神信仰の変遷」において、かって「我々の天つ神」が雷神であった時代があるとしている。
かって我々の天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み、龍蛇の形をもって此世に留まりたまふものと考えられていた時代があったのである。それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもない。
(『定本柳田国男集』筑摩書房、九巻)。
 「紫電金線の光」とは雷光が暗黒の空を紫に染め、そこに金線を閃かせるということであり、「龍蛇の形」を地上に留まる神とは雷神である。つまりかって「天つ神」が雷神であると「考えられていた時代があった」というのであるが、重大なのは、柳田が「それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもない」としたことである。ここで「皇室最古の神聖なる御伝え」とは天皇家の皇祖神たる「天神」が天照大神であるという伝えであることはいうまでもない。それ故に、柳田はその以前に存在した本来の「我々の天つ神」は雷神であったというのである。
 もちろん柳田は天照大神に先行する「我々の天つ神」がタカミムスヒであるとは明言していない。柳田はしばらく前、一九二五年に発表した「炭焼小五郎が事」『定本柳田国男集』第一巻、筑摩書房)、初刊一九二五年)では賀茂別雷社の由来にふれて「天の大神の御子が別雷(わけいかづち)であって、後に再び空に還りたまふ」「此国のプロメトイスが霹靂神であった」と述べている。そこで柳田のいう賀茂別雷社の由来とは川を下ってきた「丹塗り矢」が人間の女を妊娠させ子どもを産ませ、生まれた子どもは男親を尋ねられた子どもは屋根を突き破って天空に飛翔し、自分の男親が天空の雷神であることを証したという神話である。後にも述べるがこの「丹塗り矢」は雷神の象徴であったことになる。ここからすると、柳田は本来の「我々の天つ神」は地上に火をもたらした霹靂神一般であると考えていた可能性もあるだろう。しかし、柳田は本居・平田がタカミムスヒを日本神話における本来の民族神としていたことは熟知していたから、天照大神以前の「天つ神」といえばタカミムスヒのことを頭においていた可能性も否定できない。
 ただ柳田はこれを詰めて考えて活字に残すことはしなかった。戦争の時代におけるアマテラス中心主義の皇国神話の盛行の中で、慎重な柳田は雷神が蛇であるとか、龍蛇が人間の女に通うなどという説話をもって「皇室最古の神聖なる御伝え」を否定することを避けた。柳田は対アジア・アメリカ戦争の後、折口との対談において「この間にいろいろ政治的な意図がありましたから、私は避けたのです」と苦々しげに回顧しているように(「日本人の神と霊魂の観念そのほか」二五六頁)、神話の直接的な研究を意識的に避けざるをえなかったのである。それでも柳田は一九三二年に刊行した著書『桃太郎の誕生』で、雷神=「光の蛇」が天の大神を父とし、「人間の最も清き女性を母とした一個の神子」を生まれさせたと論じている(『定本柳田国男集』筑摩書房)。これは結局、「天皇家」の祖先を雷神と考えるという趣旨である。その上で、柳田は同書において、「国の神話を歴史と言ってみたり」する世情の中では、これを神話論として検討するには時期は熟していないとしている。柳田としても一言だけは言っておきたかったのであろう。

 次に、折口についてはその出世作として有名な論文「髯籠の話」(一九一五年、全集②)が雷神についての重要な言及を含んでいることに注意しておく必要がある。この論文は、「神々の依りますべき木」は「標山中のもっとも神の目に触れそうな処、つまりどこか最天に近い高山の喬木など」であり、「其梢にきりかけ(御幣)を垂(し)でて祭る」としている。その御幣をそれらしくしたものが髯籠(竹の籠にヒゲをつけたもの)であり、最近ではみることは少ないが、以前は五月の鯉幟の高竿の上に付けられていた小さな竹籠のことを考えればいい。折口はこれを太陽の姿を写したものだとした。よく知られた「髯籠」=「日神の依り代」という見解である。
 ただ、折口の「髯籠の話」の冒頭は「避雷針のなかった時代には、何時何処に雷神が降るかわからなかったと同じく、いわゆる天降り着く神々に自由自在に土地を占められては、如何に用心に用心を重ねても、いつ神の標めた山を犯して祟りを受けるかもしれない」と始まっている。折口は、落雷避けるためにあたかも「敬虔なる避雷針」を立てるかのような心理をもって人は標山の領域を定めたのだという。そしてその標山に「最天に近い高山の喬木」「一本松・一本杉」などに「神々の依りますべき木」が定まった上で、さらに起こる問題は「雷避けが雷よびになって、思わぬ辺りに神の降臨をみることになると困る」ということであって、それを丁重にさけるために、しかるべき依り代を、たとえば「其梢にきりかけ(御幣)を垂でて祭る」などして設置するというのが折口の議論なのである。つまり、ここには髯籠=日神の依り代という以前に、より原初的で直接的な神の威力を高木への落雷とする柳田によく似た視点があったのである。
 この「髯籠の話」は一九一五年に発表されたものであり、前記の柳田の論文「雷神信仰の変遷」は一九二七年に発表されているから、柳田の指導をうけていた折口がアマテラス以前の神としての雷神という柳田の示唆に反応して、「髯籠の話」で書いた「雷避け」の話題を想起してもよさそうに思えるが、折口はその話を忘れていたように思える。この論文で折口が問題にしたのはアマテラスそれ自身の神格をどう考えるかという問題であって、折口は天照大神の本来の名前、大日■貴(オオヒルメムチ)のヒルメにとは「日の妻」となった巫女であるという議論に注力したのである。それはこの段階の折口がまだ深くアマテラス中心に皇国神話を理解する枠組みに囚われていたためである。

 しかし、一九四五年の敗戦は折口の議論を大きく変えた。折口は、一九四七年の論文「道徳の発生」(全集⑮)の第四節「種族倫理から民俗道徳へ」において、日神=アマテラスよりも古い「天御中主、高皇産霊、神皇産霊」などに対応する「至上神=元の神=既存者」が「部落全体に責任を負わせ、それは天変地妖を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う」のだとしている。これは少し長くなるが、全体を引用しておきたい(番号は筆者がつけた)。

(1)この神((タカミムスヒ))には、生産の根本条件たる霊魂付与――むすびと言う古語に相当する――の力を考えているのであるが、果たして初めから、その所謂産霊の神としての意義を考えていたかどうかが問題だと思う。産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていたばかりであった。それとは別な元の神として、わが国の古代には考えていたのではないか。これが日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、神観――素朴な――のもっとも近似している点である。
(2)わが国の神界についての伝承は、其(元の神のこと――筆者注)から派生した神、其よりも遅れた神(アマテラスのことー筆者注記)を最初に近い時期に遡上させ、神々の教えを整理したために、この神の性格も単純に断片化したものと思われる。だから、創造神でないまでも、至上神であるところの元の神の性質が、完全に伝わっていないのである。
(3)おそらく天上から人間を見膽り、悪に対して罰を降すこともあったのであろうと思う。ところが、天御中主、高皇産霊、神皇産霊の神々には、そうした伝えが欠けている。これはその点が喪失したものとみてよい。人間にとって、利益でない神の感覚を迷惑だと思った人々は、そういう知能を持つ神を、悪神と思うようになった(中略)。
(4)既存者は部落全体に責任を負わせ、それは天変地妖を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う。これは神以前の既存者のなすところである。而も天帝も、えほばも亦、こうした威力ある既存者であったのである」(一九四七年「道徳の発生」『折口信夫全集⑮、傍点筆者)

 番号の順に要約すると以下のようになる。(1)これまでタカミムスヒ神には「むすび」という産霊の力を考えてきたが、むしろ「既存者」「元の神」というべき存在であって、それは琉球・台湾・南方諸島の素朴な神観と同じものである。(2)『古事記』『日本書紀』を作る段階で、本来は派生した神であったアマテラスを中心に神界の教えを整理したために、「元の神=至上神」についての伝承が喪失した。(4)天御中主、高皇産霊、神皇産霊などの神々、つまり「元の神」は天変地妖を降すような至上神であった。これは中国の「天帝」やユダヤのエホバと同じことである。
 これは「種族倫理から民俗道徳へ」という節の表題が示すように、民族道徳の伝承が整理される前のより元始の段階の「種族倫理」を表現するものとして、「元の神」を論じようとしたメモであるが、そこで「元の神」の威力が、「大風・豪雨・洪水・落雷・降雹」などの「天変地妖」と捉えられているのが重要である。この中に落雷があるのに注意したい。もちろん、折口のいうことは十分な明瞭さを欠く、しかも、折口は前述のように、この論文「道徳の発生」を一九四七年に発表した二年後には、タカミムスヒを伊勢神宮の荒祭宮に祭られた男性太陽神であるともしており、折口の議論は動揺の中にあった。しかし、短い断片的な記述ではあるがタカミムスヒに「雷神」としての性格をみたことは、「髯籠の話」と比較したとき、折口の発想を示すものとしてやはり注目しておきたい。

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